脱領域とは何か。どんな領域から脱しようというのか...
人間性からの脱皮か。理性からの逃避か。実存主義からの脱却か。価値や実体は仮想空間に追いやられ、存在の何もかもが曖昧になっていく。精神の存在ですら実感できずにいるのだ。
それでも人間は、自我との対決を強いられる。もっとも手強い相手に真っ向から立ち向かわねばならぬ。だが、人間にそんな度量はない。こんな無防備な状態で、頼れるものと言えばなんであろう。やはり言葉か...
今、コンピュータ科学の洗練度に反比例するかのように、人間の定義が曖昧になっていく。多くの人は、何かから脱したいと、おぼろげに考えているようだ。それは現代社会が、なんとなく息苦しいからか。ストレス社会で現代人を蝕むもの、その正体も見えず、ただもがく...
かの言語学者チョムスキーによれば、言語現象は人間独自のものらしい。それどころか、人間を規定するものとする言語学者も少なくない。文学や詩学に限らず、芸術、音楽、数学、科学、技術など、あらゆる学や術が言語や記号によって成り立っている。そして、その記述法は時代とともに変化していく。
今日、AI で持てはやされる「生成文法」の概念は、もともとチョムスキーに発する。ア・プリオリな能力として。つまり人間は、「言葉によって生成する」動物というわけである。
ジョージ・スタイナーは、チョムスキーの唱える言語能力の視点から、人間というものを問い直す。彼はチョムスキーに同意しておきながら、その言語学の束縛からも脱しようと...
尚、由良君美ほか訳版(河出書房新社)を手に取る。
言語現象は、文化や環境と深く結びつく。英語で思考すれば、そのプロセスは英語的となり、日本語で思考すれば、そのプロセスは日本語的となる。こうした思考プロセスに、第二言語や第三言語に触れる意義が生まれる。
確かに、人間は言語を用いて思考する。が、言語を超えた領域にも知がある。言語の限界で思考を試みる達人たちは、新たな造語を次々と編み出す。まったく人騒がせな。おいらは、ア・プリオリやらエントロピーやらといった用語をなんとなく感覚で捉えていても、自分の言葉でうまく説明できないでいる。言語現象で人間を規定できるというなら、言語運動のみで理性を保つことができそうなものだが、それも叶うまい...
印刷技術の発明が、人々の目線を移す。作者から書物へ。古代の歴史は写本の写本で受け継がれ、ルネサンス時代の芸術は模倣の模倣によって磨かれた。やがてラジオやテレビが影響力を持ち、さらにソーシャルメディアが猛威を振るう。そして、模倣から猿真似へ、猿真似から拡散へ。巷には、非人間的なメッセージに溢れ、広告の嵐が吹き荒れる。
かのマルクスは「歴史は二度繰り返す。最初は悲劇として、二度目は喜劇として...」と語った。コピーのコピーもまた冷笑たる喜劇か...
「いまや、われわれは深刻な変化の過程のなかにいる。時間と個のアイデンティティーの不安定な過渡的状態、自我と肉体的死亡の不安定な過渡的状態は、言語の権威と範囲とに影響を与えるだろう。もしもこれらの歴史的普遍概念が変化し、知覚の統語論的基礎が修正されるなら、伝達の諸構造もまた変化することになろう。変形のこのレベルから眺めるならば、議論百出の的であった電子メディアの役割云々など、ただの前駆症状であり先駆にすぎなかったものになるだろう。」
本書はまず、四つの作家論を通して、脱するに足る領域を見定める。それは、ウラジーミル・ナボコフ論に見る母国語からの脱却、サミュエル・ベケット論に見る荒涼たるモノローグに彩られたヴィジョンからの脱皮、ホルヘ・ルイス・ボルヘス論に見る鏡に映し出された自己閉塞感からの逃避、ルイ=フェルディナン・セリーヌ論に見る人種主義や民族主義からの解放、といったところ。
美化された母国語にしても、偏狭な世界観や価値観にしても、過剰な自己認識にしても、愛国心に憑かれた優越主義にしても、人間を屈折させるに充分。脱領域の精神は、多種多様な他の領域との接触に始まる。
次に、脱領域のための重要な知的活動に、音楽、数学、チェスの三つを挙げている。音楽は音素を操り、数学は記号を操り、チェスは論理を操り、これらの調和とハーモニーをもって知を高めるという。そして、バッハの風景に染まった対位法に、オイラーの純粋な多面体方程式に、チェス盤(個人的には将棋盤)の正方形に幽閉された世界に癒やされる。
また、人間というものを言語機能から紐解こうとすれば、文学論を避けるわけにはいくまい。アリストテレス風に詩学と文節の調和を論じ、プラトン風にメタファーの効能を語り、言語とアイデンティティの深い結びつきを探求し...
文学作品は思考の材料を与えてくれる。この新たな思考体験は文法と語彙に制約されるが、達人の言葉使いに刺激され、そこに名言や格言が生まれる。
だが、その逆もしかり。集団的暴力は言葉によって操られる。人が嘘をつくことができるのも、言語能力のおかげ。他の動物に嘘や偽りといった概念があるかは知らん。獲物を獲得するために周囲に身を隠す術も偽りの行為と言えば、そうかもしれんが...
さらに、言語革命を科学革命になぞらえる。ついに、科学によって言語学の領域から脱するか。しかしながら、科学は万能ではない。構造的な分析にしても、還元主義の堂々巡り。学問の越境が革命の突破口となるだろうか...
「科学革命とは、いわば移行運動を行なうようなものだ。甲という主要な知覚の扉・高い窓をあとにして、乙という扉や窓に、精神が向ってゆく。すると風景はまったくあらたな視界のなかに見え、いままでとは異なる光や影のもとで、あたらしい等高線と短縮法のなかに見えてくる。これまで顕著だった様相が、いまや第二義的なものに見えてくるというか、あるいは、いっそう包括的な形のなかの、ただの要素として認識されてくる。これまでは見落されてきたり、たまたまひとつに括られていた細部が、支配的な焦点をおびてくる。世界のグリッドが一変するわけなのだ...」
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