2014-02-09

"怒りについて 他二篇" セネカ 著

セネカをもう一冊...
本書には、「摂理について」、「賢者の恒心について」、「怒りについて」の三篇が収録される。その流れは、まず、自然の摂理によって生じる災難を試練と捉えた運命論を語り、次に、人間社会で受ける不正や侮辱に対抗する恒心を語り、最後に、最も心を乱す怒りの情念に対処する方法論を語る。徳(とく)がちょいと濁ると、毒(どく)となる。道徳(どうとく)を盲目(もうもく)に崇めれば、猛毒(もうどく)となる。これらの語の音律が似ているのは偶然ではないのかもしれん...

ストア派哲学者として知られるセネカは、カリグラ、クラウディウス、ネロという言わば病的で狂乱的な皇帝に仕え、ついには謀反の嫌疑で自裁を命じられる。政界には暗殺や陰謀が渦巻き、いかに毒された時代であったか。それはタキトゥスの批判的叙述を読めば想像に易い。社会の退廃は、思想家の間で道徳観念を優勢にさせる。ストア学派もまた、ローマ帝国にありながら、ポスト・アリストテレスの流れを汲むヘレニズム調の一派として育まれていく。そして、古代ローマ社会にとって、ストア学派はキリスト教の受容の素地となったとも言えそうか。社会の退廃を目の当たりにすれば、人間は誰しも愚痴っぽくなり、説教じみてくるものかもしん。賢者といえども...
ただ、あまりに完全無欠の賢者モデルが提示されると、こそばゆい。エピクロス派を非凡な義務を負わせていると批判して、凡人を導くものでなければ... などと語られるが、やはり凡人未満はストア派になれそうにない。尚、あるパブにセネカさんという女性がいると聞くと、そちら方面のセネカ派にはイチコロよ!

さて、心を最も乱す情念といえば、怒りであろうか。そのシンプルな形は復讐心として現れる。他人から不幸を被れば、倍返ししたいというのが人情。おそらく、法律の実践において最も機能するものが、復讐の及ぶ範囲の規定であろう。古くから、復讐行為に制限を与える法律が実践されてきた。ローマの十二表法では、怪我を負わせた者に対して同じ程度の復讐が許され、ハンムラビ法典には、目には目を歯には歯を... といった記述が見られる。武士の時代に仇討ちが合法化されたように、騎士の時代にも決闘の法慣例がある。いずれも同等の報復まででチャラにし、報復が無限に及ぶのを禁じようとするものである。
セネカは、怒りを不正に対する仕返しの欲望であるとしている。しかも、衝動ではなく、きちんと判断した結果であると。だからこそ、陰湿な陰謀といった行為に及ぶ。しかしながら、不正を規定することは難しい。誰もが都合よく解釈し、巧みに主張する者が勝つ社会となれば、正義が不正に加担することになる。怒りの情念は狂気の類いであり、些細な理由とて一旦激怒すれば、正義も真理も見分けがつかない。動物にも、衝動、狂暴、獰猛、攻撃性はあるが、それは怒りではない。動物には不正の概念がないからだ。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。セネカは、怒りが存在しないのは奢侈がないのと大差ないという。ただし、ある種の快楽に対しては人間よりも無抑制ではあるけれど。
動物には、徳が認められなければ悪徳も認められない。となると、徳だけを持ち、悪徳を持たない人間なんて存在しうるのか?有徳者たちは悪徳にも優れているということか?だから、恥ずかしげもなくモラリストを演じていられるのか?慢性的に恐怖や不安を抱えていれば、その反動で怒りっぽくなり、最も動物性の強い情念を剥き出しにする。だが、怒りも捨てたもんじゃない。自己への怒りとなれば、自省自戒の念へと向かわせるだろう。やはり、怒りは排除すべきものとするより、自然の情念として受け入れ、抑制する手段を考えた方が良さそうである。
そこで、セネカは、生を浪費する人間どもに、時間と死の概念を伝授する。怒った相手には、議論を持ちかけるのではなく、考える猶予を与えること。怒った自己には、生の果敢なさ思うこと。
「何にもまして有益なのは、死の定めを思うことである。」
いかに生を浪費させているかを知り、時間を克服し、存在を克服することこそが、心の平静を取り戻す極意というわけか。
しかしながら、怒りと同様に手強い情念がある。愛こそが、人々を盲目にする恐るべき相手だ。大衆の盲愛が個人崇拝に及べば、残虐な行為ですら命じられるがまま。しかも、自己が制御不能に陥っているにもかかわらず、自由意志で行動していると信じ込む。したがって、怒りに愛が結びついた愛憎劇ほど、最も過酷となろう。憎しみを快楽にしてしまうだけにタチが悪い!
「怒りが自然に即しているかどうかは、人間を観察してみれば明白だろう。心のあり方が健全であるかぎり、人間より穏やかなものがどこにあろう。だが、怒りより過酷なものがどこにあろう。人間以上に他者を愛するものがどこにあろう。怒り以上に憎むものがどこにあろう。人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破滅のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため、進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく。だから、この獣じみた危険この上ない悪徳を自然の最善にして完全無欠の業に帰す者ほど、自然を理解していない者がどこにいよう。」

1. 摂理について
摂理が存在しながらも、なぜ善き人に災厄が降りかかるのか?自然の摂理とは、無作為にカオスから生じた結果でしかなく、そこには秩序は存在しないのか?宇宙のクラスタ化とは、いわば地方自治における秩序のようなものが自然に形成された姿ではないのか?なぜ、銀河団、太陽系、あるいは地球という単位で秩序らしきものが生じるのか?しかし、地球上にも不規則な現象が生じる。突然の嵐、炸裂する稲妻、怒り狂う火山、滑り落ちる地面、押し寄せる高波... 自然は人間にとって都合のよいものばかりではない。普段は神との和解によって、平穏が保たれているものの...
善き人という定義も難しい。人間社会にとって善き人でも、自然にとってはどうなんだろうか?正義も、道徳も、理性も、知性も... 精神の持ち主の気まぐれや退屈しのぎに過ぎないのかもしれん。精神の鍛錬と解釈すれば、悪もまた善に転換される。質素な生活が不憫とも言えないし、惨めに見えても本人は楽しんでいるかもしれない。一方で、裕福に暮らしてもなお自殺しおる。
「何にせよ度を過ぎれば害になるが、節度なき幸福は何より危険である。脳を揺さぶり、心を虚ろな妄想へ誘い込み、偽りと真実の中間の靄を大量にまき散らす。徳の支援の下に絶えざる不幸を凌ぐほうが、はてしない度外れの善で破裂するより、どれほどましなことか。断食の死のほうが楽である。食いすぎは破裂させる。」
自分に何ができるかは試さずに分かるはずもない。若い時の苦労は買ってでもせよ!と言うが、年を取っても悟れなければ、旅を続けるしかないではないか。寿命が延びれば、親より子供の方が先にあの世へ逝くケースも珍しくない。年齢は抽象化され、定年なんて概念も吹っ飛ぶ。
「私は信じる。不幸に遭わなかった者ほど不幸な者はいない。自分を試すことが許されなかったからだ。」
ストア派は、宇宙が究極的な善によって設計されているという一元的な理性主義の立場をとる。この宇宙原理を神と解することも容易いので、キリスト教とも相性が良さそうである。とはいえ、人の世には不合理が充満する。賢者ソクラテスですら名誉を汚され処刑された。弟子たちが脱走を促したにもかかわらず、国家の名の下で裁かれる方を望んだのだ。彼の意志が、能動的か受動的か、見解が分かれるところであろう。セネカは、能動的試練と捉えている。世間から不正や侮辱を受けても、いかに対処し不動心を会得するか、これを問うている。理性ってやつは、権威や名声なんぞに左右されないものらしい。
「成功は民衆や凡才にすら訪れる。だが、死すべき者を襲う危機と恐怖を打ち倒し、敗北の軛の下へ送り込むのは、偉大な者の本分である。実際、いつでも幸せで、心の苦しみを知らずに人生を送るのは、自然の今一つの部分を知らないでいることである。」

2. 賢者の恒心について
「賢者は安泰である。いかなる不正にも侮辱にも動じない。」
ソクラテスの精神「善く生きる」が、継承された作品ではあるが、どうも説教じみて聞こえる。というのも、賢者は一切の悪徳を持たないので、悪を受けることも、不正を受けることもないというのだ。しかし、ソクラテスは不正を受けて処刑されたではないか。当時のローマの愚暗な風潮から、悪徳を徹底的に糾弾せずにはいられなかったのか?侮辱という人間社会の軋轢や、集団的悪魔を風刺したような皮肉も見られる。おまけに愚痴ぽい。
「われわれは、途方もない浅薄さに至った結果、苦痛はおろか、苦痛の想念に悩まされている始末である。実に幼稚だ。」
不正が悪なくしては存在せず、悪は卑劣さなくしては存在しないとすると、おまけに、卑劣さが高潔さによって占められているところに到達できないとすると、不正が賢者にまで届く道理がないという。
「賢者は怒りを知らない。怒りを駆り立てるのは、不正の様相である。だが、怒りを知らないことは、不正も知らないのでなければ、ありえない。」
しかしながら、誰の威信も傷つけず、身体も傷つけず...という人間が存在するだろうか?社会競争に自身が曝されれば、人が生きるということ自体、誰かを犠牲にしていることにならないのか?賢者は、自分に不正が及ばないことを知っており、それゆえに自信と歓喜に満ちているという。
では、いつも憤慨している有識者や有徳者たちは、賢者とは程遠いというのか?これは納得!侮辱に動かされる者は、自らの内に何ら思慮も自信もないことを暴露しているという。賢者は、そうした心痛や不愉快の感情など、克服するどころか、感じすらないという。鈍感ってことか?不正も侮辱も感じないとすれば、復讐心も生じようがないので、人を罰する立場にはうってつけであろうけど。政治家どうしで罵倒し合い、社会に不快感をまき散らすのは、賢者でない証というのか?これも納得!
では、最高の徳の持ち主とされる政治指導者たちが賢者でないとすれば、どこに賢者がいるというのか?政治とは無縁な僧侶の中にいるというのか?お布施でベンツを乗り回すような、あるいは、神の代理人と自称する者か?どうりで、自信満々に理性を振りかざし、説教したがる輩が大勢いるわけだ。善が人間の本性なら、悪もまた人間の本性。超人でもなければ、完全に不正を断ち切ることなどできまい。悪徳の蔓延る社会が住みづらいのは確かだが、賢者ばかりの社会も窮屈そうである...

3. 怒りについて
社会の幸福を損ねる筆頭がローマ皇帝とすれば、権力抗争で皇帝自身が侮辱の餌食となる。総督、裁判官、民衆までも追従しては、狂気の沙汰よ。怒りは懲罰に貪欲で、自然本性は懲罰を愛好しないという。怒りを、復讐心に限定すれば、そうかもしれない。だが、有徳者や理性者ほど、罰則を強化せよ!と主張するではないか。管理や監視を強化したがるではないか。
怒りは、嫉妬からも差別意識からも生じる。見下した者が自分より賢い行為をなせば、腹立たしくもなる。エリート意識の類いだ。どんなに優れた法案であっても、政治家自身が主役になれなければ、抵抗勢力に成り下がる。自分が介在できなければ、他人の幸せまでも邪魔をする。怒りが自己愛からも生じるとすれば、賢者には自己愛がないというのか?
やはり、怒りとて必要ではなかろうか。自分への嘆きが怒りとなって、自己の欲望を抑制するところがある。怒りは、判断から生じるのか?衝動から生じるのか?ストア派の見解では、心が賛同しているとしている。不正を被って、復讐を熱望するということは、立派に判断が下されていると。ただ、深い思慮の下での判断かは別だが。他人の悪徳に依存するというくらい馬鹿馬鹿しい生き方もなかろう。絶えざる憤怒と憂いのうちに過ぎていく人生なんて。
しかしながら、非難すべきことを目にせず、憤慨せずに済む、なんてことがありえようか。仮に衝動だとしても、それがなければ退屈しそうである。つまらぬミスをした自分に、憤慨することがよくある。反省ではなく、怒るのだ。だから、また同じミスをやる。怒りは、嘘つきや悪賢さに比べれば純真に見える。だが、セネカはそれは純粋ではなく無分別だとしている。愚者、浪費家、放蕩家の類いか。
「怒りは贅沢より悪い。なぜなら、贅沢が堪能するのは自分の快楽であるのに対して、怒りが楽しむのは他人の苦しみだからだ。怒りは悪意と嫉妬を打ち負かす。それらは相手が不幸になるのを欲するのに対して、怒りは不幸にするのを欲するからだ。」
セネカは、怒りに対する処方箋を二つ提案してくれる。
一つは、時間の概念。怒りっぽくなったら、相手にも自分にも猶予を与えること。つまり、遅延だ。時間の役割は、なにも面倒なことを先送りによって安心するためのものではあるまい。時間の収支は常に赤字で、期限に追われ、機嫌を損なう素となる。人間社会では、なんでも早く片付ける事が善とされる。仕事、スポーツ、コンピュータ処理、速読法... これに速愛法を付け加えておこう。それもそのはず、生きる時間が限られているのだから。ただ焦っているだけという見方もできるか。愛する二人は、時間が止まってほしいと願う。それもそのはず、別れる運命を暗示しているのだから。
「怒りの最初の発作を言葉で鎮めようとしてはならない。耳が聞こえず、正気でないのだから。怒りに時の猶予を与えよう。緩和してきたとき、治療はよく効く。目が腫れ上がってる時は手当てを控え、力が冷えて固まっている時、動かすことで刺激する。他の疾患でも、激しい時は同様である。病気の初期段階は安静が癒してくれる。」
二つは、死への想い。永遠の生を承ったかのように怒りを宣言し、束の間の人生を霧消させる。自己の気高い喜びの時間を放棄し、他人の苦痛と呵責に費やす。そして、振り返れば、死が迫っている。
「今後は未熟な者たちと衝突しないようにしたまえ。これまで何も学んでこなかった者は、学ぶことを欲しないものだ。彼には必要以上に自由に説教した。そのせいで、君は彼を改善できす、気持ちを傷つけた。今後は、君の言っていることが真実かどうかだけでなく、聞かされる側が真理に耐えうるかどうか、気をつけるがいい。善き人は注意されるのを喜ぶが、だめな人間ほど教導者の言葉を悪く受けとるのだ。」

4. アリストテレス論
アリストテレスは、怒りの情念を必要とした。それなくしては戦闘は不可能だし、精神と意気に火をつけることもできないと。ただし、それは指揮官ではなく、兵士に必要だとしながら。対して、セネカはこれを誤りだとしている。怒りの特性は頑固さであるが、勇敢さは怒りから生じるものではないと。理性に基づく怒りは、もはや怒りではないということか。
ちょいと、アリストテレスを弁護するなら...
怒りによって描写できる芸術というものがあろう。怒りが制御可能なほど小さい分には、大した問題になるまい。怒りに歯止めをきかせることこそが問われるべきではないか。人間が具える自然の情念を抹殺するとは、神経を切断するようなものではないか。一つの情念を抹殺すれば、別の情念を暴走させ、精神を歪ませることになりはしないか。もっと言うならば、抑制能力を身につける上でも、怒りは必要なのではないか。実際、自然の摂理に対しては、現実を受け止めて試練とせよ、と語っていたではないか。怒りは、人間にとって本当に自然本性的なものではないのか?怒りに対して抑制力を身につければ、あらゆる情念の暴走をも、自己への怒りとして抑制することができるのではないか。これが調和、すなわち、中庸の原理というものではあるまいか...
そもそも、人間精神は常に正気でいることの方が難しい。自己を完全に制御することは不可能であろう。目に見える身体ですら、血液の流れを止めたり、心臓の鼓動を自由に止めたりはできない。ましてや目に見えない、実体があるのかも分からない魂を完璧に制御するなど...

5. 僭主弑殺者の逸話
「怒りについて」で紹介される僭主弑殺者の逸話は、どこかで読んだような気がするのだが、ゼノンのパラドックスの類いであろうか?記憶が定かでない。それは、怒りが僭主をして僭主殺しに手を貸すというお話...
アテナイ王ヒッピアースの暗殺に失敗した者が捕らえられた。共謀者を白状するよう拷問にかけると、王の周りに立つ友人たちと、王の安全を大事にしている人々の名前を挙げていく。ヒッピアースは、名前が挙がる度に一人一人殺すよう命ずる。そして、まだ誰か残っているか?と尋ねると、後はお前一人だ!お前を大事にしている者は一人も残さない!と答える。己の防護を、己の剣で抹殺したのだった...
この逸話は、エレアの哲学者ゼノンに関わるものとされるそうな。
対して、アレクサンドロス大王は豪気だ!侍医ピリッポスの毒に気をつけるよう忠告されても、恐れもせず杯を受け取り、友人を信頼する自分を信じて怒りごと飲み干したのだった...

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