2025-08-10

"文芸批評論" T. S. Eliot 著

今宵、T.S.エリオットのアンソロジーに、してやられる...
批評論はありがたい。批評対象となる作品群が、そのまま目録となる。批評する価値もなければ、取り上げはしまい。ただ、原作と批評の間のギャップを埋めるのは、読者自身でしかない...

尚、本書には、「伝統と個人の才能」,「完全な批評家」,「批評の機能」,「批評の実験」,「批評の限界」,「宗教と文学」.「形而上詩人」,「アーノルドとペイター」,「パスカルの『パンセ』」,「ボドレール」の十篇が収録され、矢本貞幹訳版(岩波文庫)を手の取る。

エリオットは、どんな詩人も、どんな芸術家も、その人だけで完結した意義を持つ者はいないと主張する。過去の芸術家との間で対照し比較することは、ただ歴史的批評というだけでなく、美学的批評の原理であると...
偉大な芸術作品は、それだけで理想的な体系を整えているかに見える。だが、その完成度の高さにもかかわらず、解釈となると時代とともに変化していく。過去に批判された作品が現在では賞賛されることもあれば、その逆も...
偉大な芸術家たちは気の毒だ。ソーシャルメディアが旺盛となり、自己主張を強める現代人が優勢となるは必定。そして、いつまでも欠席裁判を強いられる...

「ある人は言った... 現代のわれわれは過去の作家たちよりもはるかに多くのことを知っている、だから過去の作家たちはわれわれから遠く離れたところにいる... まさにそうである。しかもわれわれの知っていることというのは、その過去の作家たちのことなのである。」

現在と過去の関係を断ち切ることは難しい。それは、人間の認識能力が記憶に頼っているから。現在は過去によって導かれ、過去もまた現在によって修正されていく。それは、秩序の問題でもあろう。文芸と批評の関係も、この原理に従う。
自分の制作に没頭できる者だけが、芸術家たりうる。となれば、芸術を批評する者もまた、そうした資質の持ち主なのであろう。文学を批評するには、文学的センスを持ち合わせていなければ...

「批評には限界があって、ある方向でそれを越えると、文芸批評が文学的でなくなり、また別の方向でそれを越えると、文芸批評が批評でなくなる。」

なにゆえ、人は批評を好むのか。自己確認か、自己強調か。いずれにせよ、自己の存在意識と深く関わる行為であることは確かなようである。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が自己を知るには、他者との比較から試みるほかはない。
ただ、もう少し正確に言えば、人は批評よりも批判を好む。論争を好む。さらに揉め事を好む。おまけに人は、他人への攻撃を外野席から観覧するのを好む。遠近法ってやつは、芸術だけでなく、批評にも必要な視点のようである...

「文芸批評で理解ということばかり重んじていると、理解から単なる説明に滑り込む危険がある。その上、そんなことはあるはずもないのに批評をまるで科学のように扱う危険もある。また享受の方を重んじすぎると、主観的、印象的傾向に陥りやすく、享受は単なる娯楽や気晴らしぐらいにしかためにならないだろう。」

巷には、批評論や試論といった類いの書が溢れている。そのために作品に直接触れず、手っ取り早く解説書に走っちまう。大作となれば、尚更。それで要点だけを掻い摘んで批評するといった悪趣味も生じる。批評の多くは、解釈することを主とする。それで誤った解釈や解釈不能といったことも生じる。批評では様々な意見が錯綜しそうなものだが、伝統的に凝り固まった批評もある。そして、詩人の批評は散文に荒らされる。
詩人エリオットの憂いが、こんなところに... 彼は、過ぎ去った時代や世代を正しく評価することはできないという。批評という行為は実験的にならざるを得ないと。これに 付け加えて、人生すべて実験としておこう...

「われわれが人間である限り、われわれのすることは善か悪かのどちらかに違いない。また善か悪かをする限り、われわれは人間である。逆説的な言い方だが、何もしないよりは悪をした方がよい、少なくともわれわれはそうして生きているのだ。人間の栄光は救済をうける可能性だということは本当だが、その栄光は罰をうける可能性だということもこれまた本当である。政治家から窃盗にいたるまでたいていの悪人について言えるいちばん悪いことは、この悪人たちが永劫の罪をうけられるだけの人間でないということだ。」

本書は、パスカルの「パンセ」にも触れているが、これほど批評の対象とされる書も少なかろう。神の存在や永遠の沈黙をめぐる議論は、ヴァレリーも参戦していた。文才という人種は、文才に釣られて何か言いたくなるものらしい...

「科学者と誠実な人間と、神を求める熱情を持った宗教的性質とが正しく結合したから、パスカルというユニークな存在ができたのである。パスカルはデカルトが失敗したところで成功している。デカルトには幾何学的精神の要素が多過ぎるからだ。この本の中でデカルトについてのべた少しばかりの言葉を見ると、パスカルは弱点を正しく指摘している。」

ボドレール論も、やや辛辣ながらなかなか。ボドレールは「未完成のダンテ」とも呼ばれているそうな。
ダンテを愛読する人の多くは、ボドレールも愛読するとか。
ここでは、「おくれてきたゲーテと言ったらもっと真実に近いだろう」と評される。

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