情報告発サイト「ウィキリークス」は、戦争日誌や外交公電など各国政府の機密情報を続々と暴露してきた。ただ、そこに真新しいコンセプトを感じるわけではない。内部告発系では多くの先行サイトを見かけるし、こうした風潮はデジタル時代が生んだ必然性とも言えよう。政治ってやつが、その性格上いかに胡散臭いものであるか、それを長い歴史を通じて印象づけてきたということである。公開された情報の中身を吟味すれば、世間が騒ぐほどセンセーショナルかと言えば、そうでもない。推理小説ファンならば、十分想像できる範疇。むしろ、公式に明るみになったことがセンセーショナルなのである。
映画「コンドル」では、平凡に世界各国の推理小説を読んで報告書を提出するだけが仕事という情報部員が、たまたま中東における陰謀を暴いてしまったために暗殺に追い込まれる。最後に逃げ込んた先はニューヨークタイムズ。しかし、本当に記事になるのか?と疑問を投げかけて終わる。映画公開から数十年後、皮肉なことにイラク戦争が勃発。大量破壊兵器保有の証拠とされているものは虚偽である、とスッパ抜いたのがウィキリークスである。当時の小泉政権は真っ先に米国政府を支持し、日本政府にまともな情報機構がないことを露呈した。情報力がないということは、判断力がないことを意味する。つまり、他人からの情報を盲目的に信じるしかないってことだ。
今日、宗教の重要性が広く疑問視されているように、政治もまたその必要性が疑問視されている。その一因に、政治に対するジャーナリズムが十分に機能していないと広く考えられていることが挙げられる。ネットで情報検索する習慣のある人は、テレビや新聞で報じられるニュースがいかに偏狭であるかに気づくだろう。その分、ネットには極端な情報も溢れているのだけど...
ウィキリークスは各国政府から槍玉に挙げられたが、むしろ彼らの出現は今日のジャーナリズムの在り方を問うている。創設者ジュリアン・アサンジは、こう豪語する。
「ウィキリークスは世界最強の諜報機関になれる... 人民の諜報機関だ!」
ディオゲネスが唱えた世界市民思想から、カントが唱えた国際的平和連合を思わせるような動機。著者の二人、マルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクは、ウィキリークスの源泉は、既に啓蒙時代に見て取れると指摘している。彼らは、密着取材を許され、メディアパートナーとして活動を共にしてきたという。そして、ウィキリークスの偉業を讃えるだけでなく、システムの脆さやアサンジ個人の汚点までも浮き彫りにし、友情と失望と裏切りの物語が綴られる。いわば、暴露サイトの裏舞台を暴露するドキュメントである。
「ウィキリークスは世界各国の政府から、政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。突然、何を秘密にするか決める権利は自分にもあると主張する、新しい役者が舞台に登場したのである。」
ウィキリークスが公開した資料は、半端な量ではない。イラクの戦争日誌では40万件にのぼり、米国務省の外交公電では、1966年から2010年に渡って25万件を超える。米国政府は、ウィキリークスを国家安全保障上の脅威と位置づけ、ビン・ラディンと同一視した。
しかし、本当に国家の敵ならば、情報を秘密裏に敵国に売ることもできたはずである。しかも、とんでもない高額で。密告者たちがウィキリークスに情報を持ち込んだのは、一国家や一企業に憎悪を抱いていたからであろうか?もし暴露対象がアメリカではなくロシアや中国であったならば... いや、アメリカだから、この程度で済んでいるという見方もできるかもしれない。独裁的な国家や抑圧的な国家ならば、諜報員を派遣してまで抹殺にかかるだろう。彼らの事故に見せかける業は超一流だ。とはいえ、密告者たちの社会的な居場所がなくなれば、敵陣営は歓んで迎え入れる。
アメリカが標的にされやすい理由の一つに、言語の問題もあろう。世界の標準言語の地位にある英語圏は比較的狙われやすい。実際、アジアや中東などの独裁政権よりも、欧米の民主主義政府に不都合な情報が多数を占めている。民主主義が機能していれば、不正が明るみになりやすいとも言えよう。情報告発サイトの存在意義は、いかに公平で中立の立場を堅守できるかにかかっているのだが、これは人類にとって永遠の課題となろう...
ウィキリークスの評価では、デジタル社会らしく、賛成派と否定派が両極端にある。奇妙なのは、大手メディアがこぞって否定的なことだ。ジャーナリズム魂は失われたのか?確かに、彼らの行為は無謀だし、アサンジの言動にしても偏執狂的で、生理的にも受け入れがたい面がある。
しかしながら、アクの強い政治屋どもには、アクの強い存在でしか対抗できない。こと政治の世界では、純粋な観念の持ち主ほど排除され、思想観念ではるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物が生き残る。歴史事象は理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳、いかがわしい性格や不十分な悟性によって生じてきた。毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないとすれば、まさにこれが政治の矛盾である。
ウィキリークスがやったことは、正義なのか?情報テロなのか?否定派は言う... 機密文書の公開が民主主義を脅かす... と。だが、それは本当だろうか?これは、無政府思想という一種のアンタッチャブルを示唆している。そもそも国家は必要なのか?国家という概念も、プラトンが唱えたものから随分と変容したようである。
ジョージ・オーウェルは、小説「1984」の中で無限の力を持つ監視国家を題材にした。アサンジは、この小説に描かれるような独裁国家の対極にある世界を実現しようとしたのだろうか?国家が完全にコントロールを失った社会とは、まさに無政府状態。だが、理性ある市民社会であるならば、無宗教でも、無政府でも、問題はないはずだ。従来のメディアは、政治システムの安定が崩れることを恐れて政権の側に立とうとする。それが民主主義を守ることなのか?アサンジは逮捕できても、情報は逮捕できない。
「学問はよりよい目的のために使わなければならない。世界に欠けているのは理論の知識ではなく、政治を実際にどう機能させるかという知識だ。」
ところで、"Wiki" を名乗るからには、ウィキペディアと混同される。アサンジは、ウィキペディアとのリンクを意識して、この名を用いたようである。ただ、コンセプトがちと違う。ウィキリークスが、提供される秘密文書をそのまま公開するのに対して、ウィキペディアは、情報の内容をめぐって討議し、より客観性に近づけようとする。
ちなみに、ウィキペディアで「ウィキリークス」を検索すると、しっかりと「ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団とは全く関係ありません」と記載されている。ジミー・ウェールズから、一緒にせんでくれ!との声が聞こえてきそうだ...
1. ハッカーたちのサブカルチャー
本書の主要舞台は、ハッカーのサブカルチャーである。自由に対する独自の価値観と倫理観を持ち、権威を嫌い、分権化を促進する人種の集まり。その意味では、科学者や数学者によく見られるアナーキスト的な感覚を持っている。
ハッカーと世界主要政府の間における自由をめぐる争いは、1990年代にエスカレートした。いまや世界標準となった暗号化プログラム PGP をめぐっては、米国政府は NSA ですら破れないコードが気に入らず、禁止しようとした。だが、オープンソース化を一国の政府が規制することはできず、仕様は RFC に公開されている。このフリーなハッカーの一員に、アサンジも参加していたという。
しかしながら、サイバー攻撃に晒される今日、ハッカーという言葉は悪いイメージを与えている。もともとは高度な技術のイメージがあったはずで、技術系の書籍に Hacks... といったタイトルをよく見かける。かつてアサンジは、通信会社ノーテルのネットに侵入したことがあるという。少年時代には NASA をハッキングしたとか。スティーブン・レビーの著書「ハッカーズ」には、すべての情報は自由で利用できるようにするべきだ!というプログラマ魂が語られている。だがそれは、あくまでも人類の叡智という立場であって、けして他人に迷惑をかけるものではないはずだ。
ウィキリークスの情報を平等にそのまま公開するという方針が、スティーブン・レビーの思想を受け継いでいることは頷ける。とはいえ、歴史を振り返ると、科学や技術の世界に政治的思惑が入り込むと、ろくなことにはならないことが見て取れる。政治的思惑とは、世界を支配しようする野望である。人間ってやつには、誰にでも誇大妄想化する性癖が潜んでいる。おまけに、実体の正義にうんざりすれば、仮想世界で正義を旺盛にさせる。楽観的に始めたプログラマの腕試しは、やがて情報は権力であるということを目覚めさせ、情報の主権を握る者が正義であるという妄想にかられる。コンピュータの脆弱性もさることながら、人間の理性ほど脆弱なものはない。
かつてプログラマだったアサンジもまた、政治的な振る舞いで天才的な才能を開花させた。アサンジという人物が、ビジョンとカリスマ性を具えていることは確かなようである。だが、資金集めや政治的態度がグロテスクになっていくと、もはや技術者ではなく、政治活動家の顔がそこにある。
そして、組織の No.2 であったダニエル・ドムシャイト=ベルグを失望させた。彼は、割の合わない仕事を大量にこなしているだけでなく、個人資産までもつぎ込み、エキセントリックで一貫性を欠くこともあるアサンジに対して、客観的かつシステマチックなやり方で、うまくバランスをとってくれる存在だったという。持ち前の愛想のよさで組織の潤滑油ともなっていたとか。彼が去れば、才能豊かなプログラマ・アーキテクトも去っていくばかりか、かつての仲間たちが批判的な立場へ導かれていく...
2. ウィキリークスの弱点
民主主義国家では、政治を行う者は選挙によって選出される。では、政治活動が市民に十分に知れ渡っているかと言えば、そんな幻想を描いている人はごく少数派であろう。選挙制度の存在が、政治家にも、民衆にも、民主主義国家だと思い込ませるための手段になってはいないか?だから、選挙に勝利した者やその陣営は、支持されたと思い込んで大々的な勝利宣言を掲げる。実は競争相手が不甲斐ないだけで、仕方なく選ばれた微妙な立場であるにもかかわらず。つまり、ここには消去法が働いている。
政治と民衆の間には、常に情報の非対称性の問題がつきまとう。そこで、ジャーナリズムには第三者の目としての役割がある。大手メディアが政府発表を鵜呑みにした報道しかできないとすれば、大本営が乱立するようなもので余計にタチが悪い。報道番組にしても企業スポンサーに支えられている以上、その企業に不利なことは発言できない。クラブ活動の大好きな記者連中よりも、フリーランスに期待するしかなさそうだ。
今日、多くの人が抱く政治やジャーナリズムへの不満を代弁するメディアとしてインターネットが存在感を増している。常に民衆は情報の非対称性を破る存在を求めている。確かに、インターネットは情報を提供する側に平等な機会を与えている。だが同時に、情報を享受する側が自発的な人と受け身な人で意識が大きく違い、却って情報格差を生み出しているのも確かだ。なによりも情報は真実が重要であって、信憑性とは違う。ウィキリークスに対する最も大きな批判は、真実に対して無責任だということだ。だがそれは、従来のジャーナリズムとて同じではないか...
ウィキリークスの最大の弱点は、情報を検証する能力がほとんどないことだ。相手を陥れるために捏造だって十分に考えられる。公開基準も、政治的、倫理的、歴史的に重要なものとしているが、実に曖昧!おまけに、その決定権はアサンジ自身にあると主張しており、神にでもなったつもりか!との非難は免れない。スクープというものは、それが自分自身の手による取材でなされた場合、ジャーナリスト冥利に尽きるだろう。だが、ウィキリークスがやっていることは、他人が提供したものを公開するだけ。アサンジには、ジャーナリストの誇りなんぞどうでもいいのかもしれない。
また、もう一つ大きな弱点を露呈する。それは、情報提供者の身の安全を確保する能力である。高いリスクを冒した情報提供者に対して、果たすべき義務がある。実際、アサンジだけでなく、情報提供者も逮捕されているし、古くは殺害された者もいるらしい。この能力に欠けることは、内部告発機構として致命的である。後に、こうした弱点を意識して、大手メディアと手を組むことになったのは賢明であろう。伝統的なジャーナリズムには証拠を調査する編集部があり、ウィキリークス単独では、素材のすべてに目を通し、吟味し、評価し、分析するにはあまりにも荷が重すぎる。
尚、ウィキリークスの立ち上げの文章には、こう書かれているという。
「人は政府の真の計画と行動様式を知っている場合にかぎり、その政府を支持しようと本気で決断することができる。歴史的に見て、開いた政府がもっとも生き残れる形というのは、情報の公表と暴露の権利が保護されている形である。こうした保護が存在しないところでは、それを確立することが我々の使命となるだろう。」
3. 右派か?左派か?
どちらに属すかといえば、アサンジ自身が言うように左派といことになろうか。時には、ティーパーティーを組織する保守右派や、キリスト教原理主義者たちの支持を受けたり、人口中絶反対派がそうであったりと、右派ではないとも言えない。少なくとも古典的な左派ではなさそうだ。平和主義者ではなさそうだが戦争には反対しているし、さらに、反権威主義、自由、自己実現、自律という言葉を操り、帝国主義に反対している。
本書は、アナーキストとしての国家軽視と、スターリン主義者の非情さを持っていると指摘している。国家や階級制度に対する深い猜疑心が、アサンジをして政治家にしてしまった理由の一つだとしている。その意味で、マルクス主義的な階級闘争にも通ずるものがある。アサンジ自身は、左翼にうんざりさせられることは多い!と語ったとか。フェミニストや共産主義者にうんざりする気持ちもよく分かる。独裁的な政権の内幕を明らかにすれば、陰謀は権力維持のための重要な要素だということが見えてくる。アサンジは、陰謀者の間のすべての結びつきを切断すれば、陰謀はストップすると主張したようだが、はたしてそうだろうか?理想もまた暴走する性癖がある。ただ、脂ぎった政治腐敗には、これまた脂ぎった理想をもって対抗するしかないのかもしれない。そのために、極右も極左も演じることになる...
4. 情報を敵に回せば...
2008年、プライベート・バンキングを攻撃対象に選んだ。スイスのユリウス・ベア銀行である。ケイマン島支店のルドルフ・エルマーから入手した不正融資行為に関する内部資料の公開。いわゆる、「エルマー文書」だ。キューバから南に300キロほど離れたケイマン諸島の首都ジョージタウンは、世界でも指折りの金融センターになっている。タックス・ヘイヴンだからだ。エルマーは、これに加担する慢性的な金融業界の中にあって罪悪感を持ったようである。ユリウス・ベアは、ウィキリークスを提訴するが、株価が暴落し訴えを取り下げた。
ちなみに、同じタックス・ヘイヴン関係のスキャンダルでは「パナマ文書」があるが、日本の大手マスコミはこちらの方を大きく報じた。
ウィキリークスと一戦交えようとすれば、ユリウス・ベア銀行は敗北に終わる。だが、それは企業だけではない。2008年、BND(ドイツ連邦情報局)の報告書が公開された。そこには、コソボのアルバニア人とコソボ解放軍がマフィアの活動に巻き込まれ、政治腐敗と組織犯罪が横行する経緯が書かれていた。ただ、これは内部告発ではないらしい。BNDは、対応のまずさを露呈する。長官エルンスト・ウーアラウは、情報の消去を要求するとともに、刑法を適応すると脅したのだ。デジタル時代に、BND 長官の権威を振りかざしても顰蹙を買うだけ。おまけに、長官の抗議メールがウィキリークスによって公開されると、報告書が本物であるとお墨付きを与えてしまう。
5. 情報を編集して鉄則を破る...
ウィキリークスの公開基準には、二つの鉄則があるという。一つは、投稿された証拠品が一定の基準を満たしていれば、それだけで公表する。曖昧な基準だけど。二つは、文書は一切編集しないで、そのまま公表する。
だが、この基本原則を破ってまで踏み切った超弩級素材がある。そう、"Collateral Murder" と題するビデオだ。特別サイトも新設され、YouTube でも閲覧できる。そこには、アパッチ攻撃ヘリのパイロットの会話が収録される... おい、みんな死んだよな... ああ、見事なもんだ... 証拠隠滅では、生きた証人を完璧に抹殺せよ!... といった台詞は、陰謀映画そのもの。
しかしながら、ビデオに編集を加えたことが、信憑性に欠けるとして非難される。組織内部にも、原則から逸脱したとして難色を示す人たちがいたようである。素材をそのまま公表することは、伝統的なジャーナリズムの有り方を問うものであったはず。編集すれば、意見表明したことになるし、なによりも真実性が半減する。今回は、あまりにジャーナリステッィクすぎた。しかも、アサンジの独断によって。
アサンジ自身は、並行して未編集のオリジナル素材も公開しているので問題ないとしているが、巷では面白おかしく編集された方が広まるもの。特にインターネットの凶暴性がここにある。真実の共有といえば、その理念は美しい。だが、虚偽の拡散となれば、その理念は悪魔と化す。さらに悪いことに、情報提供者の名が漏洩し、逮捕された。ハッカー仲間から漏れたようである。彼を法的に守る手段は、ウィキリークスにはない。
民主主義的な国家であれば、どこの国でも情報公開法の類いがある。賞味期限が過ぎれば情報は公開されることになっているが、政治は今動いている。このような不都合な証拠は抹殺されるだろう。それが、ジョージ・W・ブッシュ大統領時代の事件とはいえ、オバマ大統領時代のホワイトハウスのホームページにおける、この宣伝文句がなんとも虚しい。もう、トランプ氏になっちゃったけど...
「政治の透明性は責任感につながり、政府が何をしているのか、市民に情報を提供します。」
2017-06-18
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