アビラ・ヒロンの「日本王国記」にせよ、ジョアン・ロドリーゲスの「日本教会史」によせ、なにゆえローマ・カトリック教会は、こうも日本の調査報告を求めたのか。やがて訪れる植民地政策の布石か。いきなり武力制覇を目論むより、まず敵を知るという意味では孫子の兵法に適っている。極東への野望はマルコポーロの「東方見聞録」に端を発し、黄金の国ジパングの噂を耳にした野心家どもが群がる。
しかし、それだけだろうか?
少なくとも、日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・シャヴィエールは違ったようである。東洋に初めて聖福音を伝えたのが聖トメーという人物で、バラモン教徒の手にかかって殉教したと記している。これは十二使徒の一人、インドの地で殉教したと伝えられる、あの疑い深きトマスのことのようだ。聖フランシスコは、その意志を継ぎ、さらに東へと布教の旅を続ける。その過程で、悪行のために良心の呵責に苛み、薩摩から逃れてきた弥次郎と出会う。彼は心の休まる宗派を求めて西へ、西へ、ついにマラッカで聖フランシスコに救われたとさ。
聖フランシスコは、日本には悪魔の宗教が蔓延ることを知り、日本へ行くことを決意する。パードレたちは悪魔が住むと聞けば、どんな土地にも赴く。
しかしながら、布教の旅とは、殉教の旅を意味する。死を覚悟してまで旅を続けるのはなぜか?その使命感はどこからくるのか?聖人という自意識が、そうさせるのか?神のためにすべてを犠牲に捧げる... 洗礼を受けるとは、そういうことのようである。
ただ、幸せ者に余計な信仰は不要だ。救済を求めているのは、耐え難い苦境にある人々。時代は戦乱の世、京の都が荒廃し、難民が溢れていた。藁をも掴む思いとは、こういう事を言うのであろう。重病人相手にお布施をたかる坊主たちに対して、医術の心得のあるパードレたちは無料奉仕。ボランティア精神は、キリスト教と相性がよいと見える。聖フランシスコは平戸や山口で布教活動をし、キリシタン信者の数を急激に増やしていった。
だが、それらの街々がやがて迫害の舞台と化す。西洋思想に対する怨恨は徳川時代に長らく封印され、その反動として、吉田松陰をはじめとする思想改革から、維新時代に薩摩や長州を中心に爆発した、と解するのは行き過ぎであろうか...
コロンブスの新大陸発見後、新世界を効率的に分割するための条約が結ばれた。トルデシリャス協定が、それである。エスパニアは西方へ、ポルトガルは東方へ、それぞれ航路を開拓するよう定め、ついに地球の裏側で衝突する。キリスト教会も一枚岩ではなく、聖ドミニコ、聖フランシスコ、聖アウグスティーニョ、イエズス会の四つの托鉢修道会が押し寄せてくる。こうした布教活動は、ローマ・カトリック教会が主導しているというよりは、各国の思惑によって展開されていく。おまけに、宗教改革の時代を迎えると、新興勢力であるイギリスやオランダが参入し、さらに政治色を強めていく。日本では、エスパニア人やポルトガル人を南蛮人と呼び、イギリス人やオランダ人を紅毛人と呼んで区別した。
アビラ・ヒロンの記録によると、紅毛人が権力者に意見したためにキリシタン迫害に及んだ、というようなことが記される。南蛮人が布教活動に熱心なのは日本支配を目論んでのことで、これに激怒した秀吉は大々的な迫害を企て、さらに、暴君家康とその子秀忠によって陰湿極まる拷問に及んだと。キリシタン大名も同じ運命を辿り、三条河原の公開処刑の様子など、いかに日本人が残忍であるかを綴っている。アビラ・ヒロンの記述は、日本人の慣習や文化については、ほとんどルイス・フロイスの引用かと思わせるところがあり、むしろ半分以上が迫害史、殉教史の性格を帯びている(前記事参照)。
対して、ジョアン・ロドリーゲスの報告は、日本贔屓な面を覗かせる。茶道や数奇の道、職人の技術魂、おもてなしやお土産の文化、湯殿や酒の作法など、清潔さと礼儀正しさではアジア随一と賞讃し、また、複雑な政治体制については、天皇と将軍の両立や、公家と武家の従属関係の逆転など、ちょうど時代変革の過程にあるとし、当時の政治体制がこの王国で矛盾していないと考察している。ロドリーゲスの弁明めいた記述が、当時、誤解を招くような書が多く出回っていたことを想像させる。
ただ、「教会史」と題しておきながら、教会について語られるのは下巻の最後の方だけ。アビラ・ヒロンの報告を「日本殉教史」とし、ロドリーゲスの報告を「日本旅行記」とした方がよさそうである。当初の目的が、政治的であったにせよ、宗教的であったにせよ、書いているうちに純粋な興味となって、自然に事細かく綴っているということはあるだろう。そうした記述ほど、本性が露わになりやすい。もし教会が主題だとしたら、なんと前置きの長い大作であろう。前戯好きにはたまらん...
1. ロドリーゲス通事
ローマのイエズス会本部が、日本管区における実地見聞者の手で教会史を編纂することに積極的に乗り出したのは、1610年頃からだとか。そして、最初の編纂者に命じられたのが、マテーウス・デ・コーロス神父だが辞退したという。迫害のさなか、とても教会史を執筆する気にはなれなかったようである。
代わって編述したのがジョアン・ロドリーゲスである。ただ、ジョアン・ロドリーゲスというのはポルトガルではありふれた名。当時の日本イエズス会には重要な地位にあった同名の人物が二人いたそうで、近年に至るまで布教活動の文献で混同されてきたらしい。そして、同名の司祭 João Rodrigues Girão に対して、著者の João Rodrigues Tçuzu は「ツウズ」と日本語の「通事」に当てて呼ばれたという。
ロドリーゲス通事は、ポルトガル人としては郷土方言に終生悩まされ、故国ではこれといった教養を身につける機会もなかったとか。そのために却って日本語やシナ語といった外国語の習得に真剣で、その結果として通事として身を立てることになったという。
いずれにせよ、これだけの大作を一人の力で執筆できるわけもなく、イエズス会の経験と観察力が結集された作品と言えよう。母国の知識に対して超越的であることは難しく、自分自身を外からの視座で問うことは極めて難しい。だが、そうすることによってしか母国を問うことはできない。外国人からの視座として、こうした文献が残されていることは、我が国にとって幸せであろう。翻訳の苦労が滲み出ているだけに、翻訳者たちに感謝したい...
2. 三位一体論
パードレたちは、なにゆえ日本の宗教を悪魔の宗教と呼ぶのか。なにゆえ釈迦や孔子を悪魔のごとく言うのか。
一つに、アビラ・ヒロンも、ジョアン・ロドリーゲスも、偶像崇拝を強調している。キリスト教の中心的な教義に「三位一体」ってやつがある。簡単に言えば、神という実体は一つだが、神の位格、すなわち、ペルソナは三つの姿で現れるというもの。父なる神、父の言葉を代弁する子(イエス)、そして聖なる魂(聖霊)の三つ。これは抽象的な概念だけに、様々な解釈を呼ぶ。
とりあえず、勝手に宇宙論的に解釈してみると... 根源的な宇宙法則は一つであって、そこから派生する物理法則、さらに多様化する物理現象すべては神との因果関係にあり、したがって、すべての自然物に神の魂が宿り、すべての存在原因は神の意志である... とでもしておこうか。そして、人間がやるべきことは、神の意志にそぐう行いをしなさい!と諭す。確かに、この精神的存在論は偶像崇拝とは対立しそうである。
しかしながら、こんな難解な概念を庶民にどうやって説こうというのか?信じる者は救われる!の原理に縋るしかあるまい。では、パードレたちの信用度はどこからくるのか?しかも、目の色、肌の色の違う異国人に。目の前の苦難から救ってくれただけで、信用に足るということはある。恩義からくる信用である。坊主どもの迷信まがいの祈祷では病気は治らない。ましてや人を救うよりも形式を重んじ、その伝統は現在では葬式仏教などと揶揄されながら受け継がれている。
対して、パードレたちの実質的な医術によって命が救われれば、全面的に信じてみようかという気にもなろう。人間の信用や信仰といった心理的性向は、そうしたものかもしれない。本来の宗教の姿は、苦難にある人々を救済するものであって、けして民族や国家を優越するためのものではないはず。だが、愛国心とすこぶる相性がよく、優越主義に陥りやすい。自己存在の本能を集団的な本能に結びつけるのだ。
とはいえ、宗教家の勧誘技術は、プレゼン技術としては非常に参考になる。人間ってやつには、自分が良い目にあうと、誰かに喋りたくてしょうがない性分がある。そして、こうするといいよ!って経験談を吹聴してまわるのである。こうした信者たちの口コミが、幸せの押し売りを演じながら各地に拡散していく。まるで戦国時代版 SNS だ。苦境にある人ほど宗教に嵌りやすいというのも道理である。人間ってやつは幸せ過ぎても、不幸過ぎても、やはり残酷になるものらしい...
3. 偶像崇拝の呪い
よく分からないのは、「踏み絵」によって、実に多くの庶民が迫害されたことである。偶像崇拝を悪魔だというなら、なにゆえ「踏み絵」ごときは堂々と踏みなさい!と教えなかったのか?仏像にしても、その象徴を庶民に分かりやすくするためのものであって、逆の意味でキリシタンも偶像崇拝を実践しているではないか。
いや、踏みなさい!と教えたのかもしれない。敬うものに対して、粗末に扱うことに後ろめたさのような気持ちがわくのも道理である。恩義のある人に対して、足を向けて寝られないとも言うし、そんな心理状態が良心の呵責と微妙に絡むと、奇妙な正義感に囚われたりする。だとしても、拷問の代償に神のせいにできれば、神も本望であろうに。
思想や信仰の領域では、それを庶民に分かりやすく伝えるために象徴的な存在が欲しいと考える。キャッチフレーズのような合言葉もその一つ。凡庸な人ほどそうした形を欲する。だから、実質的なものよりも形式や儀式に伝統の重みを与えようとする。いわば、存在感の強調だ。
しかも、思想信仰の創始者がどんなに天才であっても、それを継承していくのは凡庸な人々である。お釈迦様が気の毒なのは仏像として拝まれることだ。偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。釈迦は、あの世で私は仏教徒ではないと愚痴っているかもしれない。ナザレの大工のせがれも、あの世で私はキリスト教徒ではないと呟いているかもしれない。そういえば、土下座してまで当選回数にこだわった国会議員がいた。どうやら銅像が建つらしい...
4. 三つの政治形態
当時、西洋では、信長の登場や秀吉の豪華絢爛と治安安定を実現したこと、統治と商取引などの合理性について、政治的な矛盾が指摘されたようである。ロドリーゲスは、これを矛盾ではなく時代の変革と捕らえ、三つの政治形態を示している。
第一の政治形態は、日本固有の一人の主君、すなわち天皇による王国で、武家は公家に従属する階級。これが、日本王国の本来の姿としている。
第二の政治形態は、建武の新政から政権を奪い取った足利政権のあたりから。武家が公家の支配していた統治権と領地を奪取し、その後、武家同士で反目しあって日本全土を戦火とした。
第三の政治形態は、下克上から秀吉の平定あたり。イエズス会は、この第二と第三の政治形態を実見しているとのこと。実質的な王となった信長と秀吉は、第一の政治形態の一時的な代替品のような扱いか。
徳川家については、暴君家康と、その子秀忠の拷問政権としているが、天皇家と将軍家の両立は、なかなかうまく説明できないようである。それは日本史の課題でもあり、まともに説明できる歴史家も稀である。
とりあえず、将軍家が天皇家を滅ぼさなかったのは、気分の問題とでもしておこうか。それは後ろめたさのようなもの。いつの時代でも、権力者たちは勅令という形式にこだわった。武力を行使するための正当性をどう担保するか?それは、現在の民主主義でも問題とされるが、正義の看板を掲げられなければ同意されない。人間社会では、表立った粗暴な振る舞いは本能的に受け入れられないのである。だから古くから暗殺が横行し、自殺と公表されるのは政治の常套手段だ。天皇家の存在が神格化していったという意味では、伝統の力、慣習の力は偉大である...
5. 日本人の三つの心
「日本人には、誰にも理解されないきわめて表裏のある心の持ち主である。」
日本人は、三つの心をもつという。一つは、口先のもの。二つは、友人にだけ示す胸の内。三つは、心の奥底にあるもので、自分自身のためだけのもの。
日本人は契約や条約を無視したり、目先の利害関係だけで相手を騙したりしないという。やるなら、非常に几帳面で、周到に裏切るというわけである。異国人には多大の歓待と好意を示すので、つい安心してしまうとか。異国人を軽蔑し、極度に用心深く、攻撃的になるのは小心さの裏返しであり、日本人は、この点で大胆であると。表面的には笑顔でも、なかなか本音を表に出さないことが、陰険さとも取られるわけだが、遠慮がちな振る舞いを上品とする文化も、少しは理解があるようである。
また、職人や技芸の扱いを賞讃している。日本社会では大工の頭領や芸術の家元などが尊敬されると。建築様式では、木材しか使わないものの、工匠たちははなはだ卓越かつ巧妙、その器用さは傑出していると。金細工、彫刻師、染物師といった技芸者が大名などの権力者のおかかえとなったり、千利休という茶の工匠が天下人から一目置かれ、悲運の最期を遂げたのも、たかが茶人ではなかったことを示している。西洋社会では、こうした職業が蔑視されがちであると、ルイス・フロイスやアビラ・ヒロンも書いている。技術や工芸に敬意を払う文化は、現在でも技術立国の伝統として生きているようである。
「日本人はきわめて純真で勤勉であり、また儀式や外面的な華麗さを好むので、よく秩序立てられた国家における礼節ある人間生活に必要なほとんどあらゆる種類の学芸と技芸を持っている。」
そして興味深いのは、言語システムの柔軟性について言及している点である。漢字文化であるのはシナ人と同じだが、同時にかな文化が組み込まれているので、外来語を持ち込む時に合理的といったことが綴られる。読みに準じて言葉を伝えることができるので、教会用語もそのまま使えるし、「ローマ字」という概念が持ち込まれた様子が記される。「ツウズ」を「通事」に、「パードレ」を「伴天連」に、というように駄洒落風に字を当てることも容易。ちと訛るけど...
2017-11-12
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