2018-06-03

"こちら脳神経救急病棟" Allan H. Ropper & Brian Burrell 著

原題 "Reaching Down the Rabbit Hole (ウサギ穴を降りて)"...
ウサギ穴とは、「不思議の国のアリス」に出てくるあれか。無邪気なアリスはウサギを追いかけ、奇妙な世界へ迷い込む。脳神経疾患とは、脳が変性してしまう病で、時には信じ難いほどに変性したケースもある。まさに、空想の域を超えた不条理な世界が...

脳神経内科医の仕事は、患者の厄介な反応を分析し、臨床像に当てはめ、問題を整理し、できるかぎり当人が望むような生活を送ってもらえるプランを立てることだという。
しかしながら、患者の癖のある表情から真意を汲み取るのは至難の業。患者はぞれぞれに違った症状を見せ、場所の見当識はあっても時間や状況が把握できないといったケースも珍しくない。医師アラン・H・ロッパーは、唯一の対処法は患者一人一人の内面に接すること... と自分に言い聞かせるように語り、そのためにうんざり気味な側面も覗かせる。人間の多様性ってやつは、実に手強い。人間の本質を理解しよう思えば、正常な人間よりも、いや、正常と思い込んでいる人間よりも、こちらに耳を傾ける方がはるかに有意義かもしれない。少なくとも政治屋どもの演説を聞くよりは...

脳の活動は、極めて電気的に作用するため、環境条件によってシステムダウンすることも。運が良ければ再起動できるが、運が悪ければ復帰の見込みもない。まさに、Kernel Panic !!!
自己の存在意識を肥大化させれば、妄想が妄想を呼び、正常な細胞までも破滅へ道連れ。そして今、この酔いどれ天の邪鬼が自己分析を試みても、時には些細なことで怒り狂うかと思えば、驚くほどの忍耐や寛容さを見せることもあって、まったく支離滅裂ときた。どちらも自分ではないような感覚に見舞われるが、どちらも正真正銘の自分なのだ。そうなると、もう確率論に委ねるしかない。気まぐれってやつに...
正気と狂気の境界は精神病棟の鉄格子によって分けられる。それは、異常者を隔離するためのものだろうか。それとも、純真な心の持ち主を保護するためのものだろうか。そして、自分はどちらの側にいるのだろうか...

ところで、おいらは脳神経内科と脳神経外科の違いもよく分からない。大雑把に言えば、手術などの外科的な治療の対象かどうかで線引きされるが、まずは脳神経内科で診察してもらうのが順序のようである。そういえば、初めて総合病院を訪れた時、まずは内科にかかってください、との案内を受ける。怪我で血まみれ状態というなら明らかに外科の領分であろうが、外傷がはっきりしなければ、内科で診療方針が決められ、診療科が選別される。
では、外科と脳神経外科の違いとはなんであろう。脳腫瘍のような病は外科で、脳の神経系を対象とするのが脳神経外科ということになろうが、脳内で何が起こっているかなんて患者に分かりっこない。頭痛がするのも神経が何かを感知した状態であろうし、脳神経と無関係な脳の病ってあるんだろうか?自覚症状がないということもあるが、そもそも脳がいかれているかどうかを自分の脳で判断できるのだろうか?もし判断できるとすれば、それは極めて冷静な精神状態にあり、自分自身が正常だと思い込んでいる状態よりも、はるかに正常っぽい。
本書は、こうした状態の区別を明確に説明してくれるわけではないが、医学的な立場から重要なヒントを与えてくれる。それは、「症状」「兆候」で区別していることである。
「症状」とは患者が訴えるものを言い、「兆候」とは医師が診察して見て取れるものを言うそうな。もっと言えば、症状は主観的で、兆候は客観的ということになり、症状は脳機能の枠組みで捉え直す必要がある。
「症候群」ってやつもよく耳にするが、これは医学用語というより社会学用語に近いイメージがある。本書は、症候群を問題の集合体として扱い、専門的な病名とは区別している。兆候よりも症状に近いニュアンスであろうか。例えば、「錯乱」というのは専門的には病名ではないそうな。
「錯乱というのは医学でも最も錯乱した症候群だ、という言い方は陳腐に聞こえるかもしれないが、事実である。」
そして、脳神経内科では症状から兆候に至るまでの過程を観察することになるが、貴重な情報源となるはずの脳が変性してしまっていては、根気強く試行錯誤を続けるしかない。身体をスキャンしたところで心は映らないのだから...
「医学を医学たらしめているのは、こういうことだ。患者はわれわれのところにやってくるけど、問題を医学用語で描写してくれるわけではない。ゆえにわれわれは、患者の言葉を医学的に利用できる形に組み替える。話に統一性を与えるのだ。」

1. ちゃんと聞いてますよぉ...
脳がやられれば、精神を患う。脳神経と精神は同期しているようである。そういえば、知的障害者はたいてい自閉症を患うと聞く。おいらの身近にも重度の知的障害者がいるが、自己主張ができなければ自分の殻に篭もるほかはない。ある種の防衛本能である。人間とは精神である... 精神とは自己である... とは、キェルケゴールの言葉。人間にとって、「自己存在」という認識ほど重く感じるものはないように思える。そして、終末期ケアとしてのホスピスの意義も見えてくる。
となると、脳神経内科医のまずもっての治療法となるのが、ちゃんと聞いてますよぉ... という態度で接すること、本当に聞いていなくても患者に自らの物語を語ってもらうこと... ということになろうか。まぁ、本当に聞いていないってことはないだろうけど、医師だって人間だし、愚痴りたいこともあろう。患者自身に病識がないのに、どうやって気づかせるかとなれば、もう心理学の領分。自己にとって自我ほど手に負えないものはない...
「医学の中でも一人の人間の総合的な知的努力ってやつが付加価値になる分野は、もう神経内科しか残っていないんだ。機械はものすごいのが揃っているけれど、本当の意味での検査はできない。きみたちはベッドの脇で問題を解かなければいけないのさ...」

2.ヒポクラテスの誓い
"Primum Non Nocere (まず害をなさぬこと)..." とは、ヒポクラテスの言葉として広く知られる。この格言は、医師にとって指針となる基本的な姿勢であるだけでなく、慎重になる際の正当化の理由にもなる。
しかしながら、現代医学においては解決不能のジレンマを生み出す場合があると警告している。例えば、アスピリンを飲んで寝てなさい!という以上のことをしない場合の言い訳として。
生命的な危機に直面すれば、何もやらないよりはまし... という信念が必要なこともあろう。手術するリスクと手術しないリスクを天秤にかければ、確率論に頼らざるをえない。しかも、その確率は医師の経験と腕に左右される。どんな専門分野であれ、難題に直面すれば専門家たちの意見は分かれる。だから、リスクなのである。終末期患者と対峙すれば、死神がほとんど勝利をものにする。患者だって、医師と会話するよりも、死神と会話する方が癒されるかもしれない。それでも醒めた意識を遠ざけ、患者を救うことができると信じてやるしかないとは...
医師は、科学に対する信仰を持ち続ける必要があるという。それは、科学が神秘的な力を持つという逆説的な信念である。
「リスクに身を置き、悪い結果が出たときの失望を抱えながらやっていけないのなら、この仕事は無理だ。」

3. 生きることと、死なないこと
生と死の判別、この基準がなければ医師は仕事ができまい。ただ、死にもいろいろな見方がある。心臓が停止した状態を言ったり、脳が機能を失った状態を言ったり、心を失えば、それを人間死と言う人もいる。「脳死」という用語一つとっても様々な定義があり、全脳死を死とする場合や脳の機能低下を条件に死とする場合など、法的な扱いも国によって違う。
脳死は死の兆候か、それとも死そのものか?脳神経科では「脳死」という用語を嫌い、「脳を基準とする死」という言い方をするそうな。脳だけが死んでいるとしたら、何が生きているというのか?臓器が生きているから移植医療が成り立つ。解剖学は、死体の下僕か?身体は死んでいるが、魂は生きているってか...
やはり、人は脳の中にいるように思う。とはいえ、脳を基準とする死の判断はなかなか微妙だ。本当に蘇生する可能性はないと断言できるのか?現代科学は、そこまで人間の脳のメカニズムを解明できているのか?脳を基準とする死が、生物学的な有機体の死と一致しないとすれば、このような物体をどう分類するというのか?心臓を基準とした死の方が分かりやすいとなれば、責任の基準もそこに持っていこうとする。そして、医師たちの愚痴が聞こえてくる...
「医学は、人を生かしておく... 永遠とまでは言わないが... ことについては、かなりの力を備えている。白血病患者に骨髄移植を 10 回行うこともできる。実験的な化学療法を試すこともできる。血小板輸血をし続けることもできる。ALS 患者に対しても、同じように極端な手段がいろいろとある。しかし、どれも病気を治すことはできない。そこで、このことが問題になってくる。医師が医学的にできることを一つも提供しないとしたら、それは自殺幇助にあたるのだろうか?」

4. 人工呼吸器の禅
ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは、運動ニューロンが侵される神経変性疾患。体が重くなれば、心も重くなる。筋肉の小さな部分が震えることを「攣縮(線維束攣縮)」というそうで、たいていの攣縮は良性だとか。目や口、ふくらはぎや腕など、ちょっとした引きつけを起こすことは誰にでもあろう。運動をやりすぎたり、酒をやりすぎたりすると。
だが、運動ニューロン疾患では、放置すれば筋力が自然低下し、確実に死に至るという。ALS 患者が直面する究極の選択は、生きるべきか死ぬべきか。単純化して言うと、生き続けるためにできることをすべてやるか、それとも病に命を委ねるか。もっと露骨に言えば、気管切開して人工呼吸器をつけるチューブを挿入したいか?
人工呼吸器をつけると会話はできなくなるが、呼吸は続けられるし、脳と感覚系も冒されずに残る。感覚のほとんどを感じることができても、動かせる身体の部分がほとんどなくなり、最終的に、身体という殻の中に完全に閉じ込められてしまう。そのような状況を想像しながらも、ALS 患者の多くは、完全に冷静さを保っているという。意識過剰とまでは言わなくても。死ぬより辛そうな試練が、人の心を研ぎ澄まさせるのだろうか。人工呼吸器が奏でるシュー、シューという音は、サンバのリズミカルな音調とは対照的に冷たさを感じるものの、心にやすらぎを与える。意識がしっかりしていれば、子供の成長を黙って見守ることだってできる。
とはいえ、人間は、どのくらいの不自由に耐えられるものなのか?どのくらい人の重荷になれるものなのか?生きる権利を訴えるのもいいが、死ぬ権利も考えずにはいられない。
その一方で、医師は、極限まで治療を続けるのは義務であろうか?実際、安楽死ビジネスなるものがあり、合法化されている国もある。おいらの親友も、難病のために尊厳死というものを受け入れて逝った。そして、友人という言葉も陳腐なものとなり、それ以外の友情は冷めて見えてくる。生あるものは、いずれ死ぬ。死ぬ時が来れば、ただ死んで行くだけ。絶望は冷めた心を覚醒させる。
やがて医師は、終末期の患者を通して死との交渉を余儀なくされる。すると、患者の方から目で訴える。そろそろ終わりにしましょう... と。
「呼吸器ケアの専門病院は、独特の世界だ。一種の煉獄とも言える。一日一日が意味もなく過ぎていく。快活に患者を励まして回る職員たちだけが、汗と排泄物と消毒薬の匂いに絶望感の混じった特有の空気を和らげようと、できることを懸命にこなしている...」

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