2018-06-10

"死のテレビ実験 - 人はそこまで服従するのか" Christophe Nick & Michel Eltchaninoff 著

人の耳元には、いつも悪魔が囁きかける。集団性という悪魔が。三人集まれば、もう集団。戦場ならいざ知らず、日常であっても人は権威に弱い。公の場とは恐ろしいものである。ひとたび公衆の面前に身を置けば、虚栄心を掻き立て、自尊心を肥大させる。
おまけに、大衆は魔女狩りや公開裁判の類いがお好きときた。人の恥や馬鹿っぷりを暴露することが、そのまま視聴率に結びつく。テレビ屋は、対象人物にキャラクターイメージを叩き込み、大衆を煽る。心優しい加害者たち... これが大衆の本性か...
相対的な認識力しか持ち合わせない知的生命体は、他との比較の中でしか自己を見つめることができない。そして、人の不幸を見て、自己を安心させるのである。不幸すぎる人も、幸せすぎる人も、やはり冷酷になるものらしい。これは、従属と服従の原理を綴った物語である...

権威から良心に反する命令を受けた時、個人はどれくらいの割合で服従するか?これを問うた実験がある。あのミルグラム実験が、それだ。社会心理学者スタンレー・ミルグラムがイェール大学で実施し、アイヒマン実験とも呼ばれる。ミルグラムは、記憶力に関する実験と称して被験者を募り、科学実験という権威の下で、見ず知らずの人に電気ショックを与え続ける場を設定した。被験者が先生役になって問題文を読み、生徒役が間違ったら電気ショックを与える。電気の強さは答えを間違える度に上がり、450ボルトまでが設定された。もはや致死量である。先生役と生徒役は、建前上クジで決められるが、実は生徒役は俳優が演じる。生徒役はやめてくれ!と叫び、声がでなくなって生死が危ぶまれる状態へ。大半の被験者は、こんな残酷なことを途中でやめるだろうと思われたが、予想に反して多くの被験者が最後まで電気ショックを与え続けたとさ。権威の命ずるままに...

本書は、この実験のテレビ版である。ただし、新たな要素が一つ加わる。「観客」という要素が...
被験者は、プロデューサからこの実験が安全であることを説明され、番組成立のための一体感を植え付けられる。観客の方はというと、アシスタントディレクタの前説によって番組に参加できるという意識を昂揚させる。ちょっと練習してみましょう!さぁ、拍手!間違った時は合図とともに「お仕置き」コールを!
日常のバラエティー番組でも、観客の笑い声や、えぇーっ!といった驚きの声で大袈裟に演出される。それが却って、つまらなく感じさせるのは気のせいか。番組がぐだらないというなら、見なければいい。番組を批判するということは、そのくだらない番組を事細かく見ているということ。それを感情的に批判するなら、すでにテレビの虜である。ただ、それが反面教師になっているところも大いにある。
本物語においても、司会者に反論したり、抗議したりする人ほど、ずるずると最終段階までいってしまう。この状況は、株式市場における投資家行動にも似ている。下落相場で、もう下げ止まるだろう、とずるずると決断できずに含み損を拡大させる、いわば、損切りの心理学である。それは、目の前の不幸を信じたくないという先送りの原理そのもの。こうした心理状態は、都合のよい解釈に発し、希望的観測が合理的判断を鈍らせる。
一方、途中で服従をやめられた人は、あっさりと決断している。現実をしっかりと見つめられるということか。あるいは、深いところで自分を信じているということか。
ミルグラム実験では、権威に最後まで服従した被験者は 62.5% にのぼったとか。これだけでも驚くべき数字だが、テレビ実験では、実に 81% もの被験者が最後まで電気ショックを与え続けたという。それでテレビの方が権威が上になるのかは知らんが...
「最後にこの実験に深く関わった者として、一言。人は自分で思っているほど強くはない。『自分は自由意思で行動していて、やすやすと権威に従ったりはしない』、そう思い込んでいればいるほど、私たちは権威に操られやすく、服従しやすい存在になる...」

1. 主義主張のない扇動者
あの最終的解決策の張本人アドルフ・アイヒマンは冷酷非情の怪物とされるが、世間が言うほどの残虐な性格の持ち主だったのだろうか。彼は暴力に訴えるわけではなく、事務机に座ったまま署名一つで何百万ものユダヤ人の死を確定させた。グイド・クノップは著作「ヒトラーの共犯者」の中で綴っている。彼が極めて官僚的な人物であったことを。もし命令があれば、自分の父親ですら殺すだろうと供述したと。与えられた仕事を黙々とこなす、どこにでもいる官僚の一人だったと。出世欲が異様に強かったのは確かなようである。凶悪な性向などないごく普通の人々でも、戦時でもなく、上官の命令でもなく、権威に促されれば殺人を犯す可能性があることを、アイヒマンの残虐行為が暗示している。
では、テレビにどれほどの権威があるというのか?従来の権威は、人として、形として、はっきりと現れてきた。王様や統治者、法律や政府、警察や軍隊といった形で。
だが、テレビは違う。目的意識もなければ、主義主張もない。ひたすら視聴率を稼ぐだけの存在。だから、余計に厄介とも言える。カルト教団は信者を規格化させるが、テレビは大衆を規格化させる。意思なき規格化である。独裁者の暴走先ははっきりしていて動機も単純だが、テレビの向かう先は一向に見えてこない。実体が見えなければ、食い止めようにも、何を食い止めていいのか?大衆は流されるがまま。思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。だが、テレビの中の扇動者とはいったい誰なんだ?

2. 良心と義務の狭間で...
欧米のバラエティー番組には、ゴキブリを喰わせるという過激なものがあると聞く。被害者が美女ということが場を盛り上げ、観客から、た・べ・ろ!た・べ・ろ!の大合唱。日本のバラエティーにも熱湯モノがあるが、これが本物ではないことぐらい視聴者の多くは承知しているだろうし、リアクション芸人にとってはおいしい。やらせ!をいまさら...
本実験においても、まさかテレビがそんな残酷なことをするわけがない!と思い込んでいる被験者も少なくない。そして、司会者の促すままに...
実際、生徒役は俳優なので安全であったし、現実をしっかり見つめているのは、むしろ服従者の方という見方もできる。いや、本物かどうかを別にしても、自分の良心が許さない!と命じれば、やめれば済む話か。
やらせ!と思っても、涙を出しながら拷問を続ける人が多くいたということは、何を意味しているのだろうか?仮に拷問が本物だとしても、最後まで続ける可能性が高いということか?そうかもしれない。
ただ、映画やドラマでも感情移入して涙を誘うことはある。それがつくりもので、ニセモノだと分かっていても、人は涙を流すのだから、そう結論づけるのも難しい。
そもそも被験者たちは、番組に出演したいという思いで応募してきた連中である。番組を成立させるという義務が自発的に植え付けられている、いわば、自主的な服従者とも言える。
おまけに、華やかなテレビ界独特の雰囲気に引き込むために、様々な趣向が凝らされる。専用車で迎えられて出演者として丁重に扱われ、収録前に楽屋でメイク係に化粧をしてもらえば、もはやテレビデビューか。
予めプロデューサが全責任を負うと宣言すれば、観客と一体になって協力しようというバイアスが、より大きくかかる。セールスの原理に... 最初に同意すれば、条件が多少違っても断りにくい状況に陥ってしまう... というのがあるが、まさにそれだ。人間は誰しも、自分の意思を義務と結びつけて、存在感を周囲に認めさせたいという心理が働く。結局、人間ってやつは、客観的な現実が目の前にあっても、自分に都合のよいように解釈してしまう。結局、責任の所在が自分にないことを確認できれば、どんな意図にも流されやすい。要するに、人のせいにして生きて行ければ、幸せってことか。人のせいにできなければ、神のせいにでもするさ。それで神も本望であろう...

3. 反抗的な服従者と素直な服従者
本物語は、やめる根拠を見つけることの難しさを暗示している。一旦、義務に昇華した意思を、どうやって覆すことができるか。客観的に考えれば簡単なことでも、大衆の面前ではその場の雰囲気が優勢となる。孤立した人が良心に従うことは難しい。せめて観客を味方につけれられれば... 自己の良心を確認するには、集団から距離を置くしかなさそうか...
服従するタイプにも、反抗的な服従者と素直な服従者とに分かれる。自信なさげな反抗を見せる人もいれば、強烈に批判する人もいるが、どちらも拒否には至らない。
一方で、服従を途中で拒否した人はみな、「自分には出来ない!」とはっきり言えた。しかも、あっさりと。なぜ、言えたのか?深いところで自分の良心を信じているからか?服従を拒否することと、抗議することとは、まったく次元が違う。抗議という行為は、良心と服従の葛藤からくる緊張を和らげる効果がある。つまり、自分自身に言い訳を求めているのである。司会者に、本当に大丈夫ですか?このままじゃ、死んじゃいますよ!と意見具申するも、自分の意志ではないことを観客にアピールしているということ。最初から権威に立ち向かうのを諦めているということか。これが群集心理なのだろう。実際、人間社会には責任をとらない権威が、あらゆるところに蔓延る。
となれば、反抗的な服従者の方が危険かもしれない。なにしろ扇動者の代理人となって、いや、代理人になっていることにも気づかず、場を盛り上げているのだから...
ちなみに、心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは、こう指摘したという。
「群衆の心を支配するのは、自由を求める気持ちではなく、何かに奉仕したいという欲求である。群衆は本能的に、自分は支配者だ!と言う者に服従しようとする...」
しかしながら、テレビはだたの群衆ではない。個人の場にも群集心理を持ち込む存在だ。部屋で一人でテレビを見ていても一体感を植え付ける。そして、いまやテレビ以上に一体感を煽るメディアが台頭する。自己を見つめ直すのが難しい時代には、孤独愛好家を増殖させるものらしい...

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