海辺で恵風に誘われ、軽やかにステアリング操作でもやりたくなる気分。ただ、来た道を振り返ってみると、堂々と冗談の言える日に冗談では済まなくなる。そして、つくづく思う。人生の操作ってやつが、いかに難しいことか... と。十年後の自分を思い描いてみたところで、その通りになったためしがない。なにゆえ、未来像なんてものを描こうとするのか。現在に絶望すれば、未来に希望を抱かずにはいられない。未来像とは、偶像崇拝の類いか。未来に希望を見い出せなければ、過去を懐かしむしかない。すると今度は、昔はよかった... などと老人癖がでる。俗世間には、現実逃避症候群が蔓延しているようだ。ナポレオンはうまいことを言った、「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と...
人間ってやつは、長く生きれば生きるほど頑固になる。今まで生きてきたことを否定したくないからだ。ならば、ちょいとばかり自己を疑ってかかるぐらいでいい。自己否定は危険な試みではあるけど。イングリッド・バーグマンはうまいことを言った、「幸福とは健康と記憶力の悪さじゃないかしら。」と...
そして、人生の曲がり角を軽いアンダーステアで流そうとしたら、重いゲシュタルト崩壊を引き起こすのであった...
すべてが計画通りに進み、成すことすべてが完全に制御できれば、豊かな人生になるだろうか。いや、それはそれで窮屈なものとなろう。力み過ぎては、人生の曲がり角でスピンする。オーバーステアでは、問題の周りをぐるぐる回ってしまう。人生を彩るには、少しばかり荷重の抜ける余地を残したい。自然に荷重が抜けるように少し力を抜き、そして、精神をちょいと破綻させてみてはどうか。ちょいと狂ってみてはどうか...
人間ってやつは、ちょいと馬鹿なぐらいがいい。ちょいと自信がないぐらいがいい。ちょいと不器用なぐらいがいい。それを自覚できれば、なおいい。だから懸命になれる。ほんのちょっぴり幸せを感じるぐらいでいい。人間ってやつは、幸せ過ぎても、不幸過ぎても、残酷になれるものらしいから。どうやら欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようだ。
目の前は少しばかり霞んでいるぐらいがいい。これがチラリズムの哲学。物事は、ちょいと曖昧なぐらいがいい。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
人間は、人生のアマチュアであり続ける。合理主義は肩がこる。ならば、ちょいと不合理なぐらいがいい。人生には、道草、寄り道の類いが不可欠だ。あの大女優のセリフ「すこし愛して、なが~く愛して...」とは、なかなかの真理をついている。その証拠に、ハスキーな甘い声にイチコロよ。人生のコーナーを攻めるには、ステアリング舵角を小さめに、流れるように生きたいものである。五感をニュートラルにして...
ニュートンの法則によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。だが、人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。いや、影では、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じているらしい。鏡の前での念入りな厚化粧も、ひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれないと見える。
夜の社交場では、常識や形式を重んじる理性者どもが、ちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつかは知らん。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。
知性のコーナーを攻めるのも、なかなか手強い。学問が専門化によって没落するという意見をよく耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。問題は専門化ではなく、問題そのものが理解できていないことだ。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。いくら知識で武装しても、精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれた酔いどれ天の邪鬼には知性なんぞ無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしでしかない。
そして今日、四月一日に得られた帰結は...
人生のコーナーを限界まで攻めるには、ちょいとアンダーステアぐらいがいい。どうやらアル中ハイマー病とは、精神と記憶がアンダーステア状態にあることを言うらしい...
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