我武者羅にやっているうちに、突然、視界が開ける瞬間がある。ある種の突然変異であろうか。そんな感覚に見舞われることを期待しながら、むかーし、返り討ちに遭ったヤツに再挑戦!抽象数学の醍醐味を味わいたくて...
今回、縋るのは、数学30講シリーズ。一つ一つの講義は、10分ほどで読める量で、各々完結しているのも、ちょっとした時間に読もうかという気分にさせてくれる。それでいて、ストーリー性も匂わせてくれる。群論という巨大な要塞も分解してしまうと、軽やかな調べのように流れていくものらしい。そして、ようやく入り口に立てたような気がするのであった...
数学が数を対象とする学問であることは確かである。そして、万物は数である... とのピュタゴラス派の格言を信じるならば、その対象は無限に拡がる。自然数のような数そのものであったり、球形や多面体のような形を成すものであったり、はたまた、方程式のような関連性を記述する文字の羅列であったり...
本書は、まず正多面体から、対称群、交代群、巡回群... の成り行きを追う。群論の特殊な表記法にも馴染みにくいものがあるが、なぜこんな表記に至ったのか、その経緯も軽く解説してくれる。
そして、H を G の部分群とすると、G の元 g に対して、こいつの正体を追っていくわけだが、
gHg-1
巡回群を形成していく様子を眺めるだけでも、そこに暗号システムの源泉が透けて見えてくる。G = { g0, g1, g2, g3, g4, g5 } において、g6 = g0 となれば、巡回群となり、モジュロ演算との相性の良さが浮かび上がる。
そして、巡回群は位数によって分類され、左余剰類や右余剰類の意味を探りながら物語は進んでいく。ここで言う位数とは、有限群の元の個数のことだが、無限集合における濃度のようなものに見えてくる。個数を抽象化すれば、濃度になるってか。なんと、正多面体の頂点が左剰余類に吸い込まれていくではないか。剰余類とは、文字通りモジュロ演算に関係する。
さらに、加群の近さから距離の概念が登場し、位相群へといざなう。アーベル群の可換性から位相の概念へと導くのである。位相とは距離の抽象化というわけか。ここまでくれば、トポロジーが見えてくる。
それにしても、こいつらは本当に数なのだろうか。抽象度を高めるほど、考古学的とも言うべき暗号めいた記法へと導かれる。人間が編み出した自然言語は、宇宙の合理性には適っていないと見える。宇宙が有限ならば、向かう先も有限群ということになりそうか...
抽象的なものを相手にすると、効率的な表現法が求められる。プログラミング言語の世界では、文字列の集合体を効率的に記述する「正規表現」なるものがあるが、群論にもこれに似た思考法があるようだ。数学もまたある種の形式言語というわけか。表記法ってやつは、効率性を追求すると、暗号めいたものになって人間の感覚からは遠ざかっていくものらしい。そして、数論に発する抽象論は、表現論に帰着するのであった...
「群」の定義そのものは、なにも難しいことを告げてはいない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな。しかし、このお告げがなかなかの曲者ときた。交換法則なんて当たり前!なんて気を抜いていると、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。この酔いどれには、可解群や冪零群なんぞに興味はない。もっと実存感のある群を...
そこで、本書で躍動する群は、幾何学的なものが中心となる。シンメトリーを語るなら、まさに見たまんま。三次元空間の住人にとっての最も神聖な形といえば、球体であろうか。半径を元とする真円球の完全性に魅せられて。いや、人間ってやつは、角(かど)が立つものを欲する。自己が巻き込まれない距離で、他人が揉めるのを眺めるのがお好きときた。角のあるものを崇めるなら、プラトン立体であろうか。神聖なプラトン立体は、回転操作によるπの軽やかな調べに乗って、対称性の美へいざなう。
プラトンは、既に正多面体が五種類しかないことを知っていた。どうやって知ったかは知らんが。多面体の属性が、頂点、辺、面の三つであることも見たまんま。正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体をそれぞれ構成する面は、正三角形、正方形、正三角形、正五角形、正三角形となる。正三角形、正方形、正五角形の三つには、神が宿るのかは知らんが。対称性のパターンは、一つの形から出発して、規則立った移動、反転、回転などの操作を繰り返して生成される。この運動の原理を数学的に定式化することが、「群」という考え方の始まりというわけである。
とはいえ、完全な対称性は、ちと窮屈に思える。神の支配力が及び過ぎている感が。抑圧的で宗教的な感が。自然界は、ちょいとバランスを欠くぐらいが収まりがいい。自由を求めるならば、ちょいと調和を欠くぐらいでいい。数学の支配力が及び過ぎるのは疲れる...
「生物の形態や無機物の結晶などにみられる、神の創造としか思えぬような、見事な対称性や、起源をはるかシュメールやエジプトにまでさかのぼる多くの紋様や芸術作品にみられる対称性、これらの対称性は、つねにある特殊な美を表象している。対称性とは何かを分析し、抽象し、一般化していくと、そこに '群' の概念が現われてくる。プラトン的なイデアの世界に立っていうならば、対称性とは群そのものである。」
ところで、本物語の過程で「自由群」なるものが登場する。なんじゃこりゃ?束縛されない関係だとすれば、等式が成り立たないことになるが、となると独立事象ってことか?いや、割り算を介して関係をもつらしい。どうやら自由とは割り切れないものらしい...
「どんな群でも、自由群の商群として表せる。」
んん~、こんなものに何の意味が?自由ほど手に負えないものはない!と告げているのか。どんなに独立した事象であっても、宇宙創生の観点から何らかの関連性を見い出すことができる。宇宙がビッグバン理論のようなただの一点から誕生したとすれば、万物の構造は素粒子レベルでは似たり寄ったり。
そして、関連の度合いが、群論で言うところの位数に相当するのだろうか。位数が素数である場合に何らかの意味が内包されているのだろうか。思考過程では、ひたすら同型を求め... 同類を求め... 仲間を求め... その先に、人間が編み出すクローン人間にも、自己同型の位数がつきまとうのだろうか。やはり、ホモサピエンスという種は、ひたすら関係を求める性癖をもち、群れるのがお好きと見える。群論とは、寂しがり屋の理論であったか...
2019-04-14
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