2019-04-07

"天才ガロアの発想力 - 対称性と群が明かす方程式の秘密" 小島寛之 著

エヴァリスト・ガロア... この名を聞けば、あの忌々しいヤツが頭をよぎる。群論ってヤツが... おいらを数学の落ちこぼれにした張本人と言ってもいい。おいらは数学屋ではないが、いまだに付き纏ってきやがる。なので、ボトルを差し入れては数学屋さんに計算をお願いする羽目に...
体論はまだいい。四則演算の領域にとどまっている間はまだいい。だが、群論となると、抽象レベルが一段上がり、対象物の正体が一向に見えてこない。群の定義は、なにも難しいことを告げているわけではない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな...
しかし、こいつは二項演算における定義であって、この抽象的な演算系がなかなかの曲者。四則演算の領域をとっくに飛び越え、写像を含めたあらゆる変換系が絡んできやがる。おまけに交換法則が問われると、可換群や非可換群に枝分かれし、もうええっちゅに!算数レベルで眺めれば、交換法則なんて当たり前って感覚が、行列式を眺めれば、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。
対象があまりにも抽象的すぎるから、凡人には姿が見えてこないのか。代数学そのものが、数の代替物を用いて記述する抽象的な学問といえば、そうなのだが...
とはいえ、何事も正体ってやつは、ぼんやりとしているぐらいでちょうどいい。神の正体がはっきり見えたとしたら、おそらく身を委ねる気にはなれないだろう。これぞチラリズム!そして、数学は哲学になるのであった...

ガロアの父は、悪意ある司祭によって中傷され自殺したという。そのために正義感を強め、政治運動を過熱させていったのか。二十歳に女をめぐってピストル決闘で絶命。反抗的なエネルギーを持て余す少年の末路に、政治的な策謀があったかは知らない。
彼の遺書は、「もう時間がない!」から始まる壮絶な数学論文だったという。そこに記される「群」という用語に抵抗感があっても、数の構造や性質を観察すること自体は嫌いではない。本書は、この観察の目に、幾何学的なイメージを与えてくれる。
「群は対称性の表現だ!」
おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。昔からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメットは「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
本書に登場する幾何学的な操作は、まさに線対称や回転対称といった基本的なものばかり。これでガロアを語ろうというのだから... おかげで、群論への再挑戦!という衝動に駆られる。一度返り討ちにあったことも忘れて...

ガロア理論は告げている。「二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない。」と。五次方程式に解の公式がないことはアーベルによって証明された。だが、解ける場合もあり、アーベルはその判定基準を与えていない。ガロアは方程式が四則演算と冪根で解ける条件を完全に特定したのである。n次方程式を区別することなく群によって表現してみると、自然に解の性質が見えてくるという観点から...
ここで重要な概念は、「自己同型」ってやつだ。それは、代数的な性質を保ちながら対象を写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負の数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出してしまう。そこで、代数的な解法が存在するかを探るということは、代数体の性質を保ちながら体にとどまることができるかを探ることになる。写像が代数体の範疇にとどまれば、方程式の一般的な解法も存在するというわけである。
なるほど、解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見することであったか。そりゃ、人間には永遠に望めまい。ガロアの発想力は人間離れしている...

ガロアの思考法は、体と群という二つの数学構造を行き来しながら、「方程式の話を対称性の観点から群の話に置き換えた」ということのようである。関数的な操作では恒等写像や共役写像に重要な役割が与えられるものの、幾何学的な操作では、二次方程式の解から作った群を二等辺三角形の底辺の線対称に帰着させ、三次方程式の解から作った群を正三角形の対称性に帰着させ、四次方程式の解から作った群を四角形の対称性に帰着させる。そして、五次方程式の解から作った群を五角形の対称性に帰着させることができれば... ということになるが、かなり複雑であることが想像できる。正五角形のような対称性に収まる場合もあるけど。
解の部分群が巡回群になってくれさえすれば、なんらかの対称性を見出すことができ、このあたりに代数的な解法が存在するかどうかの判定基準が隠されていそうである。
本書は、ハッセ図で部分群を図式化してくれる。ハッセ図とは、部分群の家系図のようなもので、群の対応が視覚化できる。ハッセ図を用いて部分群をいじりたおす!という視点から、いわば、代数学と幾何学の相性を語ってくれているのである。

ところで、二次方程式の解の公式は義務教育で習ったが、三次方程式のものとなるとまったく相手にされない。二次方程式の解の公式は、幾何学的な操作でも証明ができるし、判別式の意義も説明しやすいというのもあろうけど。
そもそも解が存在するということは、因数分解ができることを意味する。三次では、一次と二次の積に分解すればいいので、おぞましい公式なんぞ覚えるのも馬鹿らしいってか。
そこで、本書で紹介されるフォンタナ(タルターリア)の思考法が参考になる。彼は、わざわざ x = y + z  を代入して、元々一つしかない変数を一つ増やしたという。三次方程式を一次方程式と二次方程式の連立方程式に帰着させるのである。
ただ、このやり方では、なぜ解けるのかが見えてこないし、三次方程式における解法は感覚的なもののように映る。
ちなみに、フォンタナとカルダーノは、三次方程式の解法の発見における中心的な人物で、論争のエピソードもある。タルターリアは「吃音」を意味し、フォンタナは幼少期にフランス軍の略奪によって顎に障害を負い、言葉が不自由になってそう渾名されたのだとか。おそらく論争は苦手であったろう...

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