2020-02-16

"特別料理" Stanley Ellin 著

前戯(前記事)で、伝説と謳われた「最後の一壜」を浴びせかければ、メインディッシュに、隠れ家レストランで幻とされる「特別料理」を喰らわす、この小説家ときたら...
飲酒家には、無二のヴィンテージを目の前でお釈迦にし、美食家には、肉汁たっぷりの魔性の血腸詰を頬張らせ、こいつは神への冒涜か!スタンリイ・エリンは、人間に潜む数々の悪意を、非情なまでに皮肉たっぷりに暴いて魅せる。幻想や妄想ってやつは唱え続けると、それが現実になるって本当だろうか。そもそも精神の実体が幻想のようなもの。推理小説がある種の心理学の書というのは本当らしい...

特別料理の食材は、アミルスタン羊!
アミルスタン種ってなんざんしょ?御存じない?まさに絶品でしてね。まさにスペシャル!そちらの恰幅のいい旦那にだけこっそりお教えしましょう。ささ、どうぞ厨房へ...
ちなみに、amir(アミール)はアラビア語で支配者や王族の称号を意味し、アミルスタンとは、どうやら裕福で贅沢に肥え太った種のことらしい。太った羊が美味いかどうかは知らんが、羊は宗教との結びつきの強い由緒ある動物。子羊は、イスラム世界では生贄の動物とされ、キリスト世界では磔刑にあったキリストの象徴とされる。迷える子羊とは、神という牧人に導かれる大衆のことだ。文化人類学によると、かつて人肉嗜食という文化があったと聞く。カニバリズムってやつだ。人間という種は人肉を餌食する本能から抜けられないと見える。実際、人間社会には人間を貪って太ろうとする輩がわんさといる...

それはさておき、ここは美食家の集うレストラン。高級志向で選ばれし客しか入れない。この店では選り好みができない。出されたものを黙って食すだけ。美味いものをひたすら食べさせられ、ブクブク太らされるという寸法よ。店主は、「不思議の国のアリス」に出てくるチェシャ猫のように、ニヤニヤ笑みを浮かべておもてなし。
そして今宵、滅多に出されないスペシャル料理が用意されたとさ。古今に絶した料理の傑作中の傑作が。しかし、十年間ずっと見かけてきた、いつもの席に座る太った常連客がいない。この日に限って、その存在がスペシャルときた...

尚、本書には、「特別料理」、「お先棒かつぎ」、「クリスマス・イヴの凶事」、「アプルビー氏の乱れなき世界」、「好敵手」、「君にそっくり」、「壁をへだてた目撃者」、「パーティーの夜」、「専用列車」、「決断の時」の十作品が収録される。

[お先棒かつぎ]
真面目すぎるがゆえに雇い主にいいように操られ、殺人までも。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない。もはや誰の意志か?
「わたしと同類の人間という動物の大多数にとって、大事なのは自分に与えられた役割というものであって、動機でも結果でもないということだ。」

[クリスマス・イヴの凶事]
二十年前のクリスマス・イブ。妻を亡くした旦那は、以来、部屋に籠もって壁とにらめっこ。そして二十年後のクリスマス・イブ、弁護士が訪れ、義妹殺しで姉に疑惑を抱く。姉も弟も時間は止まったまま。ただ、姉はすっかり老婦人に、なんとも黄昏感を帯びたミステリー...

[アプルビー氏の乱れなき世界]
法医学書ってやつは、狂気と欲望の結果の恐るべき研究か。おぞましい事例集は、まるで殺人マニュアル。この権威ある書によると、小型絨毯は酔っ払い運転よりも多くの人命を奪っているという。マニュアルどおりに、金持ちの妻を娶っては絨毯を引っ張って事故に見せかけて殺し、それが六人も続けば、七人目が本当に事故だとしても...

[好敵手]
チェス好きの夫と、まったく趣味の合わない妻。妻はチェスの相手を招くことを嫌う。もてなしが面倒なのだ。仕方なく一人チェスをやり、盤面をグルグル回しているうちに、自我もグルグルになり、ついに分裂。
ちなみに、仏教用語に「トゥルパ」という語があると聞く。化身や幽体離脱といった類いで、仮想実体のような存在を言うらしい。精神分裂病も、自我の二面性に幽閉されるという意味では同じこと。そして、本当の自分はどちらの側に?夫にとって白は好敵手。白にとって妻は邪魔な存在。一人二役を演じていると、もう一つの人格が独り歩きをはじめ、ついにやっちまったってか。警察官の尋問に... 私の名はホワイトです!
「それじゃ一つ教えてもらいたいが、およそ自分は欠点だらけの愚かな女のくせに、自分より限りもなく立派な男と結婚して、それからその男を自分と同じレベルに引き下げ、それでもって自分の弱みと愚かさを隠しおおすことを生涯の執念としている女よりも残酷な存在があるかね?」

[君にそっくり]
その連中ときたら、どいつもこいつも同じ型紙をあてて切り抜いたような奴ら。いい家の出、有名校出身、おまけに、やる気充分であることを上品に見せる能力とくれば、面接官もコロリ。そんな連中に憧れて、服装や立ち居振る舞いを真似れば、同類項になれるだろうか。そこに、かつて上流社会に身を置いていた人物と出会う。彼は自分の失態のために、富豪の父親に追い出されたのだとか。彼の真似をして生きていくうちに、そっくりさんに。真似られた元の実体は、そっくりさんに抹殺され。そして、ある富豪の娘と結婚を企てるも、その富豪の息子は行方不明で、そっくりさんにそっくりだったとさ...

[壁をへだてた目撃者]
壁を隔てた隣の部屋の女性の声に恋をして。彼女には暴力狂の夫がいて、悲鳴が絶えない。ある日、凄い物音とともに女性が殺された?彼女を助けるために警察を呼び、事細かく事情を説明するが、あれ?死んだのは男!その証言のために殺人動機は十分ときた。幻想が幻想を呼び、妄想が妄想を掻き立て...

[パーティーの夜]
舞台俳優の妻はホームパーティーがお好き。夫は、こんな連中との付き合いがもううんざり!愛人の女優と逃げようとすると、妻に拳銃で撃たれ、その場に倒れる。そんな女優との共演が何度繰り返されてきたことやら。自己に毒づく自己愛が現実逃避に求めた場所は、舞台か?現実か?そんなことは知らんよ。本人でさえ...

[専用列車]
株屋の専用列車は、会社の重役やその道のプロといったスペシャルな連中が帰宅に利用する。列車を降りると、自動車の中で熱烈なキスを交わす妻と知らぬ男。怒った夫は、自動車事故で正義の裁きをくらわせる。アスピリンを飲んで居眠り運転を装い、浮気相手をやっちまった。その仕返しに、妻は夫を自動車に乗せて共に専用列車へ向かって突進!

[決断の時]
あまりに徹底的な自信家は、人から好かれないもの。ある高名な館を賭けて自信家同士が対決する。相手は手品師で、脱出奇術のし掛けを自信満々に語ってみせる。応用できる道具はなんでも。一筋の針金、一欠片の金属、一片の紙切れさえも。しかしながら、案じて生命を託す気になれる道具は、ただ一つだという。それは目にも見えず、手に取ることもできないもので、一度として裏切ったことがないそうな。どうやら人間の性質に関わるものらしい。錯誤誘導の類いか。手品師は、予め自分は心臓病を患っていることを告げる。
そして、密室のドアを閉め、そこから一時間以内に脱出できるかどうかの賭けが始まった。手品師は、息が苦しいと叫ぶ!ドアを開けるか、開けないかの決断の行方は?
「完全なジレンマに直面した時はじめて啓示を読み取るだろうという真の意味をさとった。それは人間が否応なしに自己の深みに目を向けさせられる時、おのれについてあるいは学ぶかもしれないことの啓示だった...」

0 コメント:

コメントを投稿