2020-02-02

"経済学の名著30" 松原隆一郎 著

人間には縄張り意識という性癖がある。それは、客観性を謳う学問の世界とて同じこと。どんな学問分野においても、学派に分かれては互いに批判しあう風潮が見てとれる。ただ、正しく理解しなければ、正しく批判することもできまい。こと経済学においては、学派の群れは流行り廃りが激しく、やれケインズは死んだ!だの、もはやスミスは遺物!だのと吹聴する輩をよく見かける。確かに、どの処方箋も不十分。
しかし、だ。偉大な警鐘を抹殺してきたのは経済学者たち自身ではないのか。ある経済学者は経済学を学ぶと利己的になりやすいと指摘したが、カネの研究に走ると目先の現象に囚われやすいのか、現在の多くの経済モデルが何らかの形でマネタリズムを包含しているかに見える。生き甲斐までも金儲けの道具としてしまえば、やはりそういう目で見てしまう。
小さな政府と大きな政府、自由競争と価値分配、計量化アプローチと非計量化アプローチ... 等々の対立構図を煽っては、自由と平等の対立にまで及ぶ。経済学の枠組みでは、自由という価値観を「自由放任主義」という用語でひと括りにしてしまうが、自由ってやつは実に掴みどころのない多様な概念で、いかようにも解釈できる。悪行をやるのも、自由といえば自由なのだ。「道徳感情論」を著したアダム・スミスは、確かに「見えざる手」について言及した。彼はあの世で愚痴っているだろう。経済学の父と呼ばれることに違和感を抱きつつ...
「古典が古典であるゆえんは、異なる時と所での観察や思索をもとに、現在を支配する考え方に対しまったく別の地平から異論をつきつけてくるところにある。議論が乗っている地平そのものが異なるのだから、まずはそれを理解しないと反論もできないだろう。しかし独占志向が強すぎるせいか、経済学には誤解したままでの反論があまりにも多い。『経済学の進歩』と言われるものの大半は、誤解によって異説を排除し、自派の説を体系化することにすぎない。」

本書は、反目を繰り返す経済理論史のゴタゴタ劇にあって、30冊を好意的に紹介してくれる。なるほど、中立の目で眺めるには、好意的に書き下ろすのが合理的というわけか。歴史やその背景を紐解きながら、短所を踏まえて長所を拾い上げ、なにゆえそのような考察に及んだかを想像してみる。
重商主義は、封建的束縛から民衆が解放されつつある時代に、貿易という手段をもって自由精神を体現しようとした。貿易による差額に目をつければ、サヤ取りの原理を旺盛にさせていくのだけど。
市場メカニズムは、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとした。世間で非難される投機行為だって、政府や企業の思惑を排除した形でお金が流れるという意味では、より客観的な行為という見方もできなくはない。そこで、市場参加者の価値観が多種多様であることが鍵となるが、群がる価値観は偏りすぎるほどに偏っており、欲望が相殺するどころか、一方向に暴走を始める。
その暴走の処方箋として登場したケインズ理論は、世間に政府介入の必要性を知らしめたが、今度は一部の業界との癒着を助長し、ピラミッドでもなんでも造ってしまえと、無駄な公共投資を呼び込む。
こうして眺めていると、それぞれの時代背景の下で、過去の経済学者たちの考えはそれなりに納得できる。要するに、万能な経済理論がいまだ発見されていないというだけのこと。経済理論は常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の理論はゾンビのように蘇る。この学問分野は中庸という概念がすこぶる苦手と見える。呪文のように唱えられてきた、見えざる手、自由放任主義、労働価値説、マルクス主義、ケインズ改革... いずれも自足を満たせずにいる。
そして本書で展開される、ロックの「統治論」やスミスの「道徳感情論」に始まる名著めぐりも、マネタリズムへ傾倒していく様を概観しながら、仕舞にはアマルティア・センの「不平等の再検討」に引き戻される。いま自由の砦を死守せねば... 市場の奴隷にならず、貨幣の奴隷にならず...
「自派のとはまったく異なる発想がありうることを知ることこそが、古典を読むという行為の醍醐味である。ケインズの『一般理論』を通読しても第十二章は読み飛ばすとか、スミスの『国富論』に目を通しても『自然な資本投下の順序』という概念は無視するといった読み方では、古典を読んだことにならない。たとえ理解できなくとも、また自説にとって不都合であっても、違和感を否定せず記憶に留めるような謙虚さを持ち続けることが、古典を読むことの意義なのである。」

本書は、マルクス派のマルクス知らず、ハイエク読みのハイエク知らず、ケインジアンのケインズ知らず... といった皮肉を交えて物語ってくれる。この酔いどれ天の邪鬼ときたら、この皮肉な面ばかりに目が行ってしまうから困ったものである...
市場への介入を論じた者はすべて重商主義者とみなされた時代、彼ら経済思想家たちは本当にスミスの敵だったのだろうか。「国富論」については、まだまともに読まれていない!と言い放ち、道徳論を無視した形で経済学が専門分野として邁進していく様を物語る。
リカードの「比較優位説」には感服したものだが、既にこの時代に、フリードリッヒ・リストは「資本主義には文化に応じた型がある」と論じていたとか。現代の画一化へと向かうグローバリズムへの警鐘ともとれる理論を。
生産と分配の図式に則った J. S. ミルの社会改革ヴィジョンは、自分が幸福になろうとするのは人間の基本行動だが、なにも直接自分の幸福を目的とせずとも、幸福感を味わえる方法があることを告げている。人助けや社会に役立つなどの動機で。物質的幸福と精神的幸福の両面から論じたミルは、功利主義が一枚岩ではなかったことを示している。
ワルラスの一般均衡理論は、自由競争のもとで市場が自動的に需給の均衡をもたらすことを論証しようとした。だが、ワルラス自身はちょっと風変わりな社会主義者だったようで、思想的にも土地の固有を訴えた父を引き継いでおり、結果的に資本主義擁護論を唱えてしまったことが不本意であったとか。
バーリとミーンズが著した「近代株式会社と私有財産」は、既に所有と経営の分離について論じられている。株式会社の登場は、17世紀のオランダやイギリスの植民会社に見て取れるが、現在でも会社は誰のものか?などと論争を繰り返す。スミスは、個人会社こそが利潤の追求と経営の合理性を両立させ、ひいては国富の増進に寄与すると述べたという。経営者が自分で資本を保有し、労働者を直接雇い、土地を自分の名義で借りるため、責任をもって利潤に励むからと。マーシャルも経営者が所有者でもある古典的な中小企業の形態が望ましいと考えたとか。このように、経営者が企業の非所有者でありうる株式会社の形態は、放漫経営に陥ると指摘した経済学者は少なくない。そして21世紀、M&A が横行し、企業ガバナンスの問題を露呈する。
ケインズの「一般理論」には、所有と経営の分離の観点から株主が企業の利潤や配当を当てにするよりも投機に走りがちになり、過剰に悲観して貨幣を使わなくなって流動性の罠に陥り、そのために不況を招き入れるという主張も含まれていたようである。そして本書は、「一般理論」をこう評している。
「ワルラス以降の新古典派が工学化を推し進めていた経済学を、人間社会の学 = モラル・サイエンスの圏内に復帰させようとした記念碑的作品である。」

サムエルソン経済学は、教科書としての地位を獲得した。その特徴は、ミクロとマクロという二つの視点。ミクロ理論では新古典派的に、企業や消費者、労働者や資本家など個別の経済主体の行動を最適化し、それらの集計した需要と供給の価格の調整作用により市場の均衡を分析する。マクロ理論ではケインズ理論的に、雇用量や一般物価、利子率や生産量、国民所得、消費や投資額などの変数の関係を、消費関数や投資関数、生産関数、需要関数や供給関数などによって定式化し、これらを用いて財市場、資産市場、労働市場などを均衡状態として描き出す。両者はミクロとマクロの相違はあれど、市場を均衡において捉える点で共通している。
しかしながら、本書はサムエルソン教科書の罪も指摘している。以降の経済学は、フリードマンやルーカスらの数式志向へ急速に傾倒していき、ノーベル経済学賞の方向づけともなった。マネタリズム時代の幕開けである。だからといって、数式志向が悪いとも言えまい。客観的な価値判断を数量化することの意義は大きい。問題は思想哲学を見失ってしまったことだ。経済学は哲学を持つにはまだ早すぎるってか...

本書は、マネタリズムへ流されそうな経済学の名著めぐりにあって、物質的経済学から精神的経済学へ引き戻そうとする意図をどころどころに見せる。ちょいと異質なところでは、豊かさを論じたガルプレイス、正義の側面から論じたロールズ、さらには、マネジメントとイノベーションの側面からドラッカーも登場する。そして最後に、アマルティア・センの貧困についての言及で締めくくられ、ホッとする...
ところで、マルクスの「資本論」だが... 二十年もの間、こいつが ToDo リストの読書欄にずっとのさばっていやがる。お茶を濁そうと、「資本論」の序説に当たる「経済学批判」に触れた時はなかなかのものだと感じ入ったものだが、「共産党宣言」に触れた途端に距離を置きたくなる。万国のプロレタリア団結せよ!などと叫ばれた日にゃ...
そして、本書のこのフレーズで、やっぱり読んでみようかなぁ... という気にさせてくれるが、どうなることやら...

「使用価値はけっして資本家の直接の目的として扱われるべきではない。それどころか個々の利潤ですらその目的とはいえず、目的はただひとつ、利潤の休みなき運動である。より多くの富をめざすこの絶対的な衝動、この情熱的な価値の追跡は、資本家にも貨幣退蔵者にも共通している。しかし貨幣退蔵者は愚かしい資本家でしかないのに対して、資本家は合理的な貨幣退蔵者である。貨幣退蔵者は流通から貨幣を救い出すことによって価値の絶えざる増殖をめざすが、もっと利口な資本家は貨幣をたえず新たに流通へとゆだねることによって同じことを実現する。」
... 「資本論」第一巻第二篇第二章より

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