2020-12-20

"確率の出現" Ian Hacking 著

確率論という学問は、数学の一分野に位置づけられるものの、ちと異質感がつきまとう。数学ってやつは、他のどの学問よりも客観性を重んじ、数学の定理は何よりも明瞭な確実性を備える。なのに確率論となると、主観確率なるものを持ち出し、確からしさという曖昧な物理量を堂々と算出して見せる。偶然までも手玉に取ろうってか...
生か!死か!と存在の可能性までも論じ、まるでシュレディンガーの猫。存在の薄いチェシャ猫も、運命論に招き入れようと、ほくそ笑む。考えうる事象をすべて抽出し、各々の度合を考察する点では、組合せ論や集合論に通ずるものがあるが、明らかにピュアでない。応用数学とも違う。むしろ社会学に近く、統計学と瓜二つ。数学の限界を試すかのような...

とはいえ、人間社会で生きてゆくには、確率と無縁ではいられない。社会保障に年金、企業経営に市場メカニズム、災害リスクに疾病リスク、デジタルシステムの誤り訂正率に製造品質の歩留まり、そして、生命体の避けられない遺伝子の変異率など、あらゆる意思決定プロセスで幅を利かせている。
あのパスカルだって、賭けに出た。宗教を信じるのが楽か、神の存在を信じるのが合理的か、と。いまや確率は、運命の指導原理として君臨してやがる...

主観のようで主観でない、客観のようで客観でない、ベンベン!
数学は告げる。コイン投げで表か裏の出る確率は 1/2、サンプルが多いほどこの値に収束する... と。ならば、表が何度か続けばそろそろ裏が出そうな、あるいは、これだけ表が続けばこのコインは表が出やすいよう変形している、なんてことも考えてしまう。現実社会を生きてゆくのに、理想モデルだけでは心許ない。コルモゴロフの公理モデルだけでは...
ほとんどのケースでデータ量は不十分、知識も不十分、それでも前に進まなければならない。となれば、直観ってやつが役に立つ。実際、ギャンブルで勝つには、サイコロの目、カードの流れ、牌の気配といったものを読み、確率を超えた嗅覚が求められる。
確率では、独立性が重要な鍵となる。それは、客観的な視点を与えてくれるからだ。しかしながら、確率事象が、けして過去に影響されないものだとしても、人間ってやつは過去を引きずって生きている。今まで生きてきた時間を無駄と考えることほど虚しいものはなく、過去の経験を未来への期待値に転化せずにはいられない。精神空間で、この時間軸を見失えば、たちまち精神病を患うって寸法よ。

おそらく、人間の認識能力で完全な「純粋客観」なるものを扱うのは、手に余るであろう。だから、「客観性」なのである。そして、客観性そのものが確からしさの天秤にかけられる。
そもそも人間が思考するのに、完全に主観を排除することは可能であろうか。直観はきわめて主観の領域に近い。が、主観確率となると、限りなく客観の領域に入り込もうとする。限りなく近づくということは、けして到達できないことを意味する。それが、微分学の美学ってやつよ。
ベイズ主義が主観主義の代弁者かは知らん。頻度主義が客観主義の代弁者かも知らん。確率論とは、中庸を模索する学問か、いや、妥協を模索する学問か。まさに、人生は妥協の連続!これほど、人生戦略に適合した連続関数はあるまい...
尚、広田すみれ、森元良太訳版(慶應義塾大学出版会)を手に取る。

「p を支持する理由を把握することは、その原因を理解することであり、なぜ p であるかを理解することである。」

1. 確率論という思考の幕開け
1865年、アイザック・トドハンターは「確率の数学論史 - パスカルからラプラスまで」という本を出版したという。確率の歴史は、パスカル以前に記すべきものがほとんどなく、ラプラスでほぼ語り尽くされたというわけである。
とはいえ、人類の歴史で、賭博の存在しない時代は見当たらない。人間の認識能力ってやつは、あいも変わらず時間の矢に幽閉されたままで、未来志向から抜けられないでいる。未来を占う呪術や占星術の類いは古代から健在であり続け、近代科学の時代になっても大勢の人がハマる。神の意志をサイコロの目と同等に扱うのは、不謹慎極まりない!ってか。かの大科学者は「神はサイコロを振らない!」と豪語した。代わりに人間が振ってりゃ世話ない。
パスカル以前に欠落していた思考は、証拠や検証の概念ということか。数学で言えば証明の手続き。あらゆるシステム構築で欠かせない概念ではあるが、完全である必要はないし、完全を求めすぎても前に進めない。現在では、ランダム生成器なしにアルゴリズムの検証も難しいが、未来予測のためのランダムモデルの導入が、確率から確率論へ進化させた、と言えそうか。
それにしても、不思議な現象がある。生起する事象の曖昧さを数学が明るみにすればするほど、ギャンブルに走る人が増えようとは。ギャンブル依存症は古代の記述にも見られるし、人生そのものがギャンブルなのだから仕方あるまい...
「先人たちはランダム生成器を作り出し、また、サイコロで安定した頻度の生成もおこなった。そして帰納的推論という、(前提が正しくても)結論は確からしいものにしかならない推論法も引き出した。」

2. さすらいの確率論、二元性の狭間で...
確率は、二元論的だという。一方で、合理的な信念の度合い、もう一方で、長期試行における安定した頻度の傾向であると。認識論と統計学の共存というわけか。この二面性を克服しようと、信頼性、傾向性、性向など様々なパラメータが試されてきた。
統計的安定性という観点は、極限定理や大数の法則を示唆するが、今この瞬間の状態は、曖昧さを残したまま。正規分布が、独立した事象の集合体にせよ、その集合体の誤差にせよ、やはり状況は変わらない。
この瞬間の曖昧さまでも完全に明瞭化することができるとすれば、それはいったいどんな世界なのだろう。いや、曖昧さってやつは、曖昧であってこそ価値があるというもの。人間の存在価値とは、解釈の余地を残すことであろうか...

3. 帰納論理という道具
古来、数学の証明には、二つの道筋がある。演繹法と帰納法が、それだ。おそらく王道は、演繹法であろう。あらゆる物理現象を論理形式で演繹的に説明できれば、それに越したことはない。だが、そうはいかないのが現実世界。むしろ、帰納法の方が有用な場合が多い。ルネサンス時代には、前者を高級科学、後者を低級科学という見方があったらしい。現在でも、その余韻を感じないわけではないが...
"probable(蓋然的)" と呼ばれるものは「臆見」に属し、論証で導かれる知識と対照をなしていたという。証拠立てには、権威や尊敬される裁定者の証言が是認された時代である。臆見は、科学者には受け入れがたいであろう。
とはいえ、帰納法はユークリッド原論にも記述を見つけることができる。その代表が互除法ってやつで、これを低級科学とするのはいかがなものか。確率の思考がまだ信仰心に毒されていた時代、神の命題を弁証法的に論じたパスカルによって思考が解放された、という見方はできそうか。あるいは、それも賭けだったのか...
何に賭けようが、完全に証明できれば問題はないが、帰納的な証明は脆さがある。「全てのカラスは黒い」という命題ではないが、一つの反証例が示されればそれでおしまい。そこで、「黒でなければ、カラスではない」とすればどうだろう。カラスでなければ、別の名前を与えればいい。それで証明は成り立っているだろうか。帰納的な思考には、常に詭弁がつきまとう。自己矛盾という詭弁が...
現代社会でも、完全に正しいというより、だいたい正しいとする方が有用なケースが多い。デジタルシステムにも多くの事例を見つけることができる。例えば、検索アルゴリズムでは、じっくりと時間をかけて 100 % の正解率を得るより、スピード感をもって 90% ぐらいの正解率を得る方がありがたい。データ領域のゴミ掃除をしてくれるガベージコレクションのアルゴリズムにしても、完全なゴミ判定を試みるより、明らかにゴミと判定できるものをさっさと処分してくれた方がありがたい。リソースの贅沢な時代では、少しぐらいゴミが残っても、システムに影響を与えない程度なら充分に使える。たまーに、再起動に迫られるけど...
リスクとのトレードオフでは、「確からしさ」という思考は有用である。現代人は忙しいのだ。寿命が伸びたからといって、のんびりとはしてられない。期待値は、結果ではなく、過程の情報を与えるだけだが、行動指針の材料にできる。大数の法則を会得したからといって、有意義な人生を送れるかは別の問題。数学が道具なら、確率論も道具。道具ってやつは、いかに用いるか、それも使う人次第ってことに変わりはない...

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