何事も、その本質を覗きたければ、逆説的に論じてみるのも一献。押してもダメなら引いてみな!ってな具合に...
ここでの逆説の対象は「芸術」とやら。近代的芸術論は、「美学」という学問の成立と連関しているという。美学とは、哲学に近い用語であろうか。「近代的」というのは、18世紀にヨーロッパで成立したものを言うらしい。
古来、芸術は自然との関係から論じられてきた。アリストテレスの芸術論は自然主義を重んじ、詩や音楽の奏でる心地よい響きに自然との同化を思わせる。
しかし、だ。芸術ってやつは、きわめて人為的な試み。いや、人間そのものの投影という言うべきか。実際、自然風景の原物よりも、それを描いた絵画の方に価値が認められる。純粋な自然の光景に、脂ぎった人間の精神を混入し、塩と胡椒で味付けをやる。これが、芸術ってヤツか...
おまけに、芸術家ときたら、自分の生きる世界に対して、徹底的なこだわりを見せる。妥協ってやつが、人生を楽にしてくれるところもあるのだが、あえて苦難を受け入れ、時には利己主義に走り、時には快楽主義に身を委ね、自我ってヤツと存分に対峙しながら自己陶酔に耽る。その生き様にこそ、ある種の美学が備わる。美学とは、エゴイズムの類いか、ナルシシズム類いか...
鑑賞者の方はというと、感銘を受ける芸術作品に出会えば、自分の生き方と向かい合い、自省を促されることも。感動に対する自己分析、作品に対する批評、その身勝手な矛先は、芸術家にも向けられる。そして、理解できないとなれば、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。認識できなければ、感動もできない。幸せなんだか、不幸せなんだか...
建築物や美術品に目を向ければ、シンメトリー、黄金比、ルート矩形といった幾何学原理に溢れ、ここに美意識が体現される。
プラトン立体は美しい。だが、自然界を見渡しても、こんな形式的なものは見当たらない。黄金比は美しい。こちらの方は自然界に溢れている。松ぼっくり、ヒマワリの種、サボテンの刺、巻貝の螺旋形... 等々。動植物が美しく見える配列にフィボナッチ数列が出現すれば、そこに偉大な宇宙法則を感じずにはいられない。
自然界に耳を澄ませば不規則な音源に溢れ、人口の溢れる街がこれらの音源を掻き消す。自然な音源が乏しくなると、人間はますますリズムやハーモニーといった人為的な音源を渇望する。十二音技法は、精神的合理性と数学的合理性の混合物か。大バッハは、ここに対位法の完成を見たのであろうか...
偉大な芸術作品には、神と悪魔が同居する。マクベスには、自我に潜む悪魔を目覚めさせ、ツァラトゥストラには、神は死んだ!と叫ばせ、ダンテに至っては、地獄の門、煉獄の門、天国の門を同心円上に描いて御満悦と見える。人間の美意識は、神に看取られるだけでは不十分だというのか。
それは、自然と形式の調和、もっと言えば、秩序と無秩序の調和によってもたらされる。矛盾ってヤツは調和しちまえば心地よいが、凡人の為せる業ではない。悪魔をも味方につける業となれば、尚更。芸術家たちは、鑑賞者の好奇心を焚きつける。作品を理解し、十分に味わいたければ、もっと高みに登ってこい!と。鑑賞者も負けじと、ますます刺激を求め、もはや自然との同化だけでは満たされない。主題は、残虐でも、滑稽でも、愚鈍でも、精神を体現できるものなら何でもあり、狂気をも芸術にしちまう。
例えば、ピカソの「ゲルニカ」などは、自然主義から掛け離れ、まるで数学的観念論!そう、キュビスムってやつだ。三次元の物体を様々な角度から眺めながら重ね合わせ、一つの統一体として二次元にマッピングして魅せる。アリストテレスがこれを見て、芸術と認めるだろうか...
「芸術世界の中で芸術家であるということは、過去に対してある立場をとることであり、そして必然的に、過去に対して自分とは異なった仕方で対応する同時代の人々に対してもまた一つの立場をとることである。従って、ある芸術家の作品は暗黙の内に、先行する作品と後続する作品への批評である。」
世間では、芸術家と呼ばれる人種は、独創的な主体として認識されている。だが、独創と模倣の関係は微妙である。模倣の動機は憧れの情念に発し、対象を正しく理解しなければ正しく模倣できないし、それを批判するにしても、やはり正しく理解しなければできない。健全な懐疑心を放棄すれば盲目となるばかり。芸術家たちは徹底的に模倣に明け暮れ、試行錯誤の上で独創性を覚醒させていく。ラファエロしかり、ミケランジェロしかり、ダ・ヴィンチしかり。彼らは芸術的な行為を義務や使命にまで高めていく、偉大な模倣者とでも言おうか...
「独創性の概念の成立は、芸術家が自己に先立つ規範から自己を解放しつつ、むしろ自己自身の内に一種の規範性を獲得する過程を証している。」
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