2019-02-10

"開高健ベスト・エッセイ" 小玉武 編

小説「ロマネ・コンティ...」に誘われ、なにやら懐かしい風を感じる文体に吸い込まれる。デジャヴってやつか...
やはり随筆はいい。小説家の書き下ろした随筆はいい。小説の仕事は、著者の筆を物語の設定や形式の中に封じ込める。わざわざ息苦しい枠組みを自らこしらえ、煩悶する。なにゆえ、そのような企てを試みるのか。M な性分がそうさせるのか。そこから自己を解き放った時、その反動から何が見えてくるかを期待してのことか。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、真の自由を知ろうとすれば、束縛をも受け入れなければならない。求められる視点は、日常に対する鋭い観察眼、人間観察と自己観察。随筆とは、まさに人生試論!過去の作品群と対峙する自省論は自らの歩みを露わにし、顔を赤らめずにはいられまい。この試みが、人生哲学をより明確にすれば、自己破壊へ導かずにはいられまい。なぁーに心配はいらない。人間狂わずして、何が見えてくるというのか...
「何かを手にいれたら何かを失う。これが鉄則です。何物も失わないで何かを手に入れることはできない。それは失ったものに気がついてないだけ、あるいは手に入れたものについて気がついてないだけ。失ったものと手に入れたもののバランスシートは誰にもわからない。」

さて、開高健というと、ウィスキーの CM のイメージがいまだ残っている。モンゴル草原に幻の魚を求めては、私はさまよっていた... などとつぶやく釣師に、タヌキを水筒代わりに腰にぶらさげてアラスカ列車に FLAG STOP をかける冒険家といったイメージである。両人対酌すれば山花開く、一杯一杯復た一杯(李白)... こうした名文に出会えたことも喜びであった。
彼は、壽屋(現、サントリー)の専属コピーライターとして活躍した。酒の宣伝で欠かせない BGM といえば、ウィスキーを注ぐ音... ドクドクドク。これには学生時代の悪夢が蘇る... レッドやトリスを一気飲みさせられて... 毒、毒、毒!そして、あの有名なフレーズが蘇る。
「人間らしく やりたいナ トリスを飲んで 人間らしく やりたいナ 人間なんだから...」

本書の魚釣りの場面では、「キャッチ & リリース」という言葉が登場する。このフレーズも、開高健が広めたという説を聞いたことがあるが、真相は知らない。哲学者たちが遺してきた名言や格言の類いは人生のキャッチコピー、いやキャッチ & リリース、言葉をキャッチして次の世代に解放していく。一度捕まえた恋人も、いずれ手放すことに。随筆も、小説という枠組みに囚われながら、自我を解き放つ。人生は、まさにキャッチ & リリースの連続か...
酒も、魚も、心地よく食すには腐らせ方の按配が難しい。やはり人間も、腐らせ方が肝要なようである。年老えば、足が臭くなり、口が臭くなり、酒宴の席で醜態を演じ、精神が腐っていくのを感じる。現在は瞬く間に過去となる。いい頃合いにリリースしてやらねば... 智恵が哀しみにならぬうちに...
ちなみに、いい酒とは、こういうものを言うそうな...
「こんな女がいたらさぞや迷わせられるだろうな、と思いたくなるような酒がいい酒なの。黙ってても二杯飲みたくなる酒がいい酒なの...」

「釣師というものは、見たところ、のんきそうだが、実は脱走者で脱獄者だ。仕事から、世間から、家庭から脱出しようとあがきながら、結局、脱出できないことを知って、瞬間の脱獄気分を楽しんでいる囚人だ。」
... 林房雄「緑の地平線」より

1. 小説は文学か、文楽か...
「気質からいえば私は文学部へいくべきであったかも知れないが、当時の気持では、大学の文学部の存在理由が私にはのみこめなかった。経済学や法学などは "学問" の対象として扱ってもさしてむりはないように思うが、だいたい文学部で教えることは語学をのぞけば、小説や戯曲などの解説である。古典作品、現代作品の区別を問わず、いったいこうしたものは "学問" といえるものなのだろうか。いわゆる文学的感動なるものはしばしばゴロリとねころがって読んでいるときに訪れるではないか。"文学" とは本来 "文楽" と書かれるべき性質のものではないか。教壇のうえから教えられたところでどうなるものでもあるまい。のみならず、たいていのものは教壇にのぼると、砂をかむようなものになってしまう。これがこわい。ほんとに文学を愛するものは文学部と無関係である。アホらしい...」
そう考えて法学部へ進んだそうだが、出くわす文章がことごとくハイボールからウィスキーを抜いたような代物ばかりで、およそしらじらしきこと。たちまち言葉の鬱へ導かれる。自分の思考を確かなものにしようと思えば、精神の実体を確かなものにしようと思えば、言葉にしてみることだ。生きることが息苦しければ、言葉に救いを求める。言葉が記憶を確かなものにし、歩みを確かなものにする。
とはいえ、言葉だって実体があるかどうかも分からないし、もしかしたら幻想かもしれない。開高健は小説家としての持論を軽く言い放つ...
「食べ物と女の話が書けたら一人前だ!」

2. 喜劇の時代
小説作品は、発作にそそのかされて編み出されるものらしい。衝動によって導かれるのであれば、道徳に反抗する形で現れる。天国の言葉を軽く、薄っぺらなものにし、煉獄や地獄の言葉を重く、哲学を匂わせる。
小説を書くとは、ある種の病いか。もがき、あがき、慢性宿酔で苦しみ、気がつくと酷い体力減退。しかも締切に追われる日々に、自由な筆も義務と化す。義務も、依存症も、たいした違いはなさそうだ。小説家とは、なんと儚い職業であろう。いや、読者だって儚さでは負けちゃいない。歳を重ね、くだらない経験を積んでいくと、癒やされる文章に縋るしかないのだから...
「現代は考えることのできる人にとっては喜劇、感ずることのできる人にとっては悲劇、こういう時代です。いつの時代もそうかもしれないがね。それで、考えることのできる人と感ずることのできる人の数を比べてみると、いつの時代も感ずることのできる人はごく少ない。だから喜劇の時代だということになるな。」

3. 釣師、荒野をさまよう...
釣師は、手錠をはめられるのを待っている脱獄囚のようなものらしい。荒野を求めて旅をする。黄昏を求め、自然と戯れるために。だが、荒野は地の果てにあるとは限らない。大都会にも、ネオンの荒野がある。集団社会の中にこそ孤独の荒野がある。結局、真の自由はどこにも見つけられず、言葉の幻想に縋る。息苦しい現実社会にあって自由を求めれば、自己破壊を企てるしかなさそうだ。自然を懐かしみ、醜いものを排除し、遠くへ行き過ぎれば、戻ってくるのが難しくなる。なにかを得るために、なにかを失わねばならぬという苛酷な鉄則は、文明でも、革命でも、また小説でも同じことか...
「赤い荒野には《物》しかながったが、そのことに私はおびえていたたまれなくなりながらも、どこかで、優しいと感じていたはずである。《物しかない現代の悲惨!》という文明評論家の蒼白な肥満の糾弾にときとして私は憤怒と侮蔑をおぼえることがある。この人は《人》にも《物》にも絶望したことがないのではないか。《人》に絶望した人は《物》をこそ優しいと感ずるはずなのである。なぜなら《物》は原子爆弾のボタンであろうと自転車修理用のペンチであろうと、つねにそこに確固とした形をとって存在し、つつましく沈黙し、《人》にふれられるまではけっしてうごこうともせず、変貌しようともせず、転向しようともしない。そしてふれられたときにはあらかじめ予測された仕事を、一連の体系をやってのけるだけであって、その結果が地球の破壊であろうが、川沿いの五月の道の散歩であろうが、けじめしない。《物》は冷酷であるがゆえに謙虚であり、実力にみち、優しいのである。このことを知っているのは労働者と農民だけで、知識人たちはまったく《物》にふれたことがないのだ。」

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