2021-11-21

"芸術の条件 近代美学の境界" 小田部胤久 著

芸術に足る条件とは、なんであろう...
自己を侮辱することによって芸術家は魔術性を露わにし、自己否定によって芸術作品は堂々たる威風を漂わせる。この自殺行為によって、芸術は芸術たりうるというのか。
そもそも芸術とは、なんであろう...
芸の術と書くからには、技術の類いか。あるいは、魔術の類いか。技術の産物が感動を呼ぶ時、鳥肌が立つような感覚が全身を駆け巡る。精神空間を瞬時に伝搬する波動現象とでも言おうか。そういえば、芸術は爆発だ!という名言を遺した芸術家がいた。
思いっきり身勝手な世界を創造する自己陶酔型でありながら、精神病を患うほど徹底的に心を追い詰める自己破壊型。独りの芸術家に、S と M が同居してやがる。鑑賞者はというと、その狂気に癒やされるとくれば、こちらも狂気。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!


芸術家も鑑賞者も、さらなる刺激を求めてやまない。互いに競うかのように。古代ギリシア・ローマ文化を伝承する古典様式から、中世にはゴシック様式が出現。ゴシックとは、ゴート風といった意味で、ローマの知識人たちが無秩序で野蛮といった侮辱な意味を込めた用語である。近代には、感受性を堂々と曝け出すロマン主義が旺盛となる。こうした変化は、ある種の精神的合理性によってもたらされた。要するに、人間は飽きっぽいってことだ。退屈病は恐ろしい。実に恐ろしい。この病を癒やしてくれるのが、芸術ってやつか...


さて、前戯はこのぐらいにして...
著者の小田部胤久は、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞を受賞した人だそうな。この賞の名は初めて耳にするが、ドイツにおける日本人研究者の貢献を讃えるものだとか。
前記事では「芸術の逆説」と題して、芸術家や芸術作品、創造性や独創性といった芸術を支える根本から論じて魅せた。ここでは「芸術の条件」と題して、「所有、先入見、国家、方位、歴史」といった、およそ芸術とは縁遠い観点から論じて魅せる。「芸術の逆説」と「芸術の条件」という二つの著作は、内と外から芸術論を語った姉妹作品というわけか。
双方とも、「美学」という学問の成立の時代から、古典的な芸術と近代的な芸術を観察している。ここでは、その時間的な境目をめぐり、ひいては近代国家との連関を紐解く。この時代が、啓蒙思想や近代国家の成立と重なるのは、偶然ではなさそうである。
「美学」という用語は哲学風で、既にプラトンやアリストテレスあたりが論じていそうだが、明確に著したのは、カント、シェリング、ヘーゲルあたりになるらしい。本書は「近代美学」と称している。つまり、18世紀頃に生起した美意識を通じて、芸術とやらを語ってくれる。


なかなか興味深い試みではあるが、こいつは本当に芸術論であろうか...
「所有」といえば、経済学の核となる概念。「国家」といえば、政治学の領域。むしろ、芸術とは正反対に映る。「先入見」「歴史」はどんな学問にも関与するし、「方位」にしても地域的な傾向や民族的な特徴はどんな文化にも見られ、なにも芸術論に限ったことではあるまい。
所有の概念は、何によって正当化されるだろうか。経済学者たちは口を揃える。それは労働であると。ただ、労働や勤勉は、芸術家になくてはならぬ資質の一つ。独創性ってやつも、試行錯誤の末に生じるのであろうから、無心で没頭できる能力こそ芸術家の資質となろう...


また、芸術ってやつは、社会風刺や批判、滑稽を美の意識にまで高め、人間社会に反省を促すところがある。ピカソの「ゲルニカ」のような作品は、国家の暴走がなければ、けして生み出されることはなかったであろう。
人間には、ホラーやスリラーといった恐怖に魅了される性癖がある。神話や聖書ですら恐怖の要素に満ち満ちており、残虐な描写までも美意識にしちまう。額縁に囲まれた光景は、まるで別世界。不幸ってやつは、遠近法で眺める分には心地よいと見える。鑑賞者は、自己に災いが降りかからない程度に距離を測ることができ、他人の不幸を見て自己を慰めることもできる。
しかし、創造者である芸術家はどうであろう。ムンクの「叫び」のような作品は、大衆社会へ何を訴えようとしたのだろうか...


「思索家の多くは、先入見の上着を投げ捨ててただ裸の理性のみを残すよりは、むしろ理性が織り込まれた先入見を継続させるほうがはるかに賢明であると考える。」
... エドマンド・バーク


何事も、それを分析し、その本質を理解しようとすれば、批判的な目線を向けることになる。逆説を論じるにせよ、その条件を問うにせよ。思想や信条の類いは、しばしば古典回帰してきた。ルネサンスに限らず。昔は良かった!などと懐かしむ心情は、もはや老人病か。いや、老人病を免れて現代病を患えば、同じこと。いずれにせよ、社会の息苦しさが、批判精神を呼び覚ます。愚痴も美の意識にまで高めると、崇高な哲学になるのであろう。カントの批判哲学も、愚痴の延長上にあるような気がする。
そもそも、人間とはなんであるか。キェルケゴールは答えた。それは、精神である... と。では、精神とはなんであるか。精神病も患えない人間は、もはや精神を持ち合わせてはいまい。そして、自己に対して批判精神を呼び起こすことも。これが芸術家に足る条件であろうか...


「批評とは、歴史と哲学の中間項であり、それは両者を結ぶつけ、両者を新たな第三のものに統合すべきものである。哲学的精神なくして批評が成功しないことは、誰もが認めるとおりである。だが同時に、歴史的知識を欠いて批評が成功することもない。歴史と伝承を哲学的に解明し吟味することは、疑いもなく批評であるが、同様に、哲学についてのいかなる歴史的見解もまた疑いもなく批評である。」
... フリードリヒ・シュレーゲル

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