2021-11-07

"政治経済学の国民的体系" Friedrich List 著

経済学を外観すると、自由と保護の綱引きの歴史が見えてくる。それは、人間精神が本質的に抱える自由と平等の葛藤とでも言おうか...
新たな理論は、従来の理論を反駁する形で登場する。どんな学問分野であれ事情は似ているが、特に経済学は流行り廃れが激しいと見える。
相対性理論の登場でニュートン力学が蔑まれることはない。量子力学の登場で相対性理論が使い物にならなくなったわけでもない。トポロジーの登場でユークリッド幾何学が廃れることもないのである。なのに、経済学の理論ときたら...


フリードリッヒ・リストが反駁する相手は、アダム・スミスをはじめ、J.B.セイ、T.R.マルサスら。
しかしながら、反駁するに値するかどうか?まず、これが問われる。すべてを否定するのではなく、ドイツの国民性に適合するかどうかという視点から論じられる。
リストが生きた時代は、ウィーン体制という新たな国際秩序を迎えた時代。ナポレオン戦争に勝利したイギリスは、東インド会社を通じてアジア貿易を独占し、北アメリカ、アフリカ、オーストラリアを植民地に従え、世界の海の覇権を握っていた。
一方、ドイツは、神聖ローマ帝国が消滅し、連邦国家として生まれ変わったばかり。アダム・スミスらが唱えた理論は、国際貿易の成熟した経済モデルであって、当時のドイツには時期尚早というわけか...
尚、正木一夫訳版(春秋社)を手に取る。


経済合理性を問えば、その基盤に自由精神が据えられる。それは、多くの経済学者で共通するところ。ケインズだって、恐慌の処方箋として政府介入の必要性を唱えただけで、自由な経済活動が根底にある。積極的な財政政策が、しばしば一部の業界との癒着を招くのも事実だけど。
リストとて、例外ではない。いや、自由主義的な傾向はより強いかもしれない。というのも、本書には、「自由」という言葉があらゆるところに散りばめられている。ここに資本主義という用語は見当たらないが、資本主義と自由主義がすこぶる相性がいいことも見て取れる。
自由な経済活動とは、生産者側の自由だけではなく、消費者側の自由を伴って機能する。セイの法則が唱える... 国民所得は総供給量によって決まる... といった命題も、すぐに限界点に達する。理想を言えば、経済合理性とは、自由意思が万民に浸透し、かつ平等に行き渡った状態を言うのであろう。そのために自由には制限が必要となり、この制限が経済学では保護の概念と重なる。
自由意思ってやつは、実にデリケート。押し付けがましい自由は、むしろ自由精神を破壊してしまうばかりか、弱肉強食と化す。自由精神を育てる上でも、保護の必要な期間がある。過保護によって、搾取産業に成り下がるのでは何をやっているのやら。したがって、保護政策には慎重を期する。国民性に適合した形の保護でなければ。つまり、資本主義には、様々な文化や慣習に応じた段階や形があるってことか...
自己を見つめ、多様性を尊重すれば、グローバリズムに振り回されることもあるまい。労働は富の原因で、怠惰は貧乏の原因... といった考えは、アダム・スミスよりも、ずっと大昔にソロモン王が提示した。ならば、こう問わずにはいられない。何が労働の原因か?何が怠惰の原因か?と。そんなことは、個人の問題だし、自由の問題。答えは、経済理論なんぞ当てにせず、自分の心の中で静かに唱えるさ...


「隷属状態に陥った国民は、獲得することよりも、獲得したものを維持しようと努める。反対に、自由な国民は、維持することよりも、獲得しようと努める。」
... モンテスキュー


本書で注目したいのは、工業と農業のバランスが国力を強化していくという考え方である。リストは実際にアメリカ合衆国に渡り、この新世界の国力を工業力だけでなく、農業力とのバランスに見たようである。現在でも、超大国の国力を工業やハイテク産業で測る傾向があるが、実は、農業大国であることが大きな要因であることを、この時代にあって既に見抜いていたようである。
イギリスでは農業人口が大量に流出したが、ドイツは、そうなってはならないと。これは、まさに現代社会が抱える問題の一つ。
国民の支持を得ない産業は衰退するだろう。そして、それは時代とともに移ろいやすい。21世紀では、自然環境に配慮しない産業はヤバい!そして現在においても、農業の地位の低さは如何ともし難い。人間は喰わなければ生きてはゆけない。そして、農業は食糧に直結する産業だ!なのに...
伝統的な経済政策では、自由貿易と保護政策を産業別に区別する観点から、それぞれ相性のいい業種が配置されてきた。前者が工業で、後者が農業である。自由貿易で鍛えられた工業者は視野も広く、将来を見据えており、対して、国内に閉じ籠もった農業者は知識レベルも低く、目先の補助金に釣られる、といった見方がある。
リストの保護政策では、工業者が牽引役となって農業者を啓蒙し、双方の相乗効果によって国力を高めることを主眼に置く。国力は国民性や人間性と密接にかかわり、物質的な要素だけでなく文化的な要素を伴わなければ、真の国力は養えないというわけか。そして、教育論的な視点も...

「如何なる所また如何なる時においても、市民の知性・徳性および活動性は国民の幸福と比例し、富はこれら諸々の性質とその増減を共にしている。併しながら個人の勤勉や節約・発明心や企業心は、それらのものが市民の自由・公の制度および法律により、国家行政や対外政策により、とりわけ国民の統一や勢力によって支持されていなかった所では、決して偉大な事を成し遂げてはいない。」


また、イギリス式自由とドイツ式自由の違いも指摘している。前者は個人主義が基盤となっているが、後者は個々が国家における役割を認識することを要請している。ここには分業の意義が含まれ、合目的的な人生を求めるところは哲学的でもあり、いかにもドイツ流。
しかしながら、あまり高尚な目的を要求すると、抑圧的な義務や責任に転嫁され、その延長上に国家主義に通ずるものを予感させる。そこまで行ってしまうと、自由はむしろ阻害され、リスト哲学に反する。そして歴史は、後の二つの世界大戦を通じて、国家主義的イデオロギーを顕著化させることに。なんと皮肉な...


いくら自由貿易を崇めても、相手がいなければ成り立たないのであって、その取引では優位な立場を引き出そうとする。リストが生きた時代、国力の差は歴然としており、多くに国が隷属関係を強いられた。輸出では得意分野で荒稼ぎし、輸入で経済的弱点を補うとすれば、21世紀の今でも状況は大して変わらない。いまだ重商主義から脱皮できていないのか。いや、サヤ取り主義で、さらに重商化(重症化)しているような。これに対抗するために、保護主義をますます加熱させることに...
重商主義によって富国強兵の道を突き進むことになるが、保護政策にも負けず劣らずナショナリズムを高揚させていく。愛国心や郷土愛、あるいは民族愛の類いは、人間なら誰もが持っているだろう。自己存在を認識する上で、アイデンティティを確認する上で。そうした認識自体は悪いことではないが、その心理過程で自己に反する属性を蔑み、自己優越感に浸り、宗教心の後押しで迫害までやってのける。これは、言わば人類の性癖。いかなる国家にも、国民の嫉妬や偏見偏狭はつきもの。集団社会はこれを助長する。愛は最も崇められるだけに、こいつの集団暴走ほどタチの悪いものはない...

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