こいつぁ... 人間精神の風土哲学とでも言おうか...
文化論とは、比較の論とも言える。故に、理解への道は二つ。他文化との差異において自文化を位置づけるか、他文化を摂取する過程を通して自文化を受け止めるか。人間は、単に過去を背負うだけでなく、魂に根付いた土着をも背負って生きている。この時間軸が自己に与える影響は、想像しているよりもはるかに大きい...
「風土」は、古くは「水土」と呼ばれ、土地の気候や地質、地形や景観などの総称であったり、文化の形成や精神に影響を及ぼす環境であったり、あるいは、宗教的風土や政治的風土といった言い方をする。人間は、自然環境だけに影響されて生きているわけではない。むしろ、社会を通して人間同士の影響の方が強いかもしれない。
文明人ってやつは、最も依存しているはずの自然との付き合い方を忘れちまうのか。書物、メディア、技術などあらゆる社会的産物が人格形成に影響を与え、教育がより高度な偏見をもたらす。利便性に憑かれ、意思力が養われない教育が、精神を堕落させるのかは知らんが、ジョン・アダムズは、こんなことを言った...「自然によってつくられた人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって人間と人間との間にできるものである。」と...
1. 風土とは...
和辻哲郎は断じる。「風土とは、人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない...」と。風土の現象は、芸術、信仰、風習などに露わになる、いわば、人間生活の表現様式であるという。個人的でありながら社会的でもある二重性格の内にある自己了解という行為は、同時に歴史的であり、歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない... と。
カントは、ア・プリオリな認識に空間と時間を規定した。すなわち、自己存在という認識原理は、空間性と時間性に発すると。風土とは空間性であり、歴史とは時間性であり、まさに、自己存在という認識契機を自己了解において論じている。
こうして眺めていると、「風土」という用語もなかなか手ごわい。あまりに広範な意味を含み、単なる自然環境や社会環境などでは足りない。存在認識の仕方など、人間の認識能力すべてを飲み込んでしまうような。
自己を満足させようとすれば、自己言及の群れが押し寄せてくる。自己啓発に自己実現、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。人間の認識能力なんてものは、すべて自己了解の仕方に過ぎないのやもしれん...
「かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言われるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持ち... あるいは寂しい気持ち... このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。」
2. 三つの類型
和辻哲郎は、人間の風土的な多様性を「モンスーン、沙漠、牧場」の三つの類型で抽象化して魅せる。やや、こじつけ感も否めないが、なかなか興味深い。マリア様がモンスーン的か、牧場的か、はたまた沙漠的かは知らんが...
「モンスーン」とは、季節風のこと。特に、熱帯の大洋から陸に吹き付ける夏の風を指し、アラビア語由来とされる。気候面では、暑熱と湿気が同時に押し寄せる特性があり、生活面では、暑さより湿気の方が耐え難く、暑さより湿気の方が防ぎにくいといった特徴がある。それ故、自然に対する抵抗力が弱いという。運命論を受け入れる傾向にあるのも、そうした風土的な要件によるものであろうか。春風駘蕩の哲学を育むのも...
尚、モンスーンの型どおりの土地柄といえばインドだが、支那や日本もこの型に含めている。日本の場合、さらに台風や地震などの災害が多く、地母神ガイアで象徴される母なる大地への想いも、ちと複雑やもしれん...
「沙漠」とは、"desert" の訳語だが、意味するものがちと違う。地域的には、アラビア、アフリカ、蒙古などに広がる不毛の地。雨量の欠乏した乾燥を本質とし、自然には生気がない。荒々しく空虚な場。人間性をも捨象するような...
渇きの生活が水源の奪い合いとなり、死を目の当たりにしながら、闘争心や対抗心を育むという。こうした土地柄が、人間の絶対服従を求めるヤーヴェのような人格神を必要とするのであろうか。
とはいえ、現代社会を見渡せば、世界はことごとく乾燥そのもの。街中に植えられた少しばかりの樹木を除いては、人工物で埋め尽くされる。巨大モニュメントは、渇ききった人間の象徴か...
「自然への対抗が最も顕著に現れているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。」
「牧場」とは、wiese や meadow の訳語だが、家畜を囲う場、あるいは、家畜の飼料を栽培する土地といった意味を強める。機械的で疎外的な現実としての工場も、牧場の延長上に配置して...
ちなみに、ヨーロッパには雑草がないと言われるそうな。ほんまかいな?夏の乾燥と冬の湿潤という安定した気候サイクルが、雑草を駆逐して全土を牧場たらしめるという。日本の梅雨のようなジメジメした気候では雑草との戦いを強いられるが、ヨーロッパにはそんな苦労がないとか。ほんまかいな?まぁ、雑草の程度の問題なのだろうけど...
規則正しい循環雨季の到来が、農作物を安定供給する。安定した気候ゆえに、人間の目には自然が従順に見え、自然合理性が人間合理性と結びつき、ホッブズ、ロック、ルソーらが自然状態を論じてきた伝統も分かるような気がする。安定した土壌は、冒険心を駆り立てる。大航海時代がヨーロッパに発したのも、そうした土壌があるからかもしれない。
そして、活動の自由、精神の自由が哲学を育むという。ゴシック文化や啓蒙主義、あるいは、人文主義的な思想が発達するのも、合理的精神や論理的思考を育むのも、そうした風土との関係からであろうか。ヨーロッパの自然科学は、牧場的風土の産物だという...
「牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。」
ちなみに、ヘーゲルも三つの自然類型を規定したそうな。
一つは、広い草原や平地を持った水のない高原。遊牧の掟や族長政治といったものの影響力が強いが、発展性が乏しい。
二つは、大河の貫流し灌漑する河谷の平野。移り行きの国土。安定した土壌で農業と国家が発達し、文化の中心となり、君主と隷属の関係が著しい。
三つは、海に隣接する海岸の国土。海路によって世界を結びつけ、商業が発達し、征服欲や冒険心がわきあがり、市民の自由が自覚される。
なるほど、和辻哲郎の三つの類型は、ヘーゲルからのアップデート版のようだが、旧バーションも捨てがたい...
0 コメント:
コメントを投稿