2022-12-11

"モチベーション 3.0" Daniel H. Pink 著

TED カンファレンスで、"The puzzle of motivation" と題した講演を見かけたのは、もう十年ぐらい前になろうか。以来、ダニエル・ピンクが ToDo リストに居座ってやがる。そんな奴らが、おいらの ToDo リストに屯しているわけだが、M な性分には嬉しい悩みでもあった...

さて、原題に、"Drive: The Surprising Truth About What Motivates Us" とある。ドライブという語感は自動車の運転といったイメージだが、本書は「ヤル気!」という訳語をあてている。辞書を引くと、「運転」のほかに「前進」や「駆動」といった意味が見つかる。何かに駆り立てられる動機と解せば、「ヤル気!」とするのもなかなか!
ただ、ヤル気!ってやつは、一時的に発揮する分には大したもんでもないが、こいつを持続させるとなると、なかなか手ごわい。やがて、自己への問い掛けが押し寄せてくる。何のために... と。そして、人生の意味までも問うことに...
人を動かす根本的なものとは、なんであろう。ワクワクするような動機だけでは、何か足りない。自発的な意志が湧いて出てくるような、そんな環境も欲しい...
尚、大前研一訳版(講談社)を手に取る。

本書は、動機づけの基本型を三つ提示している。
まず、生存を目的とした人間本能に根ざした第一の動機づけがある。それは、飢餓動因、渇動因、性的動因などの生物的、生理的な欲求に発するもので、これをモチベーション 1.0 と呼ぶ。
次に、報酬や罰則などによる第二の動機づけがある。ここでは「アメとムチ」と表現されるが、見返りの原理とでもしておこうか、これをモチベーション 2.0 と呼ぶ。原始の時代には、腹が減れば喰い、生殖本能のままに性交がなされたが、工業化の時代になるとサラリーマン社会が形成され、アメとムチで扱き使われる。給料がもらえるから働く意欲が出て、法律で罰せられるから抑止が効くとすれば、それは本当に自分の意志であろうか。
そして、第三の動機づけが、自己の内から湧いて出てくるような「ヤル気!」で、これをモチベーション 3.0 と呼ぶ。人間には元来、新しいことを求めたり、やり甲斐を求めたり、あるいは、自分の能力を高め、発揮し、探究し、学ぶといった傾向が備わっているという。こうした性質が第三の動機づけの原動力となる。とはいえ、自己実現や自己啓発を大層に掲げたところで、自己陶酔や自己肥大となるか紙一重。第三の動機づけは他の二つの動機づけよりも脆弱で、それ相応の環境が必要である。

そして、本物のモチベーションを構成する要素に、「自律性、マスタリー(熟達)、目的」の三つを挙げている。真の動機づけを促すものに、自律性と自立性、あるいは、健全な目的の設定が鍵になるのは言うまでもあるまい。そして、交換条件付きの報酬は、自律性を失わせる。給料が高いに越したことはないが、それに依存するようでは真の動機は望めまい。
それゆえ、報酬で釣るような仕組みでは倫理に反する目標を設定したり、ノルマ達成のための水増し請求や、押し売りまがいの不必要な施工といった行為が横行し、社会問題を引き起こすという。メンバーの愚痴が、他者との報酬の差に向きはじめたら、チームの健全さが失われつつあると見ていい...

「第三の動機づけというあべこべの世界では、報酬は往々にして、奨励しようとしている事柄の足を引っ張る役割を果たす。だが、話はこれで終わりではない。外的動機づけが誤って用いられると、これに付随して意図せぬ結果がもたらされる。望まないことをさらに大きくしてしまうのだ。ここでも再び、ビジネスの現場は科学の後塵を拝している。科学的には、アメとムチは悪しき行為を助長し、依存を生み出し、長期的視点をないがしろにした短絡的思考を促すおそれがある、とすでに証明されているからだ。」

そこで、報酬の在り方が問われる。報酬体系で最も問題になるのは、その評価と公平性であろう。能力に見合った報酬が得られるならば、大した問題にはなるまい。社内で能力に応じた給料が得られなければ、ヤル気が失せるし、他社の給料が格段に高ければ、そちらに転職するまでのこと。
逆に言えば、最低限の公平性が担保されれば、健全な動機づけが促せるというわけである。では、促すのは誰か?もちろん自分自身であるが、社風や組織風土といった環境が整わなければ。人間ってやつは、環境に影響されやすい動物である。

三つの構成要素の中で、特に注目したいのは「マスタリー」という用語である。本書は「熟達」という訳語をあてているが、人生のビジョンや生き方といったものを視野に入れた高いレベルでの修練を言うのであろう。それは、目標設定とも大きく関わるが、実際は、現実とのギャップを埋めるプロセスになろう。凡庸な人がやれば、自己啓発から自己実現へのプロセスが、妥協から自己満足、そして、自己陶酔と化す。おいらがやれば、自己泥酔よ。熟達した人であれば、現実とのギャップを自己実現に向けた推進力とするのであろうけど...
そして今、「マスタリー」という用語に、論語を重ねて眺めている。論語には、いい言葉がある... 吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず... と。
なるほど、モチベーション 3.0 とは、ある種の人生論の提示であったか...

「それが天職かどうか、その人の仕事ぶりを観察する必要はない。ただその目を見るだけでよい。ソースを調合するシェフ、難しい手術にあたる外科医、船荷の送り状を作成する事務員、みな同じように熱中した面持ちを浮かべ、その仕事に没頭している。対象物を見つめる眼差しの、なんと美しいことか...」
... W・H・オーデン

モチベーション 3.0 のメカニズムを促進的とするなら、モチベーション 2.0 は抑圧的。組織社会では、自由にやらせれば怠ける... 独断でやらせれば責任を逃れる... 期限やノルマを与えなければサボる... といった考えを持つマネージャをよく見かける。おいらは、ず~っと前から、「マネジメント」という用語に「管理」という訳語を当てることに違和感を持ってきた。日本では、管理職は偉い!ということになっている。肩書社会の象徴か。マネージャも技術職も営業職も役割が違うだけのことで、目標は同じはず。ある程度経験を積んだ人がマネジメントをやるのは理にかなっているとはいえ、向き不向きもある。管理職を欲する人は、いったい何を管理するというのか。いや、管理したいから欲するのであろう。自己を支配できぬ者は、他人を支配しようとする。独裁的な性格が強いほど、周囲には抑圧的な空気を漂わせておきたいらしい...

一方で、自由精神に飢えたボランティア的な活動を方々で見かける。実際、社会福祉の分野だけでなく、無償でコードを書くエンジニアがわんさといる。知識への渇望や能力の向上は、心をワクワクさせる。情報交換しながら、互いに高めようと。そこに上下関係はない。たいていの技術は、そうした自由な活動から生まれてきたし、どんなに優れた技術でも最初は金にならぬもの。それでも、根気よくやってきた無名の人たちがいる。動機づけのレベルで哲学的な意識のすり合わせができれば、上司と部下という概念も崩壊するやもしれん。人生は短い!仕事の動機づけは、シンプルな好奇心で共有したいものである...

「ことによると『マネジメント』という言葉そのものを、『アイスボックス(icebox)』や『ホースレスキャリッジ(horseless carriage)』と一緒に、累々たる死語の山に投げ捨てる時期かもしれない。21世紀は、『優れたマネジメント』など求めていない。マネジメントするのではなく、子供の頃にはあった人間の先天的な能力、すなわち『自己決定』の復活が必要なのである。」

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