2022-12-18

"サピエンス全史(上/下) - 文明の構造と人類の幸福" Yuval Noah Harari 著

すべては空想か... すべては虚構か...
現代人は、ますます仮想空間にのめり込み、恐ろしく柔軟で変化に富んだ社会を生きている。クラウドコンピューティングに、デジタル通貨に、メタバースに... すると、国家や法律も、自由や平等も、愛やお金も... すべては概念化したものにすぎないのではないか、と思えてくる。概念とは、人間が勝手に意味を与え、言語化したもの、自由気ままに定義したもの。概念にこだわり、概念に振り回され、概念に支配されて生きている、ただそれだけのこと。それは、人間が人間自身を支配しようという試みの一貫であろうか...

概念は、虚構と実体を区別しない。どちらも認識の産物にすぎないということか。宇宙空間も、精神空間も、大した違いはないということか。どうりで夢を見ている間は、現実との区別もつかないわけだ。魂や精神を虚構と認めた上で、虚構をもって自己を制す。それは、毒を以て毒を制すの類いか...
とはいえ、虚構も悪くない。なにしろ無限の可能性を秘めているのだから。現実にはすぐに幻滅させられるというのに。どうやらホモ・サピエンスという種は、虚構に依存するという究極の依存症を患っているようだ。そんな依存遺伝子が組み込まれた人間とは、いったいどのような存在であろうか。その答えを求めて、歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは人類史全体を巡る旅へいざなう...
尚、柴田裕之訳版(河出書房新社)を手に取る。

「アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか。その答えを解く鍵は『虚構』にある。我々が当たり前のように信じている国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にしたのだ。やがて人類は農耕を始めたが、農業革命は狩猟採集社会よりも苛酷な生活を人類に強いた、史上最大の詐欺だった。そして歴史は統一へと向かう。その原動力の一つが、究極の虚構であり、最も効率的な相互信頼の制度である貨幣だった...」

人間社会には、生まれると半ば強制的に、どこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。たいていの人は生まれる地を選べないばかりか、生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり人間は、生まれ出ると、まず不自由を経験することになる。だから、本能的に自由に焦がれるのか。
おまけに、租税の義務まで自動的に背負わされる。慣習とは恐ろしいものだ。そこに疑問すら持てないのだから。
しかしそれは、薬物依存症と何が違うのだろう...

「近代に至って、なぜ文明は爆発的な進歩を遂げ、ヨーロッパは世界の覇権を握ったのか?その答えは『帝国、科学、資本』のフィードバック・ループにあった。帝国に支援された科学技術の発展にともなって、『未来は現在より豊かになる』という、将来への信頼が生まれ、起業や投資を加速させる『拡大するパイ』という、資本主義の魔法がもたらされた...」

人間社会で、最も信頼の置けるものとは何であろう...
古代人は、神話や占いの類いに救いを求め、やがて宗教が発明された。占星術は科学の種を蒔いたが、やがて科学と宗教は反目するようになる。
本書は、宗教の歴史的な役割に、秩序やヒエラルキーといった概念に超人間的な正統性を与えたことを指摘している。この正統性が、人々を統一へ向かわせたと...
秩序やヒエラルキーは、想像上の産物だけに脆い。表向きでは、宗教は神を仲介して人々を救済する、ありがたい存在ということになっている。だが実は、こうした想像上の概念を絶対的な存在に昇華させたことに大きな意味があったのやもしれん。
多神教の時代には、まだ神との対話に親和性があった。各々の神は、得意技とともに欠点を曝け出し、雷オヤジのゼウスですら女神では飽き足らず、人間の美女に手を出す始末。やがて全能者となった神は、一神教となって不要な神をばっさりと切り捨て、絶対的な存在となった。絶対的であるからには、よほどの威信が伴わなければ。その威信はどこからくるのか。それは、信者の数か。宗派の優劣は、多数決の原理に支配されるのか。神の世界も生存競争はすこぶる厳しいと見える。なるほど、これが民主主義ってやつか...

「多神教は本来、度量が広く、異端者や異教徒を迫害することはめったにない。多神教信者は、巨大な帝国を征服したときにさえ、被支配民を改宗させようとはしなかった。エジプト人も、ローマ人も、アステカ族も、異郷に宣教師を送って、オシリスやユピテル、ウィツィロポチトリ(アステカ族の主神)の礼拝を広めようとはしなかったし、その目的で軍を派遣することは断じてなかった。」

本書は、秩序やヒエラルキーといった概念に、「共同主観的」という用語を当てる。それは、主観的とも、客観的とも違う。
現代社会では、共有という用語が乱用され、どんなに偏重しようが、どんなに偏狭になろうが、集団意識が強調される。しかも、その意識は両極端に振れ、そのまま基準とされる危険な時代でもある。共同主観的とは、これに近いものがありそうだ。
21世紀の今、宗教はそれほど必要ではなくなり、むしろ差別や偏見を助長する根源と見なされることが多い。そして、自由主義や人道主義といったイデオロギー的な概念が台頭してきた。普遍的な価値観や宇宙論的な世界観を信仰するという意味では、イデオロギーもまた宗教と呼べなくもない。伝統的な宗教は、世界における重要な知識はすべて分かっていると主張してきたが、科学はその逆の立場を主張してきた。科学革命は、無知を知ることを重要視したとも言えよう。信仰体系という意味では、啓蒙思想も立派な宣教活動であり、科学もまた立派な宗教と言えよう...

「過去三百年間は、宗教がしだいに重要性を失っていく、世俗主義の高まりの時代として描かれることが多い。もし、有神論の宗教のことを言っているのなら、それはおおむね正しい。だが、自然法則の宗教も考慮に入れれば、近代は強烈な宗教的情熱や前例のない宣教活動、史上最も残虐な戦争の時代ということになる。近代には、自由主義や共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムといった、自然法則の新宗教が多数台頭してきた。これらの主義は宗教と呼ばれることを好まず、自らをイデオロギーと称する。だが、これはただの言葉の綾にすぎない。もし宗教が、超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体系であるとすれば、ソヴィエト連邦の共産主義は、イスラム教と比べて何ら遜色のない宗教だった。」

世界を統一する概念といえば、宗教やイデオロギーを遥かに凌ぐツールがある。そう、貨幣ってやつが。宗教やイデオロギーは、共通意識を持った者同士を結びつけるが、同時に異なる意識を持った者同士を反目させる。しかも、きわめて政治的であったり、何らかの先入観を助長したり、攻撃的な性格までも帯びている。
その点、貨幣は世界観を超えた価値として社会に合理性をもたらしてきた。なんでも貨幣換算すれば、すべての取引が成立する。人の命ですら。無味乾燥的という意味では、数学的ですらある。
しかし、貨幣は万能ではない。すべての価値観を網羅できるものでもない。それでも折り合いをつけることはできる。つまりは、妥協である。人間の意識が時間の矢に幽閉され、どんな状況にあっても前に進まなければならないとすれば、妥協の仕方が重要となる。人間社会に富をもたらしたのは、宗教でもなければ、イデオロギーでもなく、やはりお金であろうか。いや、お金を主体にしたイデオロギーもある。そう、資本主義ってやつが。
しかしながら、哲学者や道徳家たちは何千年も前から、お金に汚名を着せてきた。お金は未来に対して利息という概念を生み、こいつが悪用されてきた歴史は長い。あるいは、人権に反する人身売買も横行すれば、遺産相続で演じる骨肉の争いは、実に醜い。
お金ってうやつは、人をえげつなくする。しかし、お金がないと、精神不安に陥る。人間社会において信頼の置けるものには、必ず邪悪な面が備わっているようである。それは、人間自身に善と悪が共存していることの証であろう...

さらに本書は、最終章で「超ホモ・サピエンスの時代へ」と題して、種を超越した存在に警鐘を鳴らす。いまや科学技術は、生命の法則や自然選択の法則を変えようとしていると。
そして、自然選択に取って代わりうる三つの知的設計について言及している。それは、生物工学、サイボーグ工学、非有機的生命工学である。
近年、「インテリジェント・デザイン」という用語を見かける。これを唱える連中は、学校でダーウィンの進化論を教えることに反対し、創造主の存在を主張する。だが、その主張を否定できるほどの科学的な根拠はない。ひょっとしたら、どこぞの地球外生命体が、一つの惑星をアクアリウムに見立て、生物を飼育したのが始まりだったかもしれないし...
また、機械の知性については、チューリングの時代から問題提起されてきた。コンピュータは心を持ちうるかという問題である。そもそも、心とは何か?魂とは何か?精神とは何か?物理的には、素粒子の集合体ということになろうか。無数の自由電子がある法則に従って群がると、自由意志なるものが創出されるのか?大多数の群衆で形成される社会が、個人とはまったく別の集団的な意志を持って独り歩きを始めるように。
デジタル生物に、バイオニック生命体とくれば、有機体と無機体の区別も覚束ない。生命体という概念までも、ぶっ飛びそうな。人類という種は、想像上の概念を勝手に生み出しておきながら、その概念をぶっ壊すのがお好きと見える。
汝自身を知れ!とは、ソクラテスの時代から問われてきたが、いまだ人類は、自分自身がなんであるか、どこへ向かっているのかも分からずにいる。宇宙法則を凌駕して、神にでもなろうというのか...

「私たちはかつてなかったほど強力だが、それほどの力を何に使えばいいかは、ほとんど見当もつかない。人類は今までになく無責任になっているようだから、なおさら良くない。物理の法則しか連れ合いがなく、自ら神にのし上がった私たちが責任を取らなければならない相手はいない。その結果、仲間の動物たちや周囲の生態系を悲惨な目に遭わせ、自分自身の快適さや楽しみ以外はほとんど追い求めないが、それでもけっして満足できずにいる。自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか...」

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