2022-12-25

"ホモ・デウス(上/下) - テクノロジーとサピエンスの未来" Yuval Noah Harari 著

かつて捕食され、他の動物に怯えて生きていた人類が、いまや地上を支配し、高度な文明を築くに至ったのはなぜか...
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは、「サピエンス全史」と題して人類史全体を巡り、その答えは「虚構」にあると言い放った(前記事)。国家や国民、企業や法律、さらには人権や平等といった考えまでもが虚構であり、虚構こそが見知らぬ人同士が協力することを可能にすると。中でも究極の虚構は、最も効率的な相互信頼の制度として機能する貨幣であると。そして、虚構に邁進した挙げ句、「超ホモ・サピエンス」という種を超越した存在になるであろうと...
なるほど!国家や法律も、自由や平等も、愛やお金も... すべては人類が言語化し、都合よく意味を与えたもの。実際、貨幣は国家間を無条件で結びつけ、頭がコチコチの宗教やイデオロギーの間までも取り持つ。
そして、三千年紀が幕を開けた今、人類は次々と仮想価値を編み出し、ますます仮想的な交換システムへのめり込んでいくかに見える。そりゃ、夢と現実の区別もつかんよ...

本書は、その続編である...
サピエンスは賢いの意で、デウスは神の意。人類は、自らを「ホモ・サピエンス」から「ホモ・デウス」へアップグレードするという。その道筋は、生物科学、サイボーク工学、非有機的な生命工学といったテクノロジーを用いて、この世界を思い通りに作り替え、さらには自分自身までも作り替え、創造主になることを目指すと。神にでもなろうってかぁ。神という概念も人類が創り出したものだけど...
神といっても、一神教が崇めるような宇宙の創造主たる絶対的な神というイメージではなく、ギリシア神話に出てくるような多彩な神々といったイメージか。どうやら神にも格付けがあるらしい。
ヘシオドスは、人間の世代を黄金、白銀、青銅、英雄、鉄の五つで分類した。彼の説によると、現代は最も退廃した鉄の時代ということになるが、ホモ・デウスへの昇華は、まだ穢れを知らず、神々と共に純粋に生きていた黄金の時代へ回帰するってことか。それは、人間性までもアップグレードするってことか。いや、神になるも、悪魔になるも、紙一重!
あるいは、現代社会の思想や信仰が両極化していく様を鑑みて、H.G.ウェルズが八十万年後の世界を描いた「タイムマシン」のように、ユートピアを夢見るあまりに平和ボケしちまったエロイ族と、獰猛な欲望に取り憑かれてエロイ族を捕食するに至ったモーロック族という構図と重ねてみるのもいいかも...

未来を悲観的に、しかも滑稽に予測することはいいことかもしれん...
実際、人類は滑稽を演じてきたし、直面している様々のジレンマを考察して導かれた予測はあくまでも可能性であって、気に入らなければ、そうならぬよう行動すればいいだけのこと。歴史を学ぶとは、そういうことなのだろう。
しかしながら、人類の意志は、個人個人の意志ではなく、集団の意志として働くから手に負えない...
尚、柴田裕之訳版(河出書房新社)を手に取る。

「この予測は、予言というよりも現在の選択肢を考察する方便という色合いが濃い。この考察によって私たちの選択が変わり、その結果、予測が外れたなら、考察した甲斐があったというものだ。予測を立てても、それで何一つ変えられないとしたら、どんな意味があるというのか...」

旧人類とされるネアンデルタール人は、新種のホモ・サピエンスに追いやられて絶滅した。ホモ・サピエンスもまた、新たな進化種によって追いやられる運命にあるのだろうか。
とはいえ、他の動物たちから見れば、すでに人類は神のような存在なのかもしれん。文明やテクノロジーが神へ導くのかは知らんが、例えば、古代宇宙飛行士説が唱えるように、遠い過去に古代人が宇宙人と遭遇し、宇宙船のような高度なテクノロジーを引っさげて飛来したとすれば、やはり、神の降臨と信じてしまうのではあるまいか。それが神話となって語り継がれてきたということは考えられる。想像を絶するレベルのテクノロジーを纏えば、神を装うことができそうだ。人間にも、芸術家や科学者、あるいはアスリートなど、神業と思えるような才能を魅せつける天才たちがいるし...

一方で、進化の過程を認めない人々がいる。教壇では進化論を教えることを激しく拒絶したり。なにゆえダーウィンを恐れる。変化を求めてやまない人類が変身願望エネルギーを蓄積させ、ある日、生態系を突然変異させることは十分に考えられる。ホモ・デウスとは、そうした進化種であろうか。となれば、誰もがホモ・デウスになれるわけではあるまい。おいらのように未だネアンデルタール人のまま、という輩も多くいるはず。存分に情報や知識が手に入る時代では、自発的に生きる人と受け身で生きる人の意識は明らかに違い、認識格差をますます拡大させていくかに見える。
爆発的な人口増殖に対応するには、仮想価値の経済的な循環運動のみが頼みの綱であり、人類はさらなる仮想空間に避難所を求めていくほかはあるまい。
知的生命体が進化をすればするほど、自己というものがどんな存在かを知ろうとするのは自然な欲求であろう。人類は、精神や意識の正体を知りたくてしょうがないはず。しかし、こうしたものも仮想的な存在なのやもしれん。つまりは、虚構...

「人間は至福と不死を追い求めることで、じつは自らを神にアップグレードしようとしている。それは、至福と不死が神の特性だからであるばかりでなく、人間は老化と悲惨な状態を克服するためにはまず、自らの生化学的な基盤を神のように制御できるようになる必要があるからでもある。もし私たちが自分の体から死と苦痛を首尾良く追い出す力を得ることがあったなら、その力を使えばおそらく、私たちの体をほとんど意のままに作り変えたり、臓器や情動や知能を無数の形で操作したりできるだろう。」

本書は、「データ教」という新たな宗教を提示する...
データ至上主義では、森羅万象がデータの流れからできており、どんな現象や価値もデータ処理にどれだけ寄与するかで決まるらしい。こうした考えは、ダーウィンの進化論とチューリングマシンの発想がぶつかりあって生じた潮流で、科学界で概ね受け容れられているという。
「生物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理である。」

こうした見方によると、株式市場は、これまで人間が編み出した中で最も効率的なデータ処理システムということになろうか。参加は自由。直接的にも、間接的にも参加可能。とはいえ、無理やり、いや、知らず知らずに参加させられている人も多く、たまーに暴走もする。
生物がアルゴリズムであるなら、数学的に記述できることになる。まさにチューリングは、計算機が心を持ちうるかを問うた。コンピュータ工学にも、人間の知識や知恵を限界とする見方があり、ビッグデータや人工知能に信頼を置く風潮がある。
ウィキペディアを覗けば、すべての知識がデータ化されることを魅せつける。
アマゾンを放浪すれば、すべての商品がデータ化されることを魅せつける。
ソーシャルメディアを眺めれば、すべての意見や見解がデータ化されることを魅せつける。
そして、ネット民は呪文を唱える。すべてを記録しよう!すべてをアップロードしよう!すべてをシェアしよう!と。繋がろうとしない人間には、時代遅れ!のレッテルを貼り、危機感を煽る。
自由意志は、もはやデータに成り下がっちしまったか。自由主義や資本主義も、社会主義や共産主義も、もはやイデオロギーでもなければ政治制度でもなく、競合するデータ処理システムに成り下がっちまったか。資本主義は分散型データとして生き、共産主義は集中型データとして生きる、ただそれだけのことか...

「現代というものは取り決めだ。私たちはみな、生まれた日にこの取り決めを結び、死を迎える日までそれに人生を統制される。この取り決めを撤回したり、その法(のり)を越えたりできる人はほとんどいない。この取り決めが私たちの食べ物や仕事や夢を定め、住む場所や愛する相手や死に方を決める。一見すると現代とは極端なまでに複雑な取り決めのように見える。だから、自分がどんな取り決めに同意したのかを理解しようとする人は、まずいない... ところが実際には、現代とは驚くほど単純な取り決めなのだ。契約全体を一文にまとめることができる。すなわち、人間は力と引き換えに意味を放棄することに同意する、というものだ。」

いずれ、データ自身が意志を持ち始めるのやもしれん...
人の意志を物理学で説明すれば、脳内でニューロンが信号を発し、あるパターンに則ってデータを処理しているだけのこと。精神や心の正体が、物理的には無数の自由電子の集合体で説明できるとすれば、無数のデータ群が意志を持っても不思議はあるまい。
人間自身が人間を知るよりもデータが人間をよく知るようになるとしたら、ソクラテス以前の時代から提起されてきた、汝自身を知れ!という哲学的問題もあっさりと解決しそうな。
しかし、自分自身を知る必要のなくなった人間とは、いったいどんな存在であろう...

「今やテクノロジーは急速に進歩し、議会も独裁者もとうてい処理が追いつかないデータに圧倒されている。まさにそのために、今日の政治家は一世紀前の先人よりもはるかに小さなスケールで物事を考えている。結果として、二十一世紀初頭の政治は壮大なビジョンを失っている。政府はたんなる管理者になった。国を管理するが、もう導きはしない... これは、見ようによってはとても良いことだ。二十世紀の大きな政治的ビジョンのいくつかがアウシュヴィッツや広島や大躍進政策へとつながったことを考えると、私たちは狭量な官僚の管理下にあったほうがいいのかもしれない。神のようなテクノロジーと誇大妄想的な政治という取り合わせは、災難の処方箋となる。多くの新自由主義の経済学者や政治学者は、重要な決定はすべて自由市場の手に委ねるのが最善だと主張する。それによって政治家は、無為や無知であることの完璧な口実が得られ、無為と無知は深淵な知恵として再解釈される。政治家にとっては、理解する必要がないからこの世界を理解しないのだと思うのが好都合なのだ。」

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