言語学の革命と称される生成文法理論の誕生は、「統辞構造論」という一冊の小冊子によって告げられたという。それは、当時流行していた二つの理論の限界を示しつつ、これらに論理構造という視点を加味する形で展開されるとか...
尚、本書には「言語理論の論理構造 序論」も併録され、福井直樹、辻子美保子訳版(岩波文庫)を手に取る。
二つの理論とは、初歩的な生成文法としての形態音素論と、有限状態マルコフ過程に基づく形式文法である。そこには、「変換」という概念からのアプローチが披露され、語句の置換や代入、挿入や削除といった操作は、まるで代数学!
ノーム・チョムスキーの視点は、ソシュールの構造主義を踏襲しているのだろうか。言語システムを一つの集合体として捉え、それが有機体のごとくうごめくような。言語の運用と能力、そしてなによりも、その慣習に人間の姿を投射して魅せる。
あるいは、句構造のツリー分解、再帰的特性や巡回、語彙羅列や文脈依存、同義性と多義性、音素的弁別性と意味特性の結びつきなどの考察は、哲学と数理論理学の融合を思わせる。言語学は、いや、あらゆる学は、自然科学であるべし!と告げるかのように...
おそらく、自然言語には普遍法則なるものが存在するのだろう。文法構造には、完全に規定できる変換法則なるものがあるのだろうか。例外を認めれば、それに近いものはあるだろう。生得的に学習できる何かがが。帰納的に組み込まれた何かが...
言語には、数学で言うところの不完全性の問題を孕んでいるものの、各国語の文法は、VO型、SOV型、VSO型などで規定され、英語で言うところの WH 疑問文のような雛形もある。
そして、意味を与えることなく文法を与えることはできるのか、という疑問がわく...
元々、言語システムには変化の余地が組み込まれている。
語句や文体の使われ方は時代とともに変化し、誤用の方が庶民の圧倒的支持を得れば、それが主流となる。文法の正当性を組織化することは、国語辞典や文法事典などでは心もとない。この変化の余地は、言語が精神の投射装置として機能している以上、避けられまい。そもそも精神ってやつの実体が完全に解明できない限り、言語もまた完全な体系として説明することはできまい。そして、それは人類にとっての永遠のテーマの一つとなろう。己を知るというテーマとして...
こうした状況を尻目に、小説家たちは新たな表現様式を次々と編み出してくる。言語の競争原理としての表現のテクニックや派生のおかげで、言葉が豊かになるのも確か。これこそが言語の本質やもしれん...
そして、本書とは関係ないが、あるフレーズが頭に浮かぶ...
「文法は言語の規則とみなされている。だが、日本語をしゃべっている者がその文法を知っているだろうか。そもそも文法は、外国語や古典言語を学ぶための方法として見出されたものである。文法は規則ではなく、規則性なのだ。... 私は外国人のまちがいに対して、その文法的根拠を示せない。たんに、"そんなふうにはいわないからいわない"というだけである。その意味では、私は日本語の文法を知らないのである。私はたんに用法を知っているだけである。」
... 「定本 柄谷行人集、ネーションと美学」より...