2012-06-10

"堕落論・日本文化私観 他二十二篇" 坂口安吾 著

「善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。」

小説家の鎮魂歌とは、こういうものを言うのであろうか。魂のこもらない一句が見当たらない。独特のリズムは修羅の妄執がごとく。毒舌とストレートな表現で、一見荒々しくも見える文章群が、妙に調和していて心地よい。繊細な感受性の持ち主でなければ、できない技であろう。なによりも、生への執念が込められる。
「私はただ、私自身として、生きたいだけだ。私は風景の中で安息したいとは思はない。又、安息し得ない人間である。私はただ人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛す。徹頭徹尾、愛す。そして、私は私自身を発見しなければならないように、私の愛するものを発見しなければならないので、私は堕ちつづけ、そして、私は書きつづけるであろう。」
生きるとは人間の最大の欲望であり、生き方とは精神の最大のテーマである。善は悪との関係から生じ、生は死との関係から生じる。その真理に迫ろうとすれば、すべてを曝け出すしかあるまい。自己の醜行をも避けるわけにはいかない。
そこで、安吾は精神の堕落を求める。すべてを投げ捨てる心は、自暴自棄などとは違う。権威を嘲笑い、死をも笑い飛ばす。恋愛を人生の最高の花とし、女体に溺れる。
「小説の母胎は、我々の如何ともしがたい喜劇悲劇をもって永劫に貫かれた宿命の奥底にあるのだ。笑いたくない笑いもあり、泣きたくない泪もある。奇天烈な人の世では、死も喜びとなるではないか。知らないことだって、うっかりすると知っているかもしれないし、よく知っていても、知りやしないこともあろうよ。小説は、このような奇々怪々な運行に支配された悲しき遊星、宿命人間へ向っての、広大無遍、極まるところもない肯定から生れ、同時に、宿命人間の矛盾も当然も混沌も全てを含んだ広大無遍の感動に由って終るものであろう。」

自己を破壊してみなければ、自己を創造することもできない。ましてや自己の発見などおぼつくまい。しかしながら、自己の醜行までも受け入れる寛容さを身につけるのは、至難の業である。小説家が精神と正面から対峙する職業となれば、自己の醜行に耐えられない作家は自ら死に追い込むことになる。
安吾は、自殺を無意味だと吐き捨てる。芥川や太宰の自殺を不良少年の死だとし、不良青年にも不良老年にもなりきれなかったと蔑む。芥川にしても、太宰にしても、元来孤独の文学。なのに現世とつながり、ファンとつながったがために自ら死へ追いやったと。しかし、彼らへの思いは強い。
「本当の自殺よりも、狂言自殺をたくらむだけのイタズラができたら、太宰の文学はもっと傑れたものになったろうと私は思っている。」
安吾流の悔みの言葉であろうか。まるで太宰に「自殺論」でも書いて欲しかったかのように。人には様々な生き様があるように様々な死に様がある。自殺にも様々な事情があろうし、肯定する気にも否定する気にもなれん。俗世間の酔っ払いには、そんな度胸もないのだから。ただ、生きている限りは自分に正直でありたい。安吾はわざわざ死期を早めるのは人生の敗北者だとしている。だがそれは、生きる意欲を奮い立たせるための裏返しかもしれん。
「人間は生きることが、全部である。... 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。然し、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。」
キェルケゴールは、死んで墓に安住できるならば、それは絶望ではないとした。絶対的な存在感を示す孤独とぎりぎりまで戦い、現世を突っぱね、その生き地獄を生き抜いてこそ小説家というわけか。そこまでしてこそ、芸術というわけか。芸術ってやつは、狂人にしか見えないのかもしれん。
「生きている奴は何をしでかすか分らない。何も分らず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当りには、物の必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それが又万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。」

本書には、「ピエロ伝道者」「FARCEに就て」「ドストエフスキーとバルザック」「意欲的創作文章の形式と方法」「枯淡の風格を排す」「文章の一形式」「茶番に寄せて」「文字と速力と文学」「文学のふるさと」「日本文化私観」「青春論」「愕堂小論」「堕落論」「続堕落論」「武者ぶるい論」「デカダン文学論」「インチキ文学ボクメツ雑談」「戯作者文学論」「余はベンメイす」「恋愛論」「悪妻論」「教祖の文学」「不良少年とキリスト」「百万人の文学」の二十四篇が収録される。
安吾の生涯に渡る代表的エッセイ集ということだが、これ一冊で人生論が語られる。生涯に渡って一貫性を保つのは難しいはずだが、小説家としての信念はぶれないということであろうか。

1. ファルス論
ファルスとは笑劇や道化のこと。一般的に笑いよりも涙の方が高尚とされるが、人間の情念は涙を誘うよりも笑いを誘う方がはるかに難しい。悲しみには人類の共通観念があり、死や命の儚さを匂わせればたいてい涙を誘う。対して、笑いほど文化や慣習や言語に影響されるものはない。笑いは否定をも肯定する。おまけに、笑いは涙をも乗り越える。故に、戯作をもって笑劇を演じることが、文学の高尚なテクニックということになろうか。笑いは不合理を母胎にするという。芸術心とは、まさに不合理の内にあるのだろう。
「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。」

2. 不条理な文学
グリム童話で有名な「赤ずきん」に「文学のふるさと」を探る。シャルル・ペロー版に遡ると、ただ少女が狼に喰われるだけの物語で、そこに教訓や道徳はないという。暗黒の運命と冷酷な現実を叙述するのみ。これが客観性と言うかは知らんが、実に童話らしくない。ただ、その不条理を受け入れるだけの無力な世界、これが文学の本来の姿だということであろうか。

3. 文豪批判
安吾は文豪たちに厳しい。というより、文学界に厳しいと言った方がいいか。藤村や漱石らを血祭りに上げる。「新生」という作品において、藤村は世間的処世において糞マジメだが、文学的には不誠実であるという。漱石は、知と理で痒いところに手が届くものの、人間の本質が欠けているという。ただ、自らインチキ文学と称し、撲滅すべきは安吾小説とも言っている。安吾自身が糞真面目な文章家であることは言うまでもない。そうでなければ、こんなに緻密に計算された文章は書けまい。小説家の正体は戯作者ということであろうか。
「言論の自由などと称しても人間の頭の方が限定されているのであるから、俄に新鮮な言論が現れてくる筈もなく、之を日本文化の低さと見るのも当らない。あらゆる自由が許された時に、人は始めて自らの限定とその不自由さに気付くであらう。」
それにしても、文学の神様と呼ばれた志賀直哉への攻撃は半端ではない。これは本物か。志賀は、特攻隊の生き残りを再教育せよ!とほざいたとか、太宰もその態度を批判したらしい。志賀文学を思想観念などない皮相的だとしているが、その気持ちも分かるような気がする。現代でも、国のために命を賭けている人たちに敬意を払わず、その存在すら認めない輩がいる。
「日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先ず自我の確立だ。本当に愛したり欲したり悲んだり憎んだり、自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。」

4. 堕落論
安吾は人間の本質に迫るために一貫して堕落を求める。
「人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。」
しかし、人間が堕ち抜くほど強くはないことも認めている。
「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。」
安吾は、宮本武蔵の凄まじい生への執念を称賛しながらも、その執念が薄れたために晩年の著書「五輪書」をつまらなくしたと嘆いている。対して、戯作的な低さがあるものの勝海舟の父勝夢酔(むすい)の「夢酔独言」を高く評価している。勝夢酔は、生涯を不良で通した武芸者だそうな。道学的な高さよりも、必死の生き様の方に芸術性が生じるというわけか。とことん醜態を曝け出して生きなければ、人間の本質は見えてこないし、真の芸術もありえないというわけか。
「良く見える目、そして良く人間が見え、見えすぎたという兼好法師はどんな人間を見たというのだ。自分という人間が見えなければ、人間がどんなに見えすぎたって何も見ていやしないのだ。自分の人生への理想と悲願と努力というものが見えなければ。」

5. すけべぇオヤジの恋愛論
戦争未亡人の多い時代、安吾は何度も恋愛をやり直すことを奨励する。そして、愛を宗教的なものとし、恋を狂人的なものとして区別している。狂うほど好きにならないと、人間の本性は見えてこないというわけか。まったく友愛型人間ってやつが愛を安っぽくしやがる。俗世間では、愛は最高の善とされる。ならば、愛を金で買うことこそ、最も有意義な金の使い方ということになろう。
そういえば、あるバーテンダーが能書きを垂れていた。下心があるのが「恋」、心を下に書くから、真心があるのが「愛」、心を真中に書くからと。なるほど、下心こそ人間の本性というわけか。
また、女房と女とどこが違うのか?と問いながら、知識があっても知性がなければ最低な女だとし、良妻などというものを偽物とし、知性ある悪妻を求める。そして、何度でも結婚すりゃええと主張する。ただし、安吾自身は二十の美女を好むと宣言しているけど。
すけべぇオヤジまるだしの自由恋愛論にはまったく同感だ。しかし、なんでわざわざ再婚を奨励するのか?そんなに実体のない法律なんてものに縛られたいか?どうせなら確実に実感できる縄で縛ってほしい!と、M君は言っていた。

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