2015-11-22

"確率の哲学理論" Donald Gillies 著

確率論は人間社会にとって有用な道具であり、なによりも人生の選択が確率に支配されている。そう、人生はギャンブルだ。ギャンブルってやつは、賭けるものによって決定的な違いを見せる。勝てば単に賞金がもらえるのと、負ければ財産を失うのとでは、まったく意味が違ってくる。おまけに、過去を引きずるかどうか、という根本的な問題を抱えている。ベイズ的か、ランダム的か、それは極めて主観的な判断だ。負け癖がつけば、マルコフ性を超えた条件の暗示にかかる。大局ではエルゴード性を示しながらも、人生の成功には確率以上の嗅覚が求められる。人間の判断力を最も左右するものは、やはり恐怖心か。人生の岐路には、経済的破産と精神的破綻という恐怖が常につきまとう。
では、この精神作用を、どうやって数学的に説明できるというのか。ギャンブルに勝利の法則でもあるというのか。仮にあるとして、その法則をギャンブルの参加者が全員知っていたらどうだろう。もはや主観と客観の葛藤は避けられそうにない。確率論ってやつは、ある事象の存在確率を追求する学問であり、自己の魂の存在すら明確に説明できないのだから、仕方がないことかもしれん...

あらゆる物理現象や社会現象の確率性に関して、コンピュータ科学による一般化や法則化が進められているが、その有用性は確実に証明されておらず、それこそ確率的だ。そこには、確率を利用する帰納法の問題がある。そう、チューリングのテーゼに通ずる道だ。演繹法と帰納法とでは、おそらく前者の方が学問の王道であろう。だが、後者との調和によってはじめて実践的となる。
確率論の実践では、極めて経済学的な視点を要請してくる。世間では、リスク管理と呼ばれるやつだ。ケインズは、自由主義や資本主義がもたらす、経済循環の柔軟性は確率的にどこまで容認できるか、という問題を提起した。本書もまた、確率論に対するケインズの立場を紹介してくれる。同世代のフランク・ラムゼイのケインズ批判とともに。二人とも、元をたどれば数学者。
確率論を数学と呼ぶことに少々抵抗を感じるものの、少なくとも経済学や社会学と数学の架け橋となってきたことは認めよう。ただ、人間行動の不合理性を合理的に説明しようとする時点で、既に矛盾を孕んでいる。パスカルは、神の存在確率を問うた。カントは理性に問いかけても、まともな答えが返ってこないことに絶望した。悟性はいつも問いかけてくる... それは確率なのか、神の仕業なのか... と。勝利を神に祈るならば、同時に敗者の出現を祈ることになる。いつも成功し、いつも欲望を満たしていれば、確率に縋る必要はない。確率論とは、敗者の言い訳のために編み出されたものなのか。堕落した賭博者ほど神が見えるというのか。

現実世界は、あまりにも不完全なもので覆われている。それは、「確か」ではなく、「確からしい」という動機に支配されている。検索エンジンでは、完璧な結果を慎重に出力するよりも、そこそこ正しそうな結果を手っ取り早く出力することが求められる。純粋なランダム生成器を構築することは難しいが、擬似ランダムの生成ならば、すこぶる簡単だ。厳密な計算に要する労力と大雑把な思考法は、常にコストの上で天秤にかけられる。そして、面倒臭いという性癖が、集団的動機にバイアスをかけるという寸法よ。
確率論とは、数学に属しながらもなお、主観と客観の狭間をさまよう道のようである。著者ドナルド・ギリースは、確率論の歴史が、主観的な立場をとってきたことを物語り、古典理論、論理説、主観説、頻度説、傾向説、間主観説といった諸説、あるいは、ベイズ主義と非ベイズ主義、主観主義と客観主義といった立場の違いを紹介してくれる。彼は、どれが正しく、どれが間違っているなどと野暮なことは言わない。状況に応じてうまく調合する多元主義に立脚している。人間が絶対的な価値観に到達できない以上、人間の持つ合理性に近づくためには、主観と客観、双方とも欠かせまい...

1. 確率の解釈
今日、確率に対する主要な解釈は四つあるという。
  • 論理説... 合理的な信念の度合いとする解釈。すべての人間が合理的に行動することを前提。
  • 主観説... 特定の個人がもつ信念の度合いとする解釈。信じる信じないは個人の自由。
  • 頻度説... 長い系列において、事象が起こる有限な度合いを確率と定義する立場。
  • 傾向説... 繰り返される一連の条件に内在する性質や傾向であるという解釈。
さらにもう一つ、「間主観説」を提示している。主観説を発展させたもので、個人的な信念の度合いではなく、社会で合意された集団的な信念の度合いと解釈する。
哲学的には、認識論的な解釈と客観的な解釈で、二分されてきた経緯があるらしい。認識論的な解釈の側は、知識の度合いが違えば個人の信念も変わり、合理的な信念の度合いも変わる。このグループには、論理説、主観説、間主観説が属す。
客観的な解釈の側は、物質論を尺度とし、このグループには頻度説、傾向説が属す。
そして、社会学や経済学には、認識論的な解釈が適合しやすく、自然科学では客観的な解釈が適合しやすい。

2. 確率の源泉
確率の数学理論は、1654年に交換されたパスカルとフェルマーの書簡によって始まったとされるそうな。その中には、シュヴァリエ・ド・メレの問題が含まれている。
サイコロ賭博に溺れた世俗人メレは、厳粛なジャンセニスト(教会改革論者)のパスカルに問う。6のゾロ目が確実に出現するのは何度目か?と。堕落者が神の代弁者に縋ろうとも、確率は平等に与えられる。賭ける回数を増やして出現確率を安定させたところで、無駄な時間を捧げることになる。一瞬の輝きは神にしか見えず、そこには無限の原理が立ちはだかる。
ベルヌーイは、確率に関して初めて極限定理を証明したという。ちなみに、ベルヌーイの功績で、初歩的な法則では、コインの表と裏の出る確率は二項分布として知られる。また、彼は、経験則からやがて理論値へ収束するという大数の法則を示した。

初歩的な確率は、表か裏のどちらが出るかという二項定理において...

  Prob(n 回投げて表が r 回) = nCrPr(1 - P)n-r

最も単純な考え方は、n を無限大にとる。そして、二項定理から、以下の連続分布に至る傾向を持つという。そう、あの有名な正規分布だ。尚、σは標準偏差。

f(x) =   1

 σ√(2π) 
 exp (  (x - μ)2

 2σ2 
)

ちなみに、二項分布が n の増大にしたがって正規分布に近づくことを最初に示したのは、ド・モアブルだという。ド・モアブルの定理は、オイラーの公式に通ずる道である。
もう一つ、数学的に貢献した人物がベイズ。確率の哲学的試論では、ラプラスのものが有名だが、それはベルヌーイ、ド・モアブル、ベイズの示した結果を一般化し、改良したものだという。
社会学で応用される事例では、出生と死亡に関する統計を集めた商人ジョン・グラントの「死亡表に関する自然的、政治的考察」がある。「政治算術」を書したウィリアム・ペティの友人だ。この時代、予防接種の評価や、平均寿命と年金の適正問題があって、ド・モアブルも「生涯年金の論考」を書したという。保険業界を支えている数理統計学は、まさに確率論に支えられている。

3. 確率は魔物か?
ラプラスは、「確率の解析的理論」で、こう書いているという。
「自然を動かす一切の力と、自然を構成する諸々の実体とを把握できる知力が、これらの諸資料を解析するに充分なほど広大無辺であるならば、その知力は宇宙における最も巨大な諸物体の運動も、最も軽微な原子の運動をも同一の公式のうちに包含することができるだろう。この知力に対しては、不確実なことは何ひとつ存在せず、その知的両眼には未来も過去と等しく映るであろう。」
この巨大な知能が、「ラプラスの魔物」と呼ばれる。確率の理想像とは、悪魔なのか?ニュートン力学が崇められた時代、すべての知識は科学で説明できるとされた。だが、科学が宗教的迷信を打破すれば、今度は科学的信念が迷信化する。近代の客観性は、不確定性原理や不完全性定理に取り憑かれ、決定論がいかに無力であるかを思い知らせる。神のような絶対的な存在を、相対的な認識能力しか発揮できない生命体が利用すると、悪魔を蘇らせるというのか。もはや、信念の度合いと合理性の度合いの融合を図るしかあるまい。ハッキングは、こう論じたという。
「確率はヤヌスの面をもっている。一方でそれは統計的で、偶然的プロセスの法則に関わる。他方でそれは知識に関わり、統計的背景とあまり関係なく、諸命題への信念の度合いを理に適った仕方で評価するためにある。」

4. 確からしい公理
本書は、確率論の基本的な公理を三つ紹介してくれる。そこには、コルモゴロフの公理として知られるものも含まれる。

[公理 1]
いかなる事象 E に対して、0 ≦ P(E) ≦ 1。また、全事象 Ω に対して、P(Ω) = 1

[公理 2: 加法法則]
排反な事象 E1, ..., En において、P(E1) + ... + P(En) = 1

[公理 3: 乗法法則]
二つの事象 E, F において、P(E & F) = P(E | F)P(F)

確率論は、表記法において集合論と相性がいい。コルモゴロフの方法論では、確率は集合Ωの部分集合に割り当てられる。コルモゴロフは、こう定義したという。

P(E | F) = def   P(E & F)

 P(F) 
 , ただし P(F) ≠ 0

一方、ベイズ的思考では、確率 P における条件 e によって、h が決まる場合、P(h|e) は e のもとで h の事後的確率とされる。ベイズ学派の目的は、この P(h|e) を計算する方法を見つけることだという。

P(h|e) =   P(e & h)

 P(e) 
 =   P(e | h)P(h)

 P(e) 
 , ただし P(e) ≠ 0

ここに、コルモゴロフの公理とベイズの定理の共通哲学を見出すことができる。
また、加法性の法則は単純なように映るが、実際の現象を扱う場合、可算的な集合を持ち込むと、一様分布で考えることが極端に難しい。収束する無限級数に合致すればいいが、なかなかうまくいかない。そこで、分布モデルに当てはめながら、モデルを組み合わせて、近似モデルを構築することが現実的となろう。ブルーノ・デ・フィネッティは、こう述べたという。
「実際、事象 E1, E2, ..., En, ... が独立で確率 ξ について同じように確からしいとき、包括的事象 E に帰せられる確率が Pξ(E) であるとする。
いま Ei が限定的な分布 Φ(ξ) をもつ可換な諸事象とし、同じ包括的な事象の確率 P(E) は、

P(E) =  1
0
Pξ(E)dΦ(ξ)

である。この事実は、可換な諸事象に対応した確率分布 P は、線形結合の加重を Φ(ξ) であらわした場合に、独立して同様に確からしい事象に対応した分布 Φ(ξ) の線形結合である。」

デ・フィネッティの解釈は、主観的確率と可換性を好んで、客観的確率や独立性の概念を排除しているという。客観主義者が、形而上学的な観念を排除すると、こうなるかは知らん。ただ、客観的確率の独立性を、主観的確率の可換性に還元できるとしており、本書はこの還元説を批判している。ラムゼイよりも主観的動機が強すぎるというわけか。
実際、現象が過去に依存するケースは多く、連鎖グループは階層的な構造をしている。例えば、天気予報は昨日の天気との関連性が強い。独立性と可換性の等価性を主張するのは、ちと強引であろうか。確率の法則は、用いる事象によって効果がまったく違い、その見え方は統計学的ですらある。そういえば... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と語ったのは誰であったか。

5. 確率論のパラドックス
パラドックスの根源は、各事象の出現確率の和が 1 にならないことにあるが、ベルトランの逆説は、いつ見ても奇っ怪!
「ある円を考え、適当に弦を選ぶ。この弦が円に内接する等辺三角形の一辺より長い確率はいくつだろうか。」
この無差別に選択する問題は、三つの解を得る。

[第一の算出法]
円の中心点 O から問題を眺め、無作為な半径 R を選ぶ。内接する正三角形 ABC に対して、頂点 A から辺 BC に対して垂線を引き、交わる点を W とすると、OW = R/2 となる。OW < R/2 であれば、弦 BC は、円に内接する正三角形よりも長く、OW は、区間[O, R] の間で均一な確率分布を持つ。

  P(OW <1/2) = 1/2




[第ニの算出法]
円の端点 A から問題を眺め、無作為な円周上の点を選ぶ。点A の接線と弦ABのなす角をθとすると、内接する正三角形の一辺より長いのは、60度 < θ< 120度 となり、θは接線との関係から 区間 [0, 180] の間で均一な確率分布を持つ。

  P(60度 < θ <120度) = 1/3




[第三の算出法]
円の内部の点から問題を眺め、同じ中心点 O 上に半径 R/2 の円を描く。辺 BC を等分する 点W が内側の円の内部にあれば、内接する正三角形の一辺よりも長く、W は円の中で均一な確率分布を持つ。

P =   小さい円の面積

 大きい円の面積 
 =   πR2/4

 πR2 
 = 1/4




同じ問題でも、半径、端点、内部の点という観点の違いで、1/2, 1/3, 1/4 という確率分布のパターンが生じる。パラドックスとはいえ、整然と確率分布が編み出される様子は、芸術さえ感じるのだった...

6. 経験法則と不確実性
経験法則は、数学的に反証できないもどかしさがある。コイン投げのような偶然的ゲームから、生物学的な統計学、そして、量子物理学が扱う素粒子現象まで、繰り返し起こる事象や大量現象に対して、ア・プリオリな性質を感じることがある。このような形態を、リヒャルト・フォン・ミーゼスは、「性質空間」と名づけたという。その名は、今日では「標本空間」と変わってきたが、不幸な改悪であると指摘している。
可能性の集合、すなわち性質は、標本化、つまりサンプリングと本質的に関係がないという。サンプル数、すなわち集団性の性質を問うということは、それが極めて経験的であることは確かだが、経験を多く積めば真理に近づけるという単純なものではない。
本書は、デ・フィネッティの独立性を可換性に還元する方法論を批判しながらも、彼のこの言葉に共感している。
「確率と頻度との間の関係を正確にできないのは、ちょうどあらゆる実験科学において、理論の抽象概念と経験的現実を関係づけることが実質的に不可能なことに似ている... こう考えることで批判を免れることができると、しばしば思われている。
しかし私の考えでは、そのような類似性は幻想に過ぎない。たしかに確率以外の科学では、理論が完全に精密であれば、何が起こるかを確実かつ正確に主張し、予見することができる。しかし確率算においては、理論自身はすべての頻度の可能性を認めざるをえないような理論である。それ以外の科学では不確実性理論と事実の関連が不完全なことから帰結するが、反対に確率に関しては、この関連のなかにではなく、まさに理論自体のなかにこそ不確実性が存在する。」

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