2013-09-15

"狂気の歴史" Michel Foucault 著

「パスカルによると... 人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう。」
いきなり投げかけられる文面が、これだ。この手の難解な書には、ある種の麻薬効果があって、なぜか心地良い。そして、思考が勝手に暴走を始めるのだ。なぁ~に、いつものことよ...

ミシェル・フーコーは、別種の狂気についても歴史を書く必要があると語る。物語は古典主義時代に遡る。カトリック教の強烈な支配下で多様性が失われると、ギリシア、ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じ、古典回帰の文化運動が巻き起こる。いわゆるルネサンスだ。フランスではやや遅れて17世紀頃、ドイツではもう少し遅れて18世紀頃波及。この17世紀から18世紀にかけて、非人間扱いされてきた狂人たちの処遇にも変化が現れたという。そこには、ルネサンスの光明の陰で、監禁や牢獄とともにタブーとされてきた暗黒の物語があったとさ。この状況に最も当てはまる人物といえば、マルキ・ド・サドであろう。サドの前では狂気ですら完全な見世物となる。狂気は、長らく怪物のように扱われてきた。
ところが、古典主義時代に「非理性」という概念が登場したという。この用語は、怪物より柔らかい印象を与える。精神病や臨床医学という認識が広まり始めたのも、この時代だそうな。狂気もまたルネサンスの潮流に乗って、自由意志としての人間性を取り戻そうとする。とはいえ、治療法をめぐっては、監禁されることに変わりはない。狂気を研究すれば、理性との結合や分離について考察することになる。理性との結合から生じる人類愛ってやつは、どこからくるのか?盲目的な残虐行為への反発からくるのか?過去の狂気を批判する者もまた、叙情的な憤慨を剥き出しにする。自己存在を堅守するために理想論を並べたところで、別種の狂気に憑かれる。真理の偉大さを語れるのは、ただ沈黙のみ、ということであろうか...
「理性の真の姿は、理性が否認する狂気をただちに出現させ、今度はこちらが、理性を消滅させる狂気のなかに姿をけすことにある。」

一般的に狂気に対抗できるものは、理性とされる。確かに、狂気と非理性は相性がよさそうである。では、理性と非理性を分けるものとはなんであろうか?人間性を知ろうとすれば、非人間性との境界を探求することになる。理性を知ろうとすれば、理性の限界を見極めることになる。道徳もまた、悪徳への皮肉から生じる。理性とは、自由意志によって構築されるものであって、受動的な動機から生じるものではあるまい。
一方で、自由意志は束縛への反発から生じる。天才たちの超人的な集中力や芸術的な創造力もまた、自然や宇宙による束縛への反発であろう。まるで狂気の沙汰よ!すると、非理性を安直に悪徳と同一視するわけにもいくまい。狂気は理性とも相性がよさそうである。ソクラテス流に言えば、無理性を自覚する者こそ理性者ということになろうか。
「狂人は人間存在として取り扱われない、というこの否定的事実は、きわめて肯定的な内容を持っているのであって、人間扱いしない無情なこの無関心は、現実には強迫観念という意味あいを含んでいる。」
しかしながら、狂人たちに人間失格の烙印が押されるのは、今も変わらない。狂気の代名詞は、気違い、錯乱、暗愚、間抜け、気のふれた、頭が変、低能、痴呆、阿呆、白痴、馬鹿...と事欠かない。現代社会で「きちがい」が禁止用語とされるのは、真理を覆い隠そうという魂胆か?差別する側が狂気しているのは明らかだが、言葉の揚げ足を取って差別用語だと叫ぶ側もまた荒れ狂う。有識者や有徳者と呼ばれる人たちは、いくらか理性を具えているのだろう。そんな正気な人たちでさえ、無情な言動を通して認知し合っているではないか。理性という陰謀が、感情的な正義の声に耳を傾け、静かに囁く真理の声を抹殺する。しかも、理性は心の奥底で非理性と対峙しながら、常に緊張状態にある。理性者たちが突如として怒鳴りまくるのは、緊張を和らげるためか?これが説教ってやつの正体か?彼らは、言葉で勝利してもなお憤慨する。ならば、狂気を受け入れる方が、よほど平穏でいられるであろうに...
ちなみに、おいらがディオゲネスを好むのは、プラトンに「狂えるソクラテス」と仇名されたからだ。狂気バンザイ!無理性バンザイ!無知性バンザイ!ついでに、酔っ払いバンザイ!アル中ハイマー病バンザイ!

ちと脱線するが... もともと脱線しているが...
一霊四魂という思想があると聞く。勇、親、愛、智によって構成される魂が、一つの霊によって統括されるという思想である。いずれの魂も孤立すれば、邪気となる資質を具えている。邪気が悪魔の手に落ちれば、たちまち邪悪な鬼と化す。血塗られた歴史の陰には、いつも邪鬼が住み着いていた。アダムとイブが禁断の果実を食して以来、人間は神の善意を解することができなくなり、お釈迦様ですら菩提樹の下で心を惑わせた。イエスは敬虔な使徒に裏切られ、シーザーは誠実な盟友にあやめられ、芸術を愛した皇帝ネロを暴政に狂わせ、ボルジア家を強欲の代名詞とさせ、建築家を夢見た内気なヒトラーをば悪魔へ変貌させた。人間の魂には、恐ろしき邪鬼の棲家がある。
なのに、芸術家の目覚めは精神を悟るに、いくら狂っても足りない。四魂の邪鬼を存分に解放させ、猛烈な狂気の中に調和を目論む。凡人には到底及ばない芸当だ。
しかし、能力を欠いていても夢を描くことはできる。そして、夢もまた狂気するのだ。偉大な夢を実現できたら、どんなに幸せであろう。せめて、過ちを夢に閉じ込められたら、どんなに楽であろう。そして、酔っ払った狂人の悲痛な叫びを聞くがいい... おいらはハーレムに収監されたいのだ!

1. 狂気の秩序と排他的領域
狂気とは、脱理性から生じる理性のようなものであろうか?カオスやエントロピーが真理だとすると、無秩序から生じる秩序があってもいい。宇宙空間を構成するものは、人工的な美でもなければ、形式的な美でもなく、自然の乱雑さがあるだけ。なのに、そこにも秩序らしきものが生じる。まさに人体がそれだ。この集合体は、単なる原子の集まりだけでは説明できない。自然の産物である人体に合目的があるとすれば、人体の中に形成される狂気にも恣意性があるのだろうか?
狂気が、暴走する理性への反発から生じるのかは知らん。ただ、理路整然とした構成美に対するアンチテーゼとすることはできそうである。常識だけでは思考は乏しい。理性だけでも精神は乏しい。あらゆる進化には、秩序を超越した秩序のようなものが必要なのだろう。人間が自由意志の持ち主であるならば、人間同士で摩擦が生じない、なんてことはありえない。ましてや集団化すれば、個人の冷静さなど無力化される。集団性が常に狂気する危険性を孕んでいるとすれば、社会から一線を画すのも一つの手かもしれない。戦争は明らかに狂気であり、平和ボケも別種の狂気である。グローバルな共通観念を押し付ければ、存在本能としての帰属意識を働かせ、社会嫌いや人間嫌いを助長させる。仮想的なつながりを煽れば、孤独愛好家を増殖させる。
まだ精神病患者が救われるのは、狂気を自覚できることであろう。いや、自覚した途端に死に追いやられるかもしれない。最も厄介なのは、歪んだ精神では狂気していることにも気づかないことであろう。理性と狂気は対立的に扱われるが、理性を自認する者が狂気を自覚できるだろうか?
人間が排他的論理を好むのは、自己が優位な領域にあると願っている証であろう。はたして、正気と狂気の境界はどこにあるのか?排他的領域は、精神病棟の鉄格子によって隔離される。もし、その境界が鉄格子だとしても、異常者を隔離するためのものか?純真な心を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?真理を探求するには、隔離よりも調和の方に分がありそうだ。
未来への希望は、過去の悲劇との相殺によって、精神の平穏を保とうとするのだろうか?幸せな人ほど悲観論を語るのか?それとも、悲観的な出来事に馴らされてしまった結果なのか?極端な悲劇を体験をすると、笑顔を見せないばかりか喜怒哀楽までも失う。人は幸福過ぎても不幸過ぎても、やはり冷酷になるようである。精神分裂症が理性と狂気の分裂によって生じるとすれば、理性を知ることができるのは精神病棟の方かもしれん。
「宿命的に人間を無に帰していた、死というあの必然性の発見から、人々は、実在それじたいであるあの無を軽蔑のまなざしで観照する態度へ移ったのである。死というあの絶対的限界をまえにしての恐怖が、不断の皮肉のなかに内在化する。」

2. 慈善事業と信仰
富裕も貧乏も、幸福も不幸も、神のおぼしめしとするなら、慈善事業は成り立たない。激しい慈善事業の拒否は、ルターやカルヴァンにも認められるという。キリスト教が神に縋る消極的な信仰とされる所以である。慈善事業は、信仰的に行われるべきものではなく、法的に処理すべきものだという。基本的人権としての最低生活水準を、社会が規定すべきということであろう。慈善事業は一時的な支援に留まり、永続的な解決にはならない。宗教的な施しも貧困や悪徳を撲滅することはできない。ここに救済の難しさがある。
とはいえ、突如として発生する災害や災難に対して慈善事業はよく機能する。慈善はカトリックの信条とするところ。実際、キリスト教の多くの国々で、災害や戦争で孤児や難民が発生すると、その身元を引き受けようという意志を示し、感服させられる。他方、善意というものは、なかなかの曲者であることも否めない。拒否されると、せっかくの行為を!と反発を買い、悪意を拒絶すれば、見破られたか!と逆ギレされる。どっちに転んでも憤慨されるとなると、善意も悪意も有難迷惑な存在か。
多くの国で、道徳は宗教で教わるものという伝統がある。確かに、人間には信仰が必要である。だが、宗教に頼らなくても信仰は構築できるし、既存の宗教の胡散臭さを無条件で信じるよりは無宗教の方がましであろう。実際、宇宙論的立場から独自の信仰を構築している科学者も少なくない。感情論的なキリスト教を批判し、論理的に修正を加えながら独自なものにするキリスト教徒もいる。おいらは無神論者に極めて近いが、それでも宇宙論的な絶対的な存在のようなものがあると思っている。それを神と言うのかは知らんが、少なくとも宗教が呼ぶ神とは同列にしたくないだけだ。神が見ておられるから道徳を行うと言うのなら、神が見ていなければなんだってやるのか?人間の都合で神を具現化する方が、よっぽど神の冒涜であろうに。とはいえ、独自の神を構築すれば、これまた暴走を始める。結局、人間ってやつは、ご都合主義に染まるのよ。そして、みんな教祖様となって聖職者は貪欲な生殖者となりはてるのか...は知らん。

3. 臨床医学への意識
学問の傾向は、まずは現象を分類しながら、抽象化によって高められていく。対して人間の病状はというと、一人一人に特徴が現れ、治療法は個別に対応させる必要がある。そんなことは、心理学者よりも福祉現場で働く人たちの方がよく心得ていて、患者の癖や行動様式を事細かく記録する。人間観察では、抽象化よりも具現化に縋る方がよさそうである。学問と人間観察とでは、思考の方向が真逆にあるのか?いや、双方を調和させるべきであろう。精神性と論理性も、人間性と自然性も。ヘーゲルは、こう書いているという。
「ほんとうの心理的治療は、狂気が知性の点でも意志とその責任能力の点でも理性の抽象的な喪失でなくて、単なる精神の混乱であり、依然として現存する理性のなかにおける矛盾である。」
狂気の歴史とは、監獄の歴史でもある。監獄は、人道的とは反対で、人類愛的ではなく極めて政治的な手法である。だからといって、非人道性を非難するだけでは、社会秩序を維持することができない。道徳的治療では、労働こそが第一とされる。労働によって狂気に拘束力を与えるならば、それが最善となろう。だが、強制労働に頼れば、道徳を根付かせるどころか、むしろ反道徳を育てる。なのに、どういうわけか?有識者ほど狂人を拘束したがるようである。ボアシエ・ド・ソヴァージュは著書「組織的疾病分類学」の中で、こう書いているという。
「魂の病を治すことができるためには、哲学者でなければならない。実際、この病の起源は、病人が善と見做す、一つの事柄への激しい欲望にほかならないのだから、医師のなすべき義務は病人に、彼が熱望している事柄は表面的には善であっても実際には悪であるのを、明確な理由によって証拠だててやり、自分の誤りをさとるようにすることである。」

4. 自由の使い道
モンテスキューは著書「法の精神」の中で、ローマ人の自殺とイギリス人の自殺とを対照的に語っている。ローマ人の場合は、道徳と政治にかかわる行為で慎重な教育に基づく計画的な結末であるとし、イギリス人の場合は、一つの病気としして、こう述べている。
「イギリス人は、その決心をしなければならないどんな理由も他人には考えられないのに自殺する。彼らは幸福のさなかにおいても自殺する。」
また、法律でどんなに厳しく取り締まろうとも、やはり法の抜け道を探るもので、風土に根付いた意志を無視すれば、むしろ狡猾さを身につけることになる、といったことも語っている。本書にも似たようなことが語られる。
「イギリス人は商業国民を形づくっている。つねに投機に夢中になっている精神は、たえず恐怖と希望に左右される。商業の核心にある利己主義は、容易にねたみ深くなり、他のさまざまな能力に助けを呼びもとめる。」
こうした自由は、自然な自由とは程遠いものだと指摘している。それは、個人や組織の利害にまつわる自由で、人間精神と心情とにかかわる自由ではないという。現在でも、経済的に成功した国で自殺が増加傾向にある。それは、偽りの自由の代償であろうか?真の幸福の姿が見えなければ、自然に不幸に吸い寄せられる。そして、狂気を演じながら、本当に狂気するのだろうか?金持ちほど自由になれるとすれば、その社会は専制的となる。どんなに賢明な御仁であっても、自惚れが知性を曇らせ、理性をも失わせるのに、ほんの一瞬あれば事足りる。魂に加えられる激しい情念が、どんな理性的な人間をも、突如として凶暴で愚鈍な人間に変貌させる。人間は、常に恐怖心や不安感に苛まされる臆病な存在である。その重圧から解放された途端に、極端な本性を剥き出しにする。普段から自由を抑制された者ほど、その反動は大きくなるだろう。厳しい鍛錬の裏腹に、能力を人質にするのか?理性の自由独立は、非理性の場において解放されるというのか?ならば、狂気を崇拝する宗教があっても不思議はない。狂気は、愚かさの爆発でもある。そして、あらゆる受難の道を辿り、愚かさを崇拝するというのか?
「死が時間の側面における人間生命の限度であるように、狂気は動物性の側面におけるその限度であって、死がキリストの死によって神聖視されたのとまったく同様に、狂気は、そのもっとも動物的な面までも、やはり神聖視されたのである。」

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