自分を知るには、勇気がいる。覚悟がいる。覚悟がないから、自らを欺瞞し、自らを暗示にかける。おまけに、自我とやらが自ら人生物語を創作にかかる。伝記作家が他人の人生物語を創作するように...
マーク・トウェインは、こんな言葉を遺した。「人間は顔を赤らめる唯一の動物である。いや、顔を赤らめる必要のある唯一の動物である。」と...
自分自身に嘘をがつけないのは、優しさに欠けるというもの。それが、精神の合理性というもの。もはや、自我は邪心の塊と化す...
そもそも、自分を知る必要があるのか。知らぬが仏ってこともある。自分はどこまで自分というものを知らないのだろう。防衛本能だって働く。余計なことを知らないうちに処理してくれるなら、それはそれでありがたい。なるべく、そっとしておきたいものだ。
それでも知りたい!どうしても知りたい!自己に関わる心の衝動は、ことのほか手ごわい。すると、自我が囁きかける。すべては自己責任で... と。純真無垢な心なんぞ、人間には似つかわしくない...
尚、村田光二監訳(新曜社)を手に取る。
「人はどれほど自分自身を知っているのか、その知識の限界はどのあたりか、自己洞察を欠くとどうなるのか... 人間は、生存にとって欠かすことのできない、強力な、洗練された適応的な無意識を持っている。しかし、無意識は気づかないところであまりに効率的に働いていて、知る方法もほとんどないから、自己知識を得るのはそれなりに困難だ。いくら必死に心の内を探ろうとしても、私たちの中には、直接知ることのできない、広大な領域がある...」
まず、自分を知るには無意識の領域に踏み込む必要がある。どのようにして自己洞察を得るか。ひとつには、適応的無意識の働きを観察すること。そして、その働きを科学的に検証すること。これがティモシー・ウィルソンの主張である。
無意識を意識するとは、既に自己矛盾を孕んでいる。しかし、こうした洞察はけして不可能なことではないと励ましてくれる。適応的無意識を素直に感じるには、衝動に身を委ねることも厭わない。気まぐれ崇拝者には、たまらない実験だ。そこに自分というものを再発見できれば、自分を変えることだってできるやもしれん。
但し、良い方向に変われるとは限らんが...
無意識の問題はフロイトも取り上げた。当時は、低水準の動機としてあまり重要視されなかったようで、現代心理学は、精神状態の効率性という観点から肯定的に捉えている。意識は、無意識との調和において成り立っているとでも言おうか。あるいは、妥協の中でもがいているとも言えそうか。
本書は、意識と無意識との狭間で、自己洞察の意義を強調する。自己認識、自己抑制、そして、自己敬愛といった意識は無意識と協調して発動されるという。人間は自己洞察を欠くと、どうなるのだろう。情報過多の時代では、情報の力を認識しておく必要がある。猛威を振るう広告に警戒心を怠れば、人間が広告業界の指令に盲従する自動人形になりかねない。
有効な特性の多くは、トレードオフがつきもの。人間の心には、誰しも偏見が根付いており、人種、性、職業、地域といった差別意識は、社会環境に引きずられやすい。
では、偏重した心で、偏重した意識を自覚できるだろうか。悪行を知らずして善行も叶うまい。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体が喜びを知るには、悲しみも必要だ。不幸な出来事がすべてマイナスというわけではない。その反発や修正でプラスに転ずることもあれば、自省の念を抱いて胸が張り裂ける思いもする。無意識の領域には、心理的な免疫システムが装備され、自己修復機能が働くようである。
しかしながら、完全に無意識に委ねるにも勇気がいる。自己洞察には、人間を知るという意味も含まれ、客観的な視点を要する。それが心理学の役目ということになろうか。いや、心理学だけでは心もとない。精神医学、脳科学、遺伝子工学、生物学、社会学、哲学、言語学などを含めた、それこそ人間にかかわる知識を総動員して...
「適応的無意識の現代的な見方では、判断、感情、動機などの心の興味深い働きの多くが、抑圧のためではなく、効率性という理由から意識の外で起こる。心は低水準の処理(たとえば知覚過程)が意識に到達しないようになっているだけでなく、多くの高次の心理過程や状態もアクセスできないように設計されている。心は、多くのことを同時に並行しておこなうことができる、よくデザインされたシステムである。何か他のことについて意識的に考えながら、気づいていないうちに世の中について分析し、思考している。」
