「われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない。」
「箴言集」は、ルソーやサルトルらの反発を買い、後世、高名な作家たちから槍玉に挙げられてきたアクの強い作品である。ラ・ロシュフコーは、フランス貴族の中でも屈指の名門の出だそうな。ルイ13世やルイ14世が権威を誇り、革命にはまだ間のある時代、上流社会には見栄っ張りの浪費家が溢れ、ラ・ロシュフコー家も例外ではなかったようである。
紳士の格言では、社交術や会話術を交えながら皮肉たっぷりに問い詰め、恋愛をめぐる辛辣な警句では、ご婦人方がサロンでお喋りしている光景が目に浮かぶ。ここには自己完結した文句が無作為に羅列され、どこからでも拾い読みができる。それでいて、一つの体系を成しているように映るのは、隅々に渡って自己愛の原理が働いているからであろう。主題には、哲学でお馴染みの節制、謙虚、義務、正義、幸福などが挙げられるものの、それぞれが自己愛を中心に絶えず循環し、さらに、嫉妬症、妄想症、説教癖、狂言癖、老人病といった性癖を随所に絡ませる。あらゆる所に否定の通奏低音が響き渡り、いわば、自己愛の肖像とも言うべき作品なのだ。
尚、本書には「考察」という作品が付録されるが、考察というより、人間観察と言った方がいい。「考察」は著者自身は公刊しなかったそうだが、参考までに併せて訳出したという(二宮フサ訳、岩波文庫版)。なるほど、人間観察というより、ラ・ロシュフコー観察ってわけか...
「話すための技術が沢山あるとすれば、黙するにもそれに劣らぬだけの技術がある。世には雄弁な沈黙があり、これは時に賛同したり否認するのに役立つ。からかう沈黙もある。敬意に満ちた沈黙もある。」
パスカルは、神なき人間は悲惨だと語ったが、はたしてそうだろうか。確かに、縋るものがなければ、絶望の淵に沈んでいく。虚偽的な正義、打算的な虚栄心、自己満足的な憐憫、気まぐれな情念... こうしたものが人間の本性であり続ける限り、そこから逃れることは叶うまい。
ならば逆に、悲観的な人間観を心の拠り所にする術はないだろうか。人間の行動パターンなんてものは、ほとんど自己存在、ひいては自己愛で説明がつく。自我にとって自己愛ほど手に余る存在はない。誉められたい... 認められたい... だから人は努力する。自己の中に得意なことを見出し、強調し、集団の中で優位に立とうと。ちょっと不幸そうに見える人には幸せの押し売りどもが群がり、本当に不幸な人には誰一人目もくれない。人間ほど差別好きな動物はいない。なによりも自分自身を差別化しようとする。自分自身に本当に自信があれば、他人を蔑んだりはしないはずだが、自己確認のために劣位な存在を欲してやまない。見返りばかりを求める心の高利貸しが、支離滅裂な自負心を旺盛にさせて自己を慰めれば、まるで自慰行為の塊!人はみな、ネガティブキャンペーン好きよ...
「自己愛こそはあらゆる阿諛追従の徒の中の最たるものである。」
かと思えば、自分の真の姿を知りたいのは自分自身のはずなのに、他人から暴かれることには恐れおののく。何事も愛が結びつくと狂気沙汰となるものだが、自己に取り憑いた時は厄介極まりない。自己を偶像のごとく崇拝しちまう。人はみな偶像崇拝者よ。
愛ほど、ひた隠しにすることもなければ、装ったりすることもない。おまけに、絶えず掻き立てなければ持続できず、自己を蝕むだけでは飽き足らず、相手の安らぎまでも餌食にする。案外、人は自分の欠点をよく知っているものだが、欠点を欺くという欠点を纏っているがために、いっそう欠点を増幅させる。
嫉妬もまた他人の幸福に我慢ならない狂気の類い。幸も不幸も、その人の感受性で程度が決まり、情念の暴虐に跪く。自己が最もうんざりする存在であることを承知するには、非情な勇気がいる。己れの傲慢さには、己れの傲慢さを対抗させるしかない。ありとあらゆる行為が自己弁明を装った自作自演と化し、もはや敵は己れ自身!
こんなものに無防備で立ち向かえば、悲観論に陥るは必定。哲学は過去と未来の不幸を克服してくれるが、現在の不幸は哲学をいとも簡単に凌駕する。それでもなお... 自己否定に陥ってもなお... 愉快でいられるとすれば、真理の力は偉大となろう。箴言とは、自分自身をおちょくってもなお、愉快になれる境地を言うのかもしれん...
「人間の心をあばいて見せる箴言がこれほど物議をかもすのは、人々がその中で自分自身があばかれることを恐れるからである。」
では、気に入ったところを少しばかり拾ってみよう... すると、どうも捻くれたものばかりを選んでしまう。それも、おいらの精神が歪んでいる証であろう...
「人は自分について何も語らずにいるよりは、むしろ自分で自分の悪口を言うことを好む。」
1. 欠点の告白
「われわれが小さな欠点を告白するのは、大きな欠点は無いと信じさせるために過ぎない。」
「もしわれわれに全く欠点がなければ、他人のあらさがしをこれほど楽しむはずはあるまい。」
「もし自分に傲慢さが少しもなければ、他人の傲慢を責めはしないだろう。」
「われわれは実際に持っているのと正反対の欠点で自分に箔をつけようとする。気弱であれば、自分は頑固だと自慢するのである。」
「断じて媚は売らないと標榜するのも一種の媚である。」
2. 助言の良識
「およそ忠告ほど人が気前よく与えるものはない。」
「自分と同じ意見の人以外は、ほとんど誰のことも良識のある人とは思わない。」
「助言の求め方与え方ほど率直でないものはない。助言を求める側は、友の意見に神妙な敬意を抱いているように見えるが、実は相手に自分の意見を認めさせ、自分の行動の保証人にすることしか考えていない。そして助言する側は、自分に示された信頼に、熱のこもった無欲な真剣さで報いるが、実はほとんどの場合、与える助言の中に、自分自身の利益か名声しか求めていないのである。」
3. 正義と義務
「真実は、見せかけの真実が流す害に見合うだけの益を、世の中にもたらさない。」
「正義とは自分の所有するものを奪われるのではないかという強い危惧にほかならない。」
「あらゆる立場でどの人も、みんなにこう思われたいと思う通りに自分を見せようとして、顔や外見を粧っている。だから社会は見かけだけでしか成り立っていない。」
「生まれつきの残忍性は、自己愛が作るほど多くの残忍な人間は作らない。」
「人から受ける強制は、多くの場合、自分自身に加える強制よりも辛くない。」
「われわれは死すべき人間としてすべてを恐れ、あたかも不死であるかの如くすべてを欲する。」
「怠惰と臆病がわれわれを義務に繋ぎとめているだけなのに、もっぱらわれわれの道義心が義務遵奉の名誉を独り占めにする。」
「金に目もくれない人はかなりいるが、金の与え方を心得ている人はほとんどいない。」
「どれほど多くの人間が、罪のない人間の血と生命を食らって生きていることか。ある者は虎の如く常に獰猛かつ残忍に、ある者は獅子の如くいささか鷹揚らしき外見を保ちながら、ある者は熊の如く粗野で貪欲に、ある者は狼の如く強奪と非情に徹し、ある者は狐の如く奸智に生き瞞着を生業としてる!犬に類する人間もなんと多いことだろう!彼らは自分の種を滅亡させる。自分の飼い主の快楽のために狩りをする。...」
4. 美徳と嫉妬
「人が節度を美徳のひとつにまつりあげたのは、偉人の野心に歯止めをかけ、凡人の不運と無能を慰めるためである。」
「美徳の虚偽性を証明する箴言を、とかく正しく判断できないのは、あまりにも安易に自分の中の美徳は本物だと信じているからである。」
「凡人は、概して、自分の能力を超えることをすべて断罪する。」
「嫉妬はあらゆる不幸の中で最も辛く、しかもその元凶である人に最も気の毒がられない不幸である。」
「謙遜は、誉め言葉を固辞するように見えるが、実はもっと上手に誉めてもらいたいという欲望に過ぎない。」
「人はえてして少しも相手の邪魔にならないつもりでいる時に邪魔になる。」
「ティベリウスやネロの罪悪のほうがわれわれを悪徳から遠ざけ、最高の偉人の立派な手本は、それほどわれわれを美徳に近づけない、と言えるかもしれない。アレクサンドロスの武勇はなんと多くの空威張り屋を作ったことか!カエサルの栄光はなんと多くの祖国への謀反に口実を与えたか!ローマとスパルタはなんと多くの狂暴な徳を称えたか!ディオゲネスはなんと多くの図々しい哲学者を、キケロはお喋りを、ポンポニウス・アティクスは優柔な怠け者を、マリウスとスラは復讐魔を、ルクルスは道楽者を、アルキビアデスとアントニウスは放蕩者を、カトーは頑固者を、作り出したことだろう!これらの偉大な原型はすべて無数の劣悪な模型を産んだのである。美徳は悪徳の国境である。」
5. 幸福の法則
「われわれは、どちらかといえば、幸福になるためよりも幸福だと人に思わせるために、四苦八苦している。」
「幸福な人々はめったに自分の非を改めない。そして運が彼らの悪行を支えているに過ぎない時でも、きまって自分が正しいのだと信じている。」
「この世で最も仕合せな人は、僅かな物で満足できる人だから、その意味では、幸福にするために無限の富の集積が必要な王侯や野心家は、最もみじめな人たちである。」
「賢者を幸福にするにはほとんど何も要らないが、愚者を満足させることは何を以てしてもできない。ほとんどすべての人間がみじめなのはそのためである。」
「運も健康と同じように管理する必要がある。好調な時は充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、そしてよくよくの場合でない限り決して荒療治はしないことである。」
6. 老人病と虚栄術
「老人たる術を心得ている人はめったにいない。」
「年寄りは、悪い手本を示すことができなくなった腹いせに、良い教訓を垂れたがる。」
「本来の自然な顔をやめて成り上がった位や顕職の顔をなぞるだけでは飽き足りない人もいる。憧れている顕職や位の顔を、ひと足先に作っている人さえいる。なんと多くの大将が元帥に見られようと懸命になっていることか!なんと多くの法曹家が大法官の風を空しく練習し続けていることか!そしてなんと多くの町人女が公爵夫人の顔を作っていることか!」
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