これは、数学の本ではない。数学が主題でもない。数学者が、ものぐさな態度で綴る随筆集である。随筆には、それを寄せ集めると、一つの生態系のようなものが生じる。しかも、達人が書くと、一冊の哲学書を成す。尤も、数学は哲学である... というのがおいらの持論。やっぱり、これは数学の本やもしれん...
「少なくとも、難しくても楽しめることが、あってよい。たとえばファインマンの『物理学』、内容は高度だし、難しすぎてようわからんことが至るところにあるのに、全体としてなにやら楽しく読める。難しくってわからんのは、まあしゃあない。わからんでも面白く、苦労せずに楽しめる、せめて数学もそうなってほしい。」
太平洋戦争中からシラケっぱなし、イジケっぱなしの数学教授が物申す。シラケるのは、巷に正義の士がはびこるから。忠君愛国少年やら正義愛国青年やらが叱咤してくれば、シラケてでもないと身が持たない。それで、非国民呼ばわれ...
今の時代とて、集団的熱狂にうんざりする人は少なくない。冷めた批判精神こそが時代を切り開く原動力となってきたのも確か。天の邪鬼には、たまらん...
人生そのものは、深刻なもの。自殺を考えなくて済めば結構なことだが、考えたからといって異常でもあるまい。自殺は、たいてい些細なきっかけで阻止できる。まずは冷めた目で自己を見つめること。人は冷笑に救われることが多い。
人生には向上心が重要であることも確か。だが、それだけでは足りない。下を向いて学ぶことも必要だ。一つの方向にしか目が向いていないと、人生の視野も狭くなる。シラケたり、イジケたりするのも、その方法論というわけか。
人生ってやつは、道化になりきってこそ、その本質が見えてくるようである...
ちなみに、たいていの数学者は、計算が苦手だそうな。だから、計算をあまり必要としない抽象数学へ向かうのだとか。
QED... という決まり文句で納得する数学者も少ないそうな。定理の証明手続きと、それを自分のものにして納得するのとでは、まるで次元が違うという。
とはいえ、自分を納得させるために、こだわりの哲学を実践するのは、ことのほか難しい。やはり人間には、分かった気になることも必要だ。こだわりの呪縛から自らを解き放つために...
さて、著者は「森一刀斎」と号して、正義論、文化論、教育論、読書論、自殺論、大学論などをぶちまける。ちょいと気に入ったところを拾っておこう...
「その頃の教訓として、あらゆる暴力の中で、もっとも恐ろしいのが、正義の名のもとの暴力であったことだけは忘れない。不良少年の暴力よりは、教師の暴力の方が悪い。ヤクザの暴力よりは、警察の暴力の方が悪い。暴徒の暴力よりは軍隊の暴力の方が悪い。暴力には、正義よりは、血の臭いがふさわしい。血のけがれを正義の幻想で洗い流すことだけは許さない。これ、かつての弱虫ダメ人間からの告発。」
... 「ダメな人間のバラード」より
「いつか、ルネサンス期の大学について論じあっていて、医師に牧師に弁護士それに教師は詐欺師の仲間、と言っていたら、師と士はどう違うかというのに、師の方は欺されたい人間を欺す商売で、士の方は欺されたくない人間を欺す商売だ、という卓抜な学説が生まれた。いまは医師と弁護士と教師が代議士に出世する時代である。」
... 「文化のエコロジー」より
「怒りや嘆きより、人間にとって根源的なものは、むしろ笑いのはずだ。秩序とは、笑いによってだけ攻撃可能なのであって、人民の怒りなどといった代物が革命的帝国主義へ行きついた歴史を、あまりにも多く見てしまったではないか。当節、怒りの攻撃性が有効などと、きみはまだ信じているのか。」
... 「楽屋の思想」より
「大学へ入ってまず心得ねばならぬことは、教師の言うことを聞かないことである。もっともこれは古典的な逆説で、そう言っているのが当の大学教師なのだから世話がない。しかしながら、少しまともなことはたいてい、逆説によってしか語ることができないものでもあるのだ。『読書案内』なんてのもそうしたもので『大学生として読むべき本』なんてのがそもそも矛盾した概念で、『読むべき本』などを他人に教えてもらったりしないのが、大学生というものではないか。」
...「反読書案内」より
「あとで迷いをなくすには、先に迷っておくものだ。はじめに迷わずに進んで、最後の段階で迷いだすのが一番つまらん。」
... 「森一刀斎の受験道場」より
「専門というなら、最低の条件は自律だ。ライセンスなんかの問題ではない。医者の専門性は診断を自分ですることで、裁判官の専門性は判決を自分ですることだ。判断をまわりにお伺いをたてる教師に、専門性を言う資格はない。自分の判断で教育するのが、教師の専門性である。」
... 「教育養成大学を志望するきみたちに」より

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