2025-10-05

"数学にとって証明とはなにか" 瀬山士郎 著

おいらは数学の落ちこぼれ。その張本が、大学初等教育でいきなり出くわした ε-δ 論法だ!
本書の副題にも「ピタゴラスの定理からイプシロン・デルタ論法まで」とあり、この用語に引き寄せられる。怖いもの見たさか、ブルーバックスというのもあろう。それは一般向けの科学・理工学シリーズで、子供から大人まで楽しめるという趣向(酒肴)。学生時代、おいらはブルーバックス教の信者であった。やはり数学をやるのは楽しい。童心に返る思い...

「絵を描けなくても、名画を鑑賞することで、何が名画なのかを心の中に刻むことができる。作曲ができなくても、一流の音楽を鑑賞することで、音楽に対する感性が養われる...」

本書は、数学の肝である証明に焦点を当て、絵画や音楽のように鑑賞しようという趣向。基本となる論理構造に、演繹、帰納、仮説の三つを挙げ、論ずる技術に、数学的帰納法、背理法などを巡り、円周角不変の定理、ピタゴラスの定理、プトレマイオスの定理、デデキントの切断などを外観させてくれる。
そして、中間値の定理や区間縮小法の原理が登場すると、いよいよ ε-δ 論法が匂い立つ。

それは、論理学から、幾何学、解析学、代数学へと辿る巡礼の旅!
論理学の最も単純なやり方は三段論法、これを日常会話に持ち込めば、たちまち屁理屈屋に...
一方、幾何学の証明は純粋にワクワクさせてくれる。ちょいと補助線を加えるだけで物理構造を可視化し、新たな空間イメージが沸き立つ。
解析学は、微分積分学が発展した形で連続や無限の概念へと導く。無限を相手取れば、循環論法に陥るは必定。代数学でも無限が問題となるが、n 乗根の演算を相手取れば、別の世界へいざなう...

ところで、証明とはなんであろう...
本書には、「証明とは、だれもが正しいと認める事実から出発して、新しい事実へと論理をつないでいくこと。」とある。
だが、その用い方は人それぞれ。相手を説得する手段、自分自身を納得させる手段、議論を高尚せしめる手段、あるいは論争で相手を貶めたり、論理で武装して煙に巻く手段... と。
いずれにせよ、ある事実が正しいことを確認する手続き、とすることはできよう。有無を言わさず正しさを強要しちまうので、自由を心棒する者には威圧的ですらある。M にはたまらんが...
証明のプロセスを味わうことは文章の読解力にも寄与する。論理思考のやり方においても参考になり、一つの命題に対して証明法がいくつもあれば、それだけ思考法が広がる。

しかしながら、証明の最も難しいのは存在証明であろう...
解の存在、中間値の存在、極限の存在を求め、手続きが行き詰まれば、存在の否定を仮定して、それを否定するという形を模索する。こうした試行錯誤が懐疑心を焚き付け、自己の存在、魂の存在を問い、神の存在証明に挑む羽目に。
となれば、直感を信じて、そのまま受け入れる方が幸せやもしれん。パスカルのように。まぁ、神が存在する方に賭けたところで失うものはあるまい。
数学の記号操作が記述を厳密にするが、その意味するものとなると、様々な解釈を呼ぶ...

「数学記号はこの世界をよく知るために人が考え出した言葉の一つです。これほどうまく作られた人工言語はない、と言ってもいいかもしれません。言葉には意味があります。その意味を追いかけることが証明の本質的な部分だと私は考えます。」

ついでに、あの忌々しいヤツにも触れておこう...
ε-δ 論法なんて、ギリシア文字で表記するから大層なものに見えちまう。だが、意味することは単純だ。xy 座標系において、連続関数の x の範囲を狭めていくと、y の範囲も狭まり、その極限が解、あるいは近似値となる。なんて当たり前なことを。あとは ε が y に δ が x に相当するたけのこと。連続していれば、必ず二等分できる、と言っているのと同じレベル!
連続性が保証されるからこそ大小関係が成り立ち、適当なところで切断でき、中間値も得られる。おぼろげな対象へのアプローチは、大雑把な大小関係から始まり、徐々に目標を絞っていくという考え方は実に単純だ。こうしたアプローチが重要視されるのは、微分方程式の多くが解けないという背景がある。
言うなれば、連続性の世界における万能な論法というわけだ。しかし、物事は単純で純粋なものほど、証明するのが難しい。そして、落ちこぼれは、数学を暗記科目にしちまったとさ...

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