有閑階級とは、なんとも挑発的な用語だ。こっちときたら、貧乏暇なし!嫉み、妬みの類いは、ことのほか根深い。
アカデメイアやリュケイオンに学園が創設された時代、哲学のできる身分は生活にゆとりのある家柄であった。王族や貴族の時代、その階級に属すだけで社会的に威信をまとうことができた。21世紀の今、やはり裕福な家庭の方が教育費をかけられ、まったく羨ましい限り。それで賢くなれるかは知らんが...
資本主義社会では、金は天下の回りもの!なる言葉が大手を振る。巷には様々な所得形態に溢れ、生産の対価、卸売や流通の対価、取引手数料、不動産賃貸、広告収入、金利所得、配当金、年金、あるいは派生的な金融アルゴリズムに身を委ねるなど、ますます多様化が進む。不労所得という用語もあるが、労働の概念そのものが変化し、生産性と非生産性の境界も曖昧になっていく。直接的生産と間接的生産といった方が、当を得ているであろうか。経済の繁栄は、資本の循環こそ源泉。血液の流れのごとく。それで、浪費を正当化できるかは知らんが...
ソースティン・ヴェブレンは、「衒示的閑暇」や「衒示的消費」という用語を持ち出す。衒示的とは、顕示的、誇示的といった意味らしい。つまり、見せびらかしの閑暇や見栄っぱりな消費である。
自己顕示欲は、ことのほか手ごわい。資本家階級は生活のための労働を免れ、学問やスポーツやレジャーに御執心。哲学を論じ、宗教を論じ、政治を論じ、軍事を論じ、愛国心を旺盛にしていく。近代化とは、そうした時代であろうか。社会的な威信をまとうために高価な商品を買い漁り、物財や儀式に神聖なるものを求め、並外れた富の所有や浪費によって名声を得ようとする。
ヴェブレンは、こうした有閑階級に対して反感を匂わせながらも、近代社会の経済的要因の一つとしての意義を論じて魅せる。有閑階級は、所有の意識とも強く結びついてきたという。有閑階級と奴隷階級の始まりは、鶏が先か卵が先かの関係にも似たり。いずれにせよ、私有財産制は、人間が人間を所有するという意識に始まったとさ...
尚、小原敬士訳版(岩波文庫)を手に取る。
「閑暇が、名声の手段としていちはやく優越したことは、高貴な職業と下賤な職業との古代の区別にさかのぼることができる。閑暇が名誉あることであって、至上命令となったのは、ひとつには、それが下賤な労働からの免除を示すからである。高貴な階級と下賤な階級との古い社会分化は、りっぱな職業と下賤な職業との上下の差別にもとづく。」
初期の財産意識は、戦利品に見ることができるという。征服欲は領土に留まらず、文化を征服し、人間を征服する。ここに奴隷制の原点を見る想い。
戦争をやるのが男どもなら、征服地の女は戦利品扱い。やがて戦争に勝つことが集団社会の誇りとなり、優越主義や民族主義を旺盛にしていく。ここに帝国主義の原点を見る想い。
人口密度が高まり、掠奪集団が一つの固定した産業共同体に成長していくと、財産権を支配する権威が増大していく。
やがて法が整備され、力で財産を掠奪することも不可能となり、行儀作法や礼儀作法を重んじる上流階級は、確固たる地位へ押し上げられていく。有閑階級が概して保守的なのも道理である。そして、下流階級がそれに憧れ、模倣するようになる。
自尊心と呼ぶところの自己満足感が、人からの尊敬を集めることを基礎とするなら御の字!だが、知性も、理性も、世間体の対象というのが本音であろう。
哲学とは、暇人の学問か。閑暇を得て、ディオゲネス哲学にでも耽り、犬のように気ままに生きたいものだ。しかし現実は、集団社会に尻尾を振り、社会制度に縋りながら生きている。人間の集団依存症は、ことのほか手ごわい...
では、すべての人間が有閑階級に昇華すれば、平和な社会になるだろうか。労苦のすべてをロボットに委ねれば、誰もが有閑階級に身を置くことができるだろうか。
一方で、別の力学が働く。生産性の欲求という力が。クリエイティブな職業に就き、活動的に生きたいという人は大勢いる。社会のために役立ちたいと考える人も少なくない。こういう人々に尊敬の目が集まるのも事実。こうした意識に、本書は「制作本能」という用語を当てる。
自己の存在意義を求めるのは、いわば人間の本能。かくして、有閑階級が人間性を高めるのか、堕落させるのか。人間が人間を所有するという意識に問題があるとするなら、すべての人間を AI の前で奴隷化しちまえば、人類が夢見てきた真の平等社会が実現できるだろうか...
「かつておこなわれたあらゆる機械的な発明が、人間の日常の労働を軽減させたかどうかは、いまにいたるまで疑問である。」
... J. S. ミル

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