2016-03-20

"ヨーロッパ文化と日本文化" Luís Fróis 著

実は、「フロイス日本史」に手を出したいのだが、あまりにも大作!このあたりでお茶を濁してみよう...

イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、三十五年もの間、日本で布教活動をし、長崎で生涯を終えた。彼は、信長に謁見して保護を受け、秀吉の伴天連追放令に遭遇して「二十六聖人殉教」の記録を残す。本書は、フロイスが残した「日欧文化比較」の記録であり、その筆は、衣食住、宗教、武具、馬術、演劇など多方面に及ぶ。
西洋人が書いた最古の日本史では、他にもアビラ・ヒロンの「日本王国記」やジョアン・ロドリゲスの「日本教会史」といったものがある。なぜ彼らは、こうも極東の国に興味を持ったのだろうか?宗教的、精神的制圧を目指したのか?いずれ到来する植民地政策への布石か?それとも自民族の優越を知らしめたかったのか?通商的、政治的、宗教的目的があったのは確かであろう。
しかし、人間ってやつは、あまりにも異なる文化を目の当たりにすれば、自然に邪念が払われ、ひたすら興味を持つところがある。英語に、"topsy-turvydom" という言葉があると聞く。さかさま、あべこべ、あるいは混乱といった意味だそうな。幕末明治の頃、日本を訪れた西洋人は、よくこの言葉を使ったという。そもそも喋る言葉からしてさかさま。英語と日本語の文法では目的語と動詞の順番が逆、おまけに日本人は主語を曖昧にする。フロイスの記述にも、西洋人は明瞭な言葉を重んじ、日本人は曖昧な言葉を重んじるとある。四百年以上経った今日でも、意志がまったく正反対に伝わることがよくある。空気が読めない!と馬鹿にして村八分にする風習も、言語と深い関係がありそうだ。
また、感情表現でよく指摘されることがある。西洋人は素直に喜怒哀楽を顔に出すが、日本人は感情を殺して微笑すると。フロイスは、これを「偽りの微笑」と呼び、極めて中庸を得、思慮深いとしている。敵対する相手にすら礼節を重んじ、落ち着いた面持ちで厳粛に振る舞うことに、背筋が凍る思いであったのか。「短慮を特異な方法で抑える」と記しているが、無気味な魔術にでも映ったのか。敬語が複雑に発達すると、当たり障りのないよう間接的な表現が巧みに用いられる。自分で悟らせるように仕向け、それに気づかなければ、あんたが悪い!と言わんばかりに。どうせ気づかないとすれば、明瞭な言葉で指摘する方が合理的であるが、角が立つ!とはよく言われる。こうした感覚は伝統や慣習に根付いたものであって、日本人から見れば、やはりさかさまなのである。

とはいえ、このような古典に触れると、感覚が随分と西洋化していることに気づかされる。実際、昔の日本人が、こんなことを?ほんまかいな?と思わせる記述が随所に見られる。西洋人たちの言行に見慣れていけば、伝統や慣習を打ち破る力が徐々に蓄えられ、そこに合理性を感じれば、無意識に取り入れられる。人類の歴史は、文化の交流と融合から新たな価値観や世界観を構築してきた。ただし、それが真理へ向かっているのかは知らん。
また、異文化人の口から語られることにも意味がある。よく知りもしないくせに!と憤慨する人をよく見かけるが、当人が一番見えていないということは実に多い。しかしながら、人間ってやつは、感情の色メガネを通して物事を見る性癖を持っている。本書にも、いびつな見解が随所に見受けられる。まったく異質な言動は野蛮に見えるもので、日本人の側からも紅毛人や南蛮人と呼んだ。
本書が、安土桃山時代の社会風俗を明らかにする重要な史料であることは間違いあるまい。そして、現代の日本人を見つめなおす上でも、よい機会を与えてくれるだろう。
「彼らの習慣はわれわれの習慣ときわめてかけはなれ、異様で、縁遠いもので、このような文化の開けた、創造力の旺盛な、天賦の知性を備える人々の間に、こんな極端な対照があるとは信じられない。」

1. 容姿風貌と礼儀
西洋人と日本人の体格の違いは、マッカーサーと昭和天皇の会見写真が象徴的であろう。美人の感覚も、歌麿の浮世絵を眺めれば、現代感覚と随分違うことが見て取れる。フロイスは、西洋では大きな目を美しいとするが、日本ではそれを恐ろしいものと考えるとしている。
また、痘痕(あばた)は西洋人には珍しく、日本人には普通のことで、痘瘡で失明する人が多いという。逆に、西洋では瘰癧、結石、痛風、ペストが起こりやすいが、日本ではこの種の病は稀だという。食生活が違えば、病気の傾向も違ってくる。現在では食生活の西洋化が進み、体格も随分よくなった。糖尿病が増加したのも、栄養の摂り過ぎであろうか...
主君に対する礼儀については、西洋人は帽子をとることによって慇懃を示すが、日本人は靴を脱ぐことによって示すという。たとえ戸外であっても、主君の前では草履を脱ぐことが礼儀とされたと。
また、西洋では主君が座ると召使は立ったままでいるが、日本では召使も座るのが礼儀とされる。日本では、目上の人に対して頭の高さや向きが問題視され、現在でも、足を向けて寝られない!と言ったりする。

2. 女性の観念と自由
時代劇では、着物を洗濯する時、足で擦る場面を見かける。フロイスの目にも手を使わないことが滑稽に映ったようである。
さて、日本の女性は処女の純潔を、まったく重んじないという。フリーセックスの時代だったのだろうか?誰が貞操観念を広めたかは知らんが、キリシタンの信仰によって風俗矯正されたとでもいうのか?堕胎は普通で、二十回も堕ろした女性があるほどだとか。更に、生活苦で、嬰児の喉に足をのせて殺してしまうとか。この時代、堕胎や嬰児殺害が盛んだったようである。
また、上流階級の女性については識字率の高さに感服し、女性の自由については意外にも日本の方が解放的だとしている。西洋では夫の許可がないと妻は外出できないが、日本の妻は自由奔放に出かけるとか。抑圧された女性像は、後の江戸時代に形成されていったのだろうか?若い女性でも、混浴に平気に入ってくるような記述がある。映画「将軍 SHOGUN」では、浴場で西洋人に女性がお供する時、裸は見せても心を見せぬのが日本の女性、簡単に心を許してはならぬ、といった場面があり、したたかな女性像を想像してしまう。
化粧法については、西洋の女性は美しく整った眉毛を大事にするが、日本の女性は全部抜いてしまうという。現代感覚でも、おでこに眉毛を書いたり、お歯黒なんてものは気持ち悪く映る。ただ、化粧をするのが女性というのは、西洋も日本も同じ。女性という生き物には変身願望でもあるのか?いや、化け物願望か?どうりで、男性諸君は小悪魔にイチコロよ!
酒の飲み方については、西洋の女性が人前で葡萄酒を飲むことは失礼とされるが、日本の女性はごく普通に酔払うという。ちなみに、おいらの知人では、ほんの少しなら飲めます!と発言する女性で酒が弱かったためしがない。やはり、したたかさは女性の方が上手か...

3. 結婚観と財産分与
キリスト教的な観念では離婚を不名誉とされる。神の前で誓った二人だから、なおさらだ。日本ではそんなことで名誉を失うことはなく、再婚も容易いという。三行半の離縁状を書くのは夫の権利であった。しかし、世間体を気にする男性社会において体裁を人質にとれば、女性の方が強い立場という見方もできるかもしれない。その名残かは知らんが、現在では男の方が三行半を突きつけられた、なんてことを言う。実家に帰らせて頂きます!とは、まさにそれだ。慰謝料を支払うケースも、男性の方が圧倒的に多いようだし。
注目したいのは、夫婦間の財産についての記述である。西洋では夫婦で共有されるが、日本では別々に所有するという。「時には妻が夫に高利で貸付ける。」とまで書いている。鎌倉時代、武家の女性は婚姻の際、化粧料や装束料という名目で所領を与えられたそうな。死後は実家に返すのが通例だったらしい。その頃の夫婦間で財産を別にする慣習が残り、妻の持参田畑は粧田、持参金は敷金、敷銀、敷銭などと言われたそうである。
恋愛といい、財産といい、したたかさは女性の方が一枚も二枚も上手ということであろうか。男性社会などと浮かれている男どもを尻目に、実は、裏で糸を引いていたのは、どちらであったのか...

4. 坊主丸儲け
カトリックの立場から、坊主どもの腐敗堕落ぶりを指摘し、権力者と癒着し、世俗的な利権を求める様子が語られる。財産を私有化し、領主と結んで戦闘員になり、美食や贅沢品を漁り、淫逸に耽り、酒に溺れ、威厳を誇示するために金箔の扇を携行するなどの狂喜沙汰。キリスト教の修道士は医術を心得て、ゼウスへの愛から無料で治療を施すが、坊主らは民衆から金儲けをしているという。しかも権威たっぷりに。信長は、僧侶の堕落ぶりに呆れて、比叡山焼き討ちの暴挙に出たと言われる。
現在では、葬式仏教などと揶揄される。お祈りの価値もお布施の額で決まり、戒名料で死後の世界まで格付けされる。こうした下地は、この時代から受け継がれたものであろうか?
また、悪魔を崇めるような記述まである。「われわれはどんなことにも増して悪魔を嫌い憎んでいるが、坊主らは悪魔を尊敬し崇拝し、悪魔のために寺院を建て、多くの供物を捧げる...」とまで書いている。確かに、闇魔や天狗、風神、雷神など多くの怒りの神が祀られるのだけど。密教の寺院で本尊とされる五大尊明王、すなわち、不動、降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉などは、フロイスの目には悪魔の聖像にでも映ったか...

5. 食事と飲酒
西洋人はよく唾を吐き出すが、日本人はよく痰を呑み込むという。内のものを外に出さないのが礼儀。しかし、食事をする時は逆に音を出す。蕎麦やスープを啜る音を豪快に...
さて、西洋の食卓ではテーブルに料理が並べられるが、日本の食卓では畳の上に料理を置くので、お膳という概念がある。
西洋ではパンを手で触れるので、食事の前後で手を洗うが、日本では箸を使うので、手を洗う必要がないという。食事前に手を洗うのが西洋式とは、知らなんだ。日本の貴人夫婦は、一緒に食事をすることは稀で、食卓も別々だという。そして、西洋では片付けは従僕の仕事だが、日本では貴人自ら食卓を片付けるという。
味では、西洋では甘みが好まれ、日本では塩辛さが好まれるとか。特に、日本人は乳製品を嫌うとか。チーズ、バター、骨の髄などは臭いものとされると。確かに、ハンバーガーなどは匂うが、慣れちまったらどうってことはない。
話は脱線するが... マクドナルドが日本に進出してきた頃、ファーストフードの意味を解せず、水も出さないと愚痴る人がいた。日本の食堂では、まずお茶や水を出すのが当たり前。「お通し」の文化も、お節介なおもてなしと言えば、そうかもしれない。しかも代金に入っているし... おっと、話を戻そう。
西洋人は牛を食べるが、日本人は見事に犬を食べるという。まだ肉食の習慣がないと思っていたが、しかも犬???一方で、刺し身などの生魚を食べる習慣を外国人が驚くのは、現在も同じか。
歯を磨くタイミングも違うらしい。西洋では食事の後に磨くが、日本では朝に磨くのが普通だという。どちらが合理的かは一目瞭然。そういえば、朝起きたら顔を洗い、歯を磨く... と子供の頃に言われたものである。
食事中の談話がないことも指摘している。家族団欒という雰囲気も、西洋式なのだろうか?
また、西洋では招待客が礼を述べるが、日本では招待した方が礼を述べるという。訪問客が土産を持参して、つまらないものですが... と挨拶するのも奇妙に映るのだろう。お宅は目が高く、私が見立てたものなどつまらないものでしょうが... という謙遜の意味を込めているが、つまらんものなら、いらんよ!となるのも道理である。言葉ってやつは、受け取る側の気持ちで発するか、差し出す側の気持ちで発するかで、随分とニュアンスが違ってくる。
酒の飲み方にも違いを見せる。西洋では自分の欲する以上に飲まないが、日本ではしつこく勧め合うという。なので、泥酔したり、ゲロしたり... 飲み会に受け継がれる伝統であろうか。

6. 死生観と人命軽視
キリスト教的な観念では自殺が最も重い罪とされるが、日本では切腹が潔い美徳とされ、日本人は死刑執行人になることを誇りにするという。しかも、西洋人は人を殺すことは恐ろしく、牛や犬を殺すことは平気だが、日本人は動物を殺すのを見ると仰天し、人を殺すことは普通である... とまで書いている。下人から無礼を受ければ、斬捨御免!武家社会では、主人が下人を斬ることが認められた。夫が密通の妻妾や、その密夫を殺すことも。門塀を越え、無断で屋内に侵入した者を殺すことも。些細な盗みでも、事由のいかんを問わず殺される。
裁判制度の遅れも指摘している。西洋では、死刑執行の権限や司法権を持っていなければ、人を殺すことができない。そして、人殺しに及んでも正当な理由があれば命は助けられるという。日本には正当防衛という概念すらないというわけだが、んー...
また、剣の切れ具合を試す時でも風習の違いを見せる。西洋人は材木や動物で試すが、日本人は死体で試すという。試斬(ためしぎり)や据物切(すえものぎり)といった言葉を聞くが、当時は死罪人の屍体で試したそうな。江戸時代、将軍の佩刀を試みる時などに厳正な据物切の儀式が行われたという。辻斬ってのもあるが、これも試斬の類いか...

7. 児童教育
日本では、書から技術や知識を学ぶのではなく、全生涯をかけて文字を理解することに費やすと指摘している。まず子供は書くことから始め、後で読むことを習うという。西洋では、喋ることができても、書くことができないということをよく聞くが、日本では珍しい現象かもしれない。
一方で、子供の立居振舞に落ち着きがあり、優雅さを備えることを賞讃している。三歳で箸を使って、自分で食べる様子に感服している。西洋では、青年ですら口上ひとつ伝えられないのに、日本では十歳で、伝える判断と思慮において、五十歳にも見えると。その分、親からの寵愛と温情が薄く、快楽もなく育てられるという。態度を表に出さないことを美徳とする風習が、そう映るのか...

8. 馬術と交通
アラビア馬に比べて、日本の馬は矮小で見劣りするという。身体の体型に合っているとも言える。飼い慣らし方も随分と違うようだ。西洋では、走らせるのに馬の手綱を弛め、留めるのに締め付けるが、日本では、留めるのに弛め、走らせるのに締めるという。そして、西洋の馬は走っていてもピタリと止まるが、日本の馬はひどく暴れるという。西洋では一頭が他の一頭と並んで行くが、日本では一頭が他の馬に後からついていくと。飼い主に似るってか?
さて、街道の整備はわりと進み、左側通行が徹底されていたようである。左側通行の習慣は、刀の鞘がぶつからないようにするためという説があるが、欧米の多くで右側通行で、イギリスだけが左側通行なのは、どういうわけだ?
話は脱線するが.. むかーし、英国車ジャガーが日本で売れないのはなぜか?という調査報告を聞いたことがある。右ハンドルで日本に適合しやすいはずなのに。そして、左ハンドルにした途端に売れるようになったと。要するに、外車というステータスが欲しいのだ。合理性よりも虚栄心が強いのかは知らん... おっと、話を戻そう。
騎士がサーベルを持つ手も、武士の刀と理屈は同じはずである。人口の10%程度が左利きで、この割合は有史以来、一定だと聞く。心臓が左にあるというのも、脳の発達具合がそのような偏りを形成するのか?偏見を持つことの方が自然なのかもしれない。機械など、人間工学に基いて設計されるものすべてが、右利き用に設計されている。マウス、キーボード、電話機など。左利きの人は日常で苦労していると聞く。わざわざ右利きに矯正している人もいる。箸を持つ手など。その点、スポーツなど制約を受けない分野で、身体能力を存分に開放するようである。だから、左利きに天才的なアスリートが多いのだろうか?ちなみに、夜のクラブ活動には、両刀使いというツワモノがいるらしい...

9. 火事と火消し
家を焼き、財産を失えば、大きな悲しみを背負うのが普通であるが、日本人は極めて軽く過ごすという。表情を見せない習慣が、そう映るだけだろう。西洋では、水を持ってかけつけ、隣の家を破壊して被害を最小限に抑えるという。纏なんぞの旗印を振って、火の粉を振り払う様子は不合理に映ったことだろう。はしゃいでいるようにも見えるし、今の日本人にも分かりにくい。フロイスは「風が立ち去るように絶叫する」と記している。

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