2008-12-20

"不完全性定理" クルト・ゲーデル 著

おそらく、数学の本を岩波文庫で読むのは初めてだろう。こうした気まぐれも悪くない。本書は、冒頭から「不完全性定理」の翻訳から始まる。立ち読みしている時は、どう処理したものかと悩んだが、その後に続く解説はおもしろいので買うことにした。この翻訳文と解説がセットであることが、価値を高めていると言ってもいい。ちなみに、翻訳と解説は、林晋氏と八杉満利子氏。

不完全性定理といえば、数学というよりも哲学の香りがする。そうした感覚が、チューリング・モデルを推奨する純粋数学者たちにとっては気持ち悪いものに映るのだろう。アリストテレス以来、論理学は真か偽のどちらかを追求してきた。昔から数学は完全なのか?数学は絶対的真理でありうるのか?という哲学的論争がある。一つの問題を解決すれば、新たな問題が生じる。つまり、数学は常に不完全な状態にある。これは悲観論というより積極的に捉えるべきであろう。数学や論理学には、直観と形式の対立が常に見られる。いわば、主観と客観の対立である。両者は対立するほどのことではないのだが、しばしば研究者は些細な論理の違いを強調していがみ合う。これは、厳密性を追求するからこそ現れる態度であろう。方法論においても哲学的な相違が見られる。大別すると直観的なアプローチと形式的なアプローチである。人間味と無味乾燥の対立とでも言おうか。今日でも、科学者たちの中にプラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な宇宙現象も、その背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた執念である。直観と形式の融合あるいは合理化は、数学に留まらず、人間の永遠のテーマなのかもしれない。

ゲーデルは、なぜ不完全性定理のようなものの考え方をしたのだろうか?本書は、ヒルベルトの提唱したヒルベルト・プログラム、つまり、公理論と無矛盾性の証明に関する計画を振り返り、その考えに至った歴史背景を物語る。19世紀から20世紀初頭にかけて世界の数学界を牽引し、数学の方法論に方向付けをしたのが、ヒルベルト・プログラムである。国際数学者会議で発表された「ヒルベルトの23の問題」の中に、連続体仮説やリーマン予想などがある。このプログラムは、数学の絶対的な安定性と完全性を保証し、ヒルベルトのテーゼとして定着させようとした。ヒルベルトは、永遠に枯渇することのない数学を夢見ていたのだろうか?この時代の数学的論争は、ヒルベルトの形式主義、ラッセルの論理主義、ブラウワーの直観主義の三派の争いに単純化してしまいがちだが、実は複雑な様相を見せる。本書は、多くの論争の勝者であるヒルベルトの立場から描かれる。ヒルベルトは、非計算的数学という革命を起こし、集合論のパラドックスという危機と、それに伴う反革命を、数学的かつ政治的に捻じ伏せた。この論争のどの立場にも属さなかったゲーデルは、その勝者をも打ち破り、論争自体に終止符を打った。この論争には勝者も敗者もいない。どの論派も間違ってはおらず、数学は総合的視野が必要な段階まで到達したということであろう。ゲーデルの超数学的推論は、通常の数学とは異なる。ヒルベルト・プログラムの終焉が、ゲーデルの不完全性定理の幕開けとなった。だからと言って、ヒルベルトの功績を蔑むことにはならない。ヒルベルトこそが、数学論に論争を与え、不完全性定理を呼び込んだと言ってもいい。多くの数学者は集合論に安定性を求めていない。ましてや集合論が数学の本質とも考えていない。集合論は一つの便利な数学の道具である。
ところで、科学の進歩には、誰かが失敗するように運命付けられる。数学の進歩は多くの部分を形式化するかと思えば、また新たな問題を発見し、そこに哲学的論争が生まれる。数学と哲学の距離は離れては近づき、これを繰り返すかのように見える。不完全性定理は、人間が不完全であることを証明しているのかもしれない。

1. ヒルベルトの公理論
ヒルベルトの方法論は、有限算術化に無限算術化を融合した。つまり、算術に頼る数学から、計算しない数学へと世界観を変えたのである。例えば、ゴルダンの問題のように、アルゴリズムが複雑過ぎるものは当時は現実的に計算できない。ヒルベルトは、こうした複雑なアルゴリズム自体の存在意義を疑っていた節がある。複雑過ぎるアルゴリズムによる証明は、数学の本質を隠す可能性があることも事実だ。そこで、無限的方法や集合論といった、大胆で新しい概念と推論による方法を支持する。そして、カントールの集合論やリーマン面のように、哲学的恣意性に訴える。数学における存在の証明は三段階ある。第一にその存在だけを証明する。第二にどこに存在するかを証明する。第三に実際に計算する。ヒルベルトは、第二、第三の方法しかなかった代数学に、第一の段階を取り入れ、不変式論や整数論に革命を起こした。その世界観を、伝記作家コンスタンス・リードは、「ゴルディオスの結び目」の逸話に喩えたという。ちなみに、この逸話は、それを解く者がアジアの王になるという伝説があって、アレキサンダー大王はこれを剣で切断して解いたという話で、おいらの好きな逸話の一つである。数学を公理からの演繹で構築する方法は、ユークリッド時代からの古い手法である。かつて数学は、公理から論理推論だけで理論を積み重ねることで発展してきた。これに対してヒルベルトは、定理の論理的依存関係に目をつけ、概念の総合的視野として数学を眺める。注目点が、一つ一つの真理から、その相互依存関係に変わる。また、公理が無矛盾であるだけでなく、互いに独立であることを求める。この新公理論は、数学をシステムとして捉えている。ヒルベルトは超限数の公理系を定義する。これは、実数論の公理系が示す結合の公理、計算の公理、順序の公理、連続性の公理に類似している。この公理系で示される式と推論法則を、機械的に定義できれば形式化できると考える。現在では、チューリングの機械的定義を当り前のように使うが、当時は形式化するだけでも容易なことではない。ヒルベルトの定義には曖昧さも現れている。

2. コーシーの解析学
当時、解析学は、ニュートンやライプニッツなどによる無限級数を代数的に扱う手法を用いていた。そこに、コーシーは無限小の変量を与える。
「ある変量xが特定の定数aに限りなく近づく時、関数値f(x)とその定数bとの差はいくらでも小さくできる」
この定義が、真の意味で解析学に厳密性を与えるきっかけとなったという。コーシーは、連続関数は微分可能であるという事実を前提に証明しているが、実は、その事実は成立しない。極限への定義には曖昧さが残っていたのである。この極限の定義が厳密化され、解析学の証明を本当の意味で自律させたのは、カール・ワイエルシュトラスのε-δ論法である。この論法で示される極限の定義は、分かり難いので有名だ。おいらは、これのおかげで大学時代に数学とおさらばした。ただ、分かり難いから直観の入る余地が少ないとも言える。その検証も機械的となり、誤りを自律的に排除できる。この解析学の厳密性は、ヒルベルトのテーゼとなる。

3. カントールの集合論
カントールは、集合の要素の数を無限集合へと拡張した。その定理に、実数は自然数の数よりも大きいというのがある。彼は、数えるという動的行為を、1対1で対応付けるという静的条件に置き換えた。無限集合を数えることは無理でも、1対1の対応付けは可能である。彼は、実数と自然数の対応付けから背理法によって証明した。そして、集合の要素の個数を「濃度」と呼び、実数の濃度は自然数の濃度よりも大きいとした。カントールの発見で印象深いのは、平面上の点と直線上の点が同じ濃度であるという定理である。
ところで、無限に濃度が存在するならば、濃度の分割ってできるのだろうか?
「任意の無限集合は、それを元の全体と同じ個数を持つ二つの部分集合に分割できる」
無限を分割しても無限ではないのか?無限には宗教的意味合いを感じる。伝統的にヨーロッパの数学界から、無限を排除する動きがあったのもうなずける。カントールはこのタブーを打ち破った。カントールの無限集合の本質は超限数論にある。そこに無限への批判も起こる。クロネカーによる批判である。カントールの論文は、クロネカーの雑誌をはじめ、多くの雑誌から掲載を拒否されたという。これはクロネカーによる出版妨害であるという説もあるが、単に時代精神が受け入れなかったという説もある。無限集合を扱う数学では、「答えが存在する」という証明ができても、実際には計算できないことが多い。カントールは、数学界に哲学や神学は排除されるべきかといった問題を提起したようにも映る。

4. ラッセルのパラドックス
集合論と不完全性定理は密接な関係にある。その最大の関係は対角線論法であるという。
「任意の集合Xについて、Xの濃度よりも大きな濃度をもつ集合Yは必ず存在するか?」
これが成り立てば、集合の世界は無限に膨張を続ける。Xのべき集合、つまり、集合Xの部分集合をすべて集めた集合を考えると、そのべき集合の濃度は、集合Xの濃度よりも大きいことになる。ここで、自らを要素として含まない集合を考えるとパラドックスが現れる。そもそも集合とはそういうもので、全ての数の集合は数ではない。全ての犬の集合は犬ではない。しかし、通常ではありえない、それ自体を集合として含む集合がある。集合の集合はどうか?複数の集合を、集めて一つの集合とした場合、要素に集合が含まれる。この問題は自己言及に基づいている。ここで、集合Xについての条件Aは、「Xは、X自身の要素とならない集合である」とする。そして、「集合Xは要素ではない」と仮定すると、条件Aを満たすので、集合XはXの要素となり、仮定が崩れる。「集合Xは要素である」と仮定しても、条件Aを満たさず、集合XはXの要素とならないので、仮定が崩れる。この議論は、「この文章は偽である」という文章が正しいのかどうか?という問いに似ている。論理学のあらゆる矛盾は、こうした自己言及の罠に嵌る。自己言及は自己陶酔を招き自らをアル中にしてしまう。そして、アル中ハイマーが「俺は酔ってないぜ!」と主張するのも、あながち間違いとは言えないのだ。

5. 批判者ポアンカレ
ポアンカレは、数学は常に人間が介在するものであり、ヒルベルトのような意味では形式的には扱えないと考えた。彼のヒルベルト批判は、数学的帰納法が最大のポイントであるという。自然数の公理系には数学的帰納法が必要である。これがないと理論展開ができない。したがって、数学的帰納法を公理として追加する必要がある。ヒルベルトは、数学的帰納法を追加しても、無矛盾性の証明が可能であると主張する。しかし、ポアンカレは証明できるはずがないと主張する。帰納法は、出発点で検証し追加点でも検証できれば、全てが証明されたことになるという考え方である。よって、ヒルベルトが提唱した方法で説明するならば、帰納法で帰納法の無矛盾性を示すという循環論法に陥る。パラドックスを引き起こした集合論では、循環論法によって容易に矛盾が生じる。ポアンカレは、その解決策として、一般の無限概念は認めず、自然数の無限個までは認めたという。そして、カントールが考えた無限集合は数学では考えられないとした。つまり、数学的帰納法は、人類がぎりぎり使える無限の道具であり、これを数学的方法で正当化することは無意味であると主張したのである。

6. 不完全性定理
不完全性定理は難しい文章で表されるため、これをアル中ハイマーの理解力で記すことはできない。ただ、本書は、その意味を分かりやすく説明してくれる。
第一不完全性定理
「数学は、矛盾しているか不完全であるか、そのどちらかである。」
第ニ不完全性定理
「数学の正しさを確実な方法で保証することは不可能であり、それが正しいと信じるしかない。」

ゲーデルの定理の本質は、ラッセル・パラドックスの変装した姿であるという。なるほど、第一不完全性定理の基本的な仕組みは、このパラドックスの表現に似ている。不完全性定理は、もはや数学には解の得られない問題があると述べている。人文科学や社会科学の理論は、個人によって解釈が違い、その真偽を決める絶対的な方法は存在しないだろう。その一方で、数学の解釈が、他のいかなる分野よりも、安定しているのは事実である。その中で、この定理は数学でありながら人文学的な解釈があるところに難しさがある。一般的に不完全性定理は、人類の知の限界を示すものであるという見解がある。しかし、ゲーデルはそれを否定しているという。本書は、数学が完全であるかを問う前に、数学自体が何か?を議論する必要があると語る。数学論と、数学の形式系とは同一視してはならないということらしい。論理数学から見た数学観には、哲学の見地から見た数学を顕にする。物事が全て機械的に定義できるならば、コンピュータがすべて計算して判断できることになる。ヒルベルトのテーゼは、機械仕掛けの数学を数学論と同一視している点が問題であるという。ゲーデルは、数学論そのものに不完全性の存在を認め、ヒルベルトのテーゼを否定した。

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