2008-12-07

"ガリア戦記" ユリウス・カエサル 著

岩波文庫の歴史叙述はなるべく読みたいと思っている。それも時代によって廃れることがないからである。ただ、手を出すのに気が向かない大作も多い。例えば、昔からトゥキュディデスを読みたいと思っているが、いまだに果たせないでいる。本書で登場するゲルマーニアの考察には、タキトゥスに受け継がれるものを感じる。タキトゥスといえば、その代表作に「年代記」があるが、これも昔から目をつけている。いずれも、その大作を目の前にすれば尻込みしようというものだ。

ところで、歴史学の考察には、主観をいかに排除するかを問題にすることが多い。人間の思考は、主観に傾く傾向にあるので、客観に固執するぐらいでちょうど均衡がとれるのかもしれない。ただ、この考えに少々疑問を持つことがある。完全に主観を排除すれば、歴史学者の思考を放棄したことにならないだろうか?単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできない。歴史事象の原因は、深い思考の試みがなければ解明できないことも多い。一方、客観性に支配されると言われる科学の分野では、科学者が完全に主観を排除して思考しているわけではない。科学の進歩は天才たちの直観に頼ってきた面も多い。直観は極めて主観に近い領域にある。主観と客観の境界線も個人差があって微妙である。したがって、主観と客観の按配こそ、歴史学者の腕の見せ所であると考えている。主観も客観も人間の持つ本質であって、どちらからも逃れることはできないだろう。主観には精神の高まりを呼び起こし思考の深さを牽引する役割があり、客観には理性を研ぎ澄まし精神と知性の均衡を保つ役割があると考えている。アル中ハイマーは、主観と客観の両面を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。
歴史学の考察では、別の角度の論説を唱える歴史家もいる。クラウゼヴィッツはその著書「戦争論」の中で、批判的考察の有効性を説いている。単なる事象の指摘よりは、批判的な立場をとることで、もう一歩踏み込んだ思考に達するということだろうか。このあたりの詳細は、いずれこの大作を読み返してブログ記事にしたいと考えている。だが、その分厚さを目の前にすれば、またもや尻込みするのであった。

「ガリア戦記」は、紀元前58年から51年にかけて行われたローマ軍のガリア遠征を記したものである。8年に及ぶ征服の記録は一年毎に巻を改めて全8巻あるようだ。ただ、カエサルが記したとされるのは、第7巻までで第8巻はカエサルの死後ヒルティウスが書き加えたものとされている。歴史家によってはカエサルの自筆という説に異論を唱える人もいるようだが、傑作であることは間違いない。ガリアの遠征は、紀元前52年のアレシアの決戦でその目的を達成し、51年は匪賊討伐でおまけのような印象を与える。本書も多くの訳書の慣例にならって第7巻までが記される。そこには、戦記はもちろん、部族統治や、種族の風習といった文化的考察にも長けている様がうかがえる。それもカエサルの政治家としての手腕を示していると言えるだろう。また、歴史の回想録として感嘆させられるところも、モンテーニュから優れた歴史家と評される所以であろう。
カエサルは、ローマ軍の指揮官として、毎年元老院に詳細な報告書を送った。そして、元老院を熱狂させ、敵からも味方からも賞賛と尊敬を得たという。従う部族には、その忠実性を評価して、功績に対しての免税や、部族の掟と法を復活させたりする。その一方で、抵抗する部族には容赦しない。相手を野蛮人と呼びローマ軍の正義を強調する。部下たちもカエサルからの親愛を得たいと願って奮起する。そして、ガリア平定とゲルマーニア人との戦争へと向かっていく。本書は、カエサルが惨めな者や嘆願する者に慈悲深い人物であった事を描いている。これが自筆かどうかは別にしてもローマ側からの視点なので、ある程度差し引いて受け止めなければなるまい。

1. ローマとガリア
ローマとガリアの関係はカエサルよりも300年も前にさかのぼる。ガリー人の将ブレンヌスがローマを攻略したのは紀元前390年、その後もガリア人はたびたびローマを脅かした。紀元前3世紀になるとガリー人は、エトルスキー人やサムニテース人と結んで反ローマ同盟を結成する。これを最後にして、その後ガリー人が北伊を下ることはなかった。ハンニバルのローマ遠征を通じて北伊のガリー人は勢力回復を試みるが、紀元前2世紀には内部分裂を重ね、もはやローマに対抗する力がなかった。ローマは盟邦マシリア(マルセイユ)を援助して南ガリアへ侵入する。紀元前121年にはガリー人の連合軍を撃破して周辺を属国とした。こうして、カエサル以前からガリア遠征の下準備は整っていたのである。
ちょうどその頃、ガリアでは、レーヌス河(ライン河)を越えてゲルマーニア人の進出が度々見られるようになった。ガリアは東からのゲルマーニアと南からのローマの危機に直面していた。ガリー人の中で、その危機の打開運動が起こり、これがローマのガリア遠征への直接のきっかけとなる。カエサルにとって、ガリア遠征の勝利は英雄伝となり、ローマのすべてを支配することになる。

2. ガリア平定
ガリー人の中には、ゲルマーニア人の進出を恐れてローマに肩入れした部族もあれば、ゲルマーニア人に肩入れした部族もある。カエサルはどんな部族にも二つの党派が存在するのは必然であると語る。勝者が敗者に思いのまま命令するのは、当時の戦争の掟である。ローマも敗者に命令する。カエサルは、人質を差し出し年貢を納めれば、どんな種族にも不当な戦争をしかけず友邦と見なす。しかし、怠れば残虐行為が待っている。ゲルマーニア人は、法外な体格を持ち、信じられないほど勇気があり、戦争に鍛えていると、ガリー人や商人が伝える。しかし、カエサルはそんなものを恐れない。もともと、大柄なガリー人は小柄なローマ人を軽視する風潮があるという。ローマ軍が移動小屋を建て、牆壁を築き、遠くに塔が組み立てられるのを見ると、なんのためにそんな遠くで造るのかと、そんなに重い塔をこちらの防壁まで運べるわけがないと嘲笑したという。ところが、本当に動かし城壁に向かって近づくのを見ると、おじけづいて講和の使節を送る。カエサルは、破城槌が防壁に触れる前に降伏すれば、部族を存続させるが、武器を渡さなければ降伏を認められない。そして、圧倒的な近代武力の前に次々と武装解除させる。ガリー人は、地形と人工で固められた町が、ローマ軍の到着後わずか数日で落とされるのを見ておじけづく。ローマ軍の圧倒的勝利の評判は部族間に伝わる。そして、各地の部族から人質を差し出す使節がカエサルの下へ送られてくる。

3. ガリー人の分析
カリー人のほとんどが奴隷と見なされ、多くの人が借金と重税で有力者の乱暴に屈して隷属しているという。その中で尊敬される人間は二種類で、僧侶と騎士である。これは、カエサルにしてみれば服従させるのに問題があった人種でもある。僧侶は神聖で公私の犠牲を行い宗教を説く。公私のあらゆる論争や、犯罪や殺人、相続や国境をめぐる闘争が起こると、裁決して賠償や罰金を決める。個人でも部族でもその裁決に従わないと、最も重い罪となり社会的制裁を受ける。僧侶の中でも最も勢力を持つ一人がすべてを支配する。それは投票で選ばれ、時には武力で争う。僧侶は戦闘に加わらないのが普通で、税金も支払わない。その大きな特典に多くの人が憧れる。僧侶は、霊魂が不滅であることを説き、死後霊魂があちこちに現れることを教える。ガリアの部族は宗教に深く打ち込んでいて、重病人や戦争などで危険に身をさらすものには生贄を差し出す風習がある。人の生命を捧げなければ、不滅の神々はなだめられないと信じている。盗みや強奪などの罪で捕まった者の刑罰は、不滅の神々に喜ばれると思っている。しかし、そんな人間がいない時は、罪のないものまでも犠牲にする。夫は子供にも妻にも生死の権利を持つ。葬儀はガリー人の文化に比して仰々しい。生前に愛した動物を火にかける。そして、愛されていた奴隷や被護民も葬儀が済むと一緒に焼かれる。

4. ゲルマーニア人の分析
好戦的なゲルマーニア人との衝突は、レーヌス河の近辺で度々繰り返されカエサルを悩ませる。ゲルマーニア人の文化は、ローマやガリアとまったく風習が異なるという。神聖な仕事をする僧侶もなく犠牲にも関心がない。はっきりした形に見える太陽や火や月だけを神々とする。生活は狩猟と武事に励み、幼い頃から労働と困苦を求める。最も長く童貞を守ったものが絶賛され、童貞を守ることが身長も伸び、体力や神経が強くなると信じている。河で混浴し、獣皮や馴鹿の短衣を着ているので、身体の大部分は裸である。農耕にも関心がない。自分の土地や領地を持たない。首領や有力者は部族や血族に土地を割り当てるが、翌年には移動させる。その理由は、戦争する熱意を農耕にとって代わらないため、広い領地を得た有力者が下賤から財産を奪うといった心を抱かせないため、寒さ熱さをしのぐのに気を使って建築させないため、争いの元である金銭の欲望を起こさせないため、民衆が有力者と平等に扱われていることで満足させるため、という具合に分析している。自分の周囲を荒廃させて、国境を無人にして置くことは最大の名誉だという。これが、不意の侵入を防ぎ安全だと考えている。平和時には、首領はおらず、地方の有力者が裁判をし論争を静める。部族の領地外では強奪は不名誉にならない。むしろ青年を訓練し怠惰を抑えるために良いとしている。かつては、ガリー人がゲルマーニア人より武勇で優り、レーヌス河の向こうに植民した時もあったという。ゲルマーニア人は、不足と貧乏と忍耐の生活を続け、食料も衣服も変わらない。一方で、ガリー人は舶来品をおぼえ贅沢や便宜も多く与えられる。そして、幾度かの戦争に敗れ、次第に敗北に慣れ、武勇でゲルマーニア人と争おうともしなくなったと語る。

5. ゲルマーニア人との衝突
レーヌス河近郊に住む部族は、商人とも交流があり、ガリアの風習にもなれていた。カエサルはこうした部族とは友好を結んでいる。しかし、ゲルマーニアの各部族がところてん式に刺激されて、西方へ追い出されてくると、ガリー人との武力衝突が起こる。ローマ軍もゲルマーニア人と戦い、政治的解決も試みる。といっても人質を差し出すように要求するのだが、素直に従う部族もあれば、拒否する部族もある。カエサルはレーヌス河の渡河を決意する。船で渡るのは安全ではないので橋をかけることを検討する。河の幅と深さ、流れの速さで困難ではあるが、土木工事で奮闘する様も描かれる。橋が作られ始めると、逃走したり、人質を差し出す種族も現れる。そして、ある程度レーヌス河を越えてローマの栄誉と利益のために十分に貢献したと見るや橋を壊した。

0 コメント:

コメントを投稿