2012-08-12

"妻を帽子とまちがえた男" Oliver Sacks 著

自然科学者とちがって医者が問題にするのは、一個の生命体、すなわち、逆境のなかで自己のアイデンティティを守りぬこうとする個人としての人間である。...アイヴィ・マッケンジー

オリヴァー・サックスといえば、映画「レナードの朝」の原作者。本書は、脳神経科医サックス博士の不思議な臨床体験を綴ったエッセイ集で、妻の頭を帽子と間違えてかぼうろうとする音楽家、左という概念を失い顔の右側しか化粧できない老女、大統領演説の真意を見ぬいて大笑いする失語症患者、会話が覚えられず擬似物語を喋り続けるコルサコフ症候群の男、他人の真似ばかりして自分の人格を失ったトゥレット病患者、音楽癲癇によって懐かしい歌が聞こえ続ける老婦人、詩人の才能にあふれた純真な知的障害者...など24篇が収録される。
さて、臨床という概念がいつ始まったかは知らんが、医学の父ヒポクラテスには既に病歴という見方があったという。病気とは、幸せな結末か致命的な結末かのいずれかに終わるもので、病歴とは、まさに患者の物語となろう。生身の人間と向い合い、悩み、苦しみ、戦うからこそ、人間としての主体が見えてくる。それを綴ってこそ医者というわけか。
しかし、人間味あふれる臨床話を書く慣習は19世紀に頂点に達し、その後、神経科学の発達にともない衰えてきたという。実際、血液検査のデータを見、コンピュータと睨めっこしながら、診察するお医者さんを見かける。サックス博士は、患者との語りという原点回帰を試みる。あえて名づけるなら「アイデンティティの神経学」だそうな。そして、医者と患者は互いに対等で協力関係にあり、医者が患者を治してあげるという類いのものではないという。

精神病の根幹にあるのは、やはり自己存在との葛藤であろうか。病とうまく付き合って眠った潜在能力を引き出すケースが稀にあるにせよ、たいていの場合は自己を喪失するのであろう。無の境地を探求すれば、精神病との境界をさまようことになる。そもそも精神病を患わない人なんているのだろうか?いるかもしれない。精神がなければ精神病にもならずに済むだろう。
「病気こそは、人間の条件のうちの最たるものといえるだろう。なぜならば、動物でも疾病にはかかるけれど、病気におちいるのは人間だけなのだから」
一般的に、抽象化や分類化といった思考は高度なものと考えられている。大局を捉え人生の骨格を組み立てるためには役立つ思考で、学問を高みに登らせるためにも必然的な方法である。物事をできるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせれば、 なんとなく高尚なものを感じる。これが哲学の極意というものよ。一方で、抽象論がいったい何を解決してくれるというのか?という疑問がある。具体的な方策は、問題に直面した者自ら導くしかあるまい。
ここに登場する患者たちは、現実逃避あるいは現実を見失った結果、抽象的な精神空間に幽閉された人々である。現実世界を見失えば、自己や自我をどうやって確認すればいいのか?実体のない空間で理性的自我と本能的自我とが葛藤を続け、無関心病に陥り、究極のエゴに苛み、やがてキェルケゴール風の「静かなる絶望」が訪れる。いくら抽象論で思考を進化させたところで、結局は現実を生きるしかない。医学とは、安らぎとともに幻想から現実に引き戻す手助けをする術とすることができそうか。
しかし、精神病患者とは、現実世界を見失った人たちだけであろうか?政界や財界には、権力欲や物欲に狂い、現実主義に憑かれた人々がわんさと居る。喪失も問題だが、過剰なのも問題か。他人の欠陥を強調する行為は、自分を慰めているのだろうか?最も危険な病は自覚症状がないことかもしれない。そうなると、精神的に危険でない人はいないことになりそうだ。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!...とは、そういうことかもしれん。

この手の書を避けてきたところがあるが、いつの間にか抵抗感がなくなっている。我が家にも重度の知的障害者がいる。せめて言葉が分かるとありがたいと思うこともあるが、症状が軽いと逆に往生することもあると聞く。中途半端に物事が分かるだけに、運転免許をとりに行くと言い出したり、なぜ結婚できないのかと駄々をこねたり、あるいは危険な行為に及ぶこともあるそうな。うちの場合はおとなしいだけで、そんなこと考えたこともないし、本人にはそういう概念すらないだろう。ひとことで知的障害者と言っても、症状は多種多様で症候群などという病名で一括りにできるものではない。この点、心理学者よりも障害者施設などで働く現場の人たちの方が、はるかに心得ているように思える。障害者一人一人を主体と捉え個別に対処しているのには感心させられる。
知的障害者は自閉症になるケースが多い。コミュニケーション能力が欠けると、自分の殻に籠もりがちとなる。無理に矯正しようとすれば、癇癪を起こしたりと、障害の上に精神不安に追い込むことになる。幼稚な感じがするだけに子供扱いしてしまいがちだが、専門家からは年齢なりに人格を尊重しなければならないと指摘されたことがある。馬鹿にできない能力もある。ジグソーパズルを組み立てるのが速く、1000ピースでも簡単に完成させやがる。おいらは夜景が好きだから、そうした風景画に誘導すると、暗い色ばかりで難しいはずだが、一旦始めると執着心は半端でない。
また、カレンダーや電卓が好きで、数字を眺めると落ち着きを見せる。発声はできるが、言葉がまったく分からず、自己主張するという行為に馴れない。だが、施設で他人と接する機会が増えると、あー、うー、となんとか自己主張するようになり、表情も豊かになった。反応は極めて純真で、素直に笑い、素直に怒る。機嫌が悪い時にでる鼻歌は、いつも決まっていて分かりやすい。それだけに頭にくることもあるが、こちら側の思惑のくだらなさに気付かされることも多い。人間観察にこれほど貴重な存在はないだろう。本書にも、どちらが矯正されるべきか考えさせられる事例が紹介される。

1. 左脳と右脳
脳神経学は、脳の左半球のある部分が損傷することによって失語症が起こることに気づいたことから始まったという。当初、高度な能力はほとんど左半球で生じる現象だったので、右半球は原始的と言われ、右半球の研究はなおざりにされてきたという。実際、右半球の現象は内側からも外側からも分かりにくく、研究が難しいのだそうな。
今でも、左脳は論理的思考をつかさどり、右脳は感覚的思考をつかさどると言われる。議論をしていても、論理と感覚では前者の方が説得力があるし、論理的思考に優れた人は賢く映る。だが、芸術的才能は感覚的なものが強く、左脳と右脳で優劣関係があるのも疑問だ。サヴァン症候群では、左脳が損傷を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力が超人的に高められると聞く。左脳と右脳が連係するからこそ、うまいこと補完機能が働くのだろう。いくら優れた論理的知識を身につけたところで、やはり判断を誤る。結局、直観に頼って生きるしかないではないか。知識を知性に昇華させ、直感を直観に昇華させるには、理論と実践、論理と感覚、空想と現実、そして左脳と右脳を調和させることであろうか。

2. 六番目の感覚
五感は普通の人なら誰にでも認識できるだろうが、六番目の感覚となるとそうはいかない。それは第六感などではない。1890年、シェリントンが「人間にそなわるかくれた感覚」と呼んだものは、身体の可動部である筋肉、腱、関節から伝えられる連続的な感覚の流れのこと。彼は、これを外界感覚と内界感覚から区別するために「固有感覚」と名付けたそうな。身体の位置、緊張、動きは、この六番目の感覚によって絶えず感知され、無意識のうちに自動的に修正されるという。これは、自分が自分であるということ、すなわち自己のアイデンティティには欠かせない感覚だという。固有感覚があるからこそ、自己固有が認識できるというわけか。
ここでは、27歳の女性が突然この固有感覚を失った事例を紹介してくれる。起きても姿勢が保てず、顔は奇妙に無表情でたるんだ感じ、顎が垂れ下がり、口があいたまま。彼女は、身体がなくなった感じを訴える。リハビリをしているうちに、やがて固有感覚を視覚で補うことを覚えていく。鏡を見ながらポーズをとったり、姿勢の矯正などを意識的に訓練していくうちに、視覚反射が無意識に協調するようになる。感覚器官の麻痺を、別の感覚器官で代替するという人間の本能には、驚異的なものがある。ただ、見た目は身体障害者に見えないので、バスに乗る時のぎこちない動作に罵声を浴びたりする。自己存在との戦いを乗り越えても、社会との戦いが待っているとは...
また、身体感覚を失う事例で、心房細動で大きな塞栓が飛んだために、左半身不随になった患者を紹介してくれる。患者の話では、夜中に目をさますとベッドに並んで、死んだ、冷たい、毛深い足が一本いつもあるという。我慢できず右足で蹴飛ばすと、身体ごとベッドから落ちる。不随になった部分が、その存在すら認識できなくなるのだとか。これも、自己の一部を失った現象であろうか。
心頭滅却すれば火もまた涼し...と言うが、無念無想の境地に達すれば、六番目の感覚を自由に操り、どんな肉体的苦痛にも耐えられるのかは知らん。そして、本当に焼死するのか?

3. ファントム(幻影肢)
ファントムとは、身体の一部、通常四肢(両手両足)の一つがなくなったのに、何ヶ月もの間それが絶えず見える現象だという。幽霊のような怪しげで現実離れしているので、感覚的ゴーストとも言うらしい。危険なほど現実そっくりに見えたり、激痛をともなうこともあるという。身体イメージの障害というやつか。その要因は、中枢性要因と末梢性要因の二つが考えられるという。中枢性要因とは、感覚皮質、特に頭頂葉の感覚皮質が刺激されたり損なわれたりすること。末梢性要因とは、神経断端、断端神経腫、神経損傷、神経ブロック、神経の異常刺激、脊髄の感覚路や神経根の障害のこと。
映画「西部戦線異常なし」では、片足を切断した兵士が、失ったはずの足が酷く痛いと訴えるシーンがある。身体の実体が認識できなくなるのとは逆に、失ったはずの身体が幻想となってつきまとう場合もあるわけか。

4. 記憶喪失
記憶喪失に、ちょっぴり憧れるところがある。謎めいた過去に都合の良い夢を重ねるからであろう。実はすごい美女と結ばれ、大金持ちの御曹司ではないかと想像したり。そして、今の俺は俺じゃない!と心の中で叫ぶのだ。人間というものは、現実世界では悲観的でも、非現実世界では楽観的になれるのかもしれん。しかし、実際に記憶喪失になり、現実の過去が耐えられないほどの悪夢となれば、気が狂うかもしれない。実は身の毛もよだつ殺人者だとすれば、スーパーエゴによる自責に苛むことになろう。
ここでは、会話が数行しか覚えられないコルサコフ症候群の事例を紹介してくれる。記憶がなければ、自己の一貫性が保てない。いつも存在不安に苛まされ、陽気に振るまい、自己の物語を喋り続ける。だが、すぐに辻褄が合わなくなり、空想という名の蟻地獄へ落ちていく。記憶喪失とは、まさに自己喪失というわけか。

記憶をすこしでも失ってみたらわかるはずだ。記憶こそがわれわれの人生をつくりあげるものだということが。記憶というものがなかったら、人生はまったく存在しない...記憶があってはじめて、人格の統一が保てるのだし、われわれの理性、感情、行為もはじめて存在しうるのだ。記憶がなければ、われわれは無にひとしい...わたしが最後にたどり着くところ、それはいっさいの記憶の喪失だ。これによってわたしの全生涯が消し去られる。...ルイス・ブニュエル

5. 失語症患者と音感失認症の言葉を見抜く能力
感覚失語、あるいは全失語で言葉が理解できなくても、ほとんどの患者で話しかけらていることは分かるという。発話は、単語のみで成り立つのではなく、主題や内容だけで成り立つわけでもない。発話には、その人の存在を意味し、言葉を凌ぐ力をもった表情がつくという。
失語症患者は、表情、しぐさ、態度にあらわれる嘘や不自然さにとても敏感だという。盲目な失語症患者は、声の調子、リズム、拍子、音楽性、微妙な抑揚、音調の変化、イントネーションなどを聞き分けるのだそうな。
そこで、失語症病棟からどっと笑い声がするエピソードを紹介してくれる。元俳優の大統領のテレビ演説を見ながら。芝居がかった仕草、オーバーなジェスチャーに不自然な調子、患者たちには言葉の偽りがお笑い番組にでも見えるのか。なるほど、近年バラエティー番組に政治家どもが多く出演するようになったのも、やはりお笑いか。
では逆に、言葉は理解できるが、音感失認症ではどうだろうか?音感失認症は右側頭葉の障害によって起こり、声から喜怒哀楽や表情が読み取れないという。そこで、音感失認症だが、言語能力の高い英語教師の女性は、同じ大統領演説をこう評したという。文章がまるでダメ、言葉づかいが不適当、頭がおかしくなったか隠し事があるかだろうと。
失語症患者も音感失認症患者も自分の障害を自覚しているだけに、注意深く演説を読み取ろうとする。発話にはフィーリングトーン、情感的調子というものがあり、言葉にも人格が現れるらしい。そうなると、正常だと思っている人ほど微妙な言葉の表情が読み取れず、欺瞞されやすいということか?有識者と自称する者ほど、言葉が見えていないということか?そうかもしれん。

6. 知的障害者の純真さ
詩人的才能にあふれた少女の言葉は感動もの。いつも側にいた祖母が死ぬと彼女は泣く。だが、泣いているのは祖母のためではなく、自分のためだと語る。
「おばあさんは私の一部だった。私のなかのどこかが、おばあさんといっしょに死んでしまったの...いまは冬で、私は死んだような気がするけど、きっとまた春はめぐってくるわ」
祖母が死んだ後、少女は断固とした態度をとるようになったという。授業を拒み、作業も拒む。守ってくれた祖母を失ったことで、自立心が高まったのだろうか?
「なんの役にも立ちません。あんなことやったって、人間としての統一は生まれません...私は、生きている絨毯のようなものです。絨毯にあるような模様、デザインが必要なのです。デザインがなければバラバラで、それっきりです。...意味のあることが必要なんです...」
見事な比喩で真理をついている。デザインのない絨毯が存在するだろうか?逆に絨毯がなく、デザインだけで存在しうるだろうか?少女は、自分の能力という現実を頼りに生きるしかないことを知っている。不器用であらゆる能力が劣っていても、穏やかで成熟した感情をもち、充実した生き方を知っている。人生を楽しむということを具体的に知っているのは、彼女らの方かもしれん。

7. 超人的な計算能力
超人的な計算能力を持つ双子の診断は、自閉症、精神病、重度の精神遅滞など様々。双子は、何万年前でも何万年未来でも日付を言えば、瞬時に曜日が当てられる。また、300桁の数字がやすやすと記憶できる。数字を視覚的に捉える能力があるらしい。しかし、初歩的な計算はできない。掛け算とわり算の意味も分からない。マッチ箱を落として中身が散乱すると、二人は瞬時に111と答えた。それから37と。数えてみると、マッチが111本あったという。双子は、111という数字が見えると答えたそうな。37は何か?37 + 37 + 37 = 111、なんと素数で分解してやがる。
カレンダー計算の方はモジュロ計算(mod 7)で算出できる。理屈は単純な巡回計算だけど、それで説明がつくのか?素数の方はどうか?双子は素数を言い合って遊び、12桁の素数でも5分ほどで答え、一時間で20桁の素数まで達した。「エラトステネスの篩」なんてアルゴリズムを知っているわけでもなかろう。幾何学の合同の概念を使っているのではないか?という推測もある。数字が見えるとは、図形が見えるということか?純真な心の持ち主にしか見えない数字の風景というものがあるのだろうか?ダニエル・タメット氏のように。
確かに、ユークリッドの「原論」には無理数を幾何学で表現する苦悩が見られる。万物は数である!というのは真理かもしれない。いや、人間の脳は複雑な電磁波に支配される量子で構築される。双子の脳は量子コンピュータとして働いているのか?
しかし、精神異常を矯正しようとして失敗する。双子は合言葉のように数字で会話するが、それが原因だとして引き離される。そして、超人的な能力までも失われ、凡庸以下の能力にされてしまう。幸せの押し売りほど恐ろしい虐待はないのかもしれん。

0 コメント:

コメントを投稿