2016-05-01

"音と文明 音の環境学ことはじめ" 大橋力 著

音の環境といえば、マリー・シェーファーが提唱した概念「サウンドスケープ」を思い浮かべる。それは、視覚の景観(Landsacpe)に対比して、聴覚の景観(Soundscape)を当てた語で、音の風景といった意味。この概念の元となったのが、ジョン・ケージの作品「4分33秒」だそうな。そう、無音に音楽性を追求した、あの実験だ。演奏者はピアノを前にして、4分33秒間なにもせず退場する。ケージの企ては、不審に思った聴衆が発するざわめきや抗議などの雑音を、聴衆自身に音空間として聴かせようというもの。音楽にあらざれば音にあらず!と言わんばかりの常識を覆そうとしたわけだ。究極の偶然性から生じる音環境、とでも言おうか。なぜ、4分33秒なのか?すなわち、273秒に絶対零度が暗示されるとの説もあるが、真相は知らない...

音の環境学は、明確な音楽や音声だけでなく、雑音や騒音も差別なく研究対象とする。いや、むしろ環境雑音からのアプローチと言うべきか。形の上では音楽に見えても、音楽として作用しない人工物があれば、音楽に見えなくても、音楽として作用する天然物がある。幾何学は、二等辺三角形や長方形など純粋な図形の研究から始まったが、自然界は、綺麗に整った直角や直線ではなく、微妙な角度や曲線に支配されている。音環境もまた整然とした音楽だけでなく、雑音の方にも真理が隠されているかもしれない。
こうした観点に立脚するのは、人間社会に人工音があまりにも溢れていることへの反発でもあろう。街には BGM が溢れ、互いに喧嘩してやがる。都会で生活するためには、多くの雑音が脳に届かぬよう鈍感さを養う必要がある。狭い音域に慣らされれば了見までも狭くなるのか、耳の寛容さを失い、本来、雑音でないものまで雑音と感じるようになる。
注目したいのは、「必須音」という概念を持ち出している点である。物質の世界にビタミンのような必須栄養素があるように、音の世界にも生きるために欠かせない音素があるというわけだ。人間ってやつは、沈黙に耐えられない存在のようである。だから、神の沈黙に焦がれるのだろうか...
尚、著者大橋力は科学者でありながら、山城祥二という音楽家としての顔を持ち、芸能山城組から発表された「輪廻交響楽」の作曲エピソードも紹介してくれる。

ところで、音楽とはなんであろう...
ライプニッツは「音楽とは魂が自ら教えることを知らずに行う算術の実践。」と語ったとか。ルソーは「音楽とは耳に快いやり方で音を組み立てる技。」と定義したとか。そして、音の環境学から導かれた帰結を、こう語ってくれる。
「音楽とは、マクロな時間領域では遺伝子と文化によりコード化された特異的に持続する情報構造をとり、ミクロな時間領域では連続して変容する非定常な情報構造をとり、脳の聴覚系および報酬系を活性化する効果をもった人工的な音のシステムである。」
ちと「人工的」という言葉がひっかかるものの、孔子風に言えば... 人の心を開くものが楽で、そうでないものがただの音... ということになろうか。

芸術音楽が作曲によって支えられるとすれば、作曲家の意図を忠実に再現する仕掛けが必要となる。楽譜ってやつだ。それは、ある種の言語記号によって表記される情報伝達機構である。古代ギリシアでピュタゴラス音律が、古代中国で三分損益法が発明されて以来、音楽は論理的操作によって組み立てられてきた。言語記号というからには極めて離散的で、デジタル情報に幽閉された世界ということになる。だからこそ、シャノンの通信モデルが輝きを放つ。その陰で、絶対音感の持ち主は十二平均律の呪いという暗示にかかる。
しかしながら、人間の精神ってやつは、離散空間に幽閉されることを拒むように見える。実際、同じ楽譜を用いても、演奏者によって奏でるものが違えば、その日の演奏者の気分によっても違い、音楽には無限の再現性が秘められている。楽譜では表せない音楽がある... とでも言おうか。
デジタル信号の優位は正確な復元性と再現性にあり、アナログ信号の優位は周波数区分における無限性と柔軟性にあり、どちらが人工的で、どちらが自然的かは自ずと見えてくる。デジタル化は現実世界の近似に過ぎないということが。
とはいえ、デジタルの合理性が、アナログ感覚を覚醒させることがある。CDが登場した時代、アナログレコードの方が音色が優しい、などと感想をもらすと馬鹿にされたものだ。そして今、可聴域をはるかに凌駕するハイレゾ音源が巷を騒がしている。デジタル信号の性能は時代の技術に依存し、さらに近似の分解能を高めながら、より現実世界に近づこうとする。その過程で人間精神はいつも、合理性と感覚性、言語性と非言語性、客観性と主観性といった振り子の中で揺れ動く。これらの対照性が、相乗効果として機能すれば進化し、相殺すれば退化する。これが進化論の掟であろうか。ただ、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する。人間とは、永遠に現実が見えない存在ということか...

1. 視覚系と聴覚系
視覚系が、見たまんま!という正確性があるのに対して、聴覚系は想像豊かな感覚性を研ぎ澄ます。指向性においても、視覚系が視野に限定されるのに対して、聴覚系は上下左右、360度のパノラマが広がり、生物学的に身の回りの空間感知能力、すなわち危険探知能力で優れている。伝播距離では音波は光波に劣るものの、クジラやイルカは地球の裏側まで音波で交信するとも言われる。
視覚系が、主体性や自己決定性が強い傾向にあることは、目を閉じるという行為である程度説明できるだろう。一方、聴覚系は、分析的で、受動的で、睡眠中といえどもレーダーのようにモニタし続ける。それだけに無意識性が強く、耳鳴りがしたり、幻聴が聴こえたりと精神状態を映し出しやすい。神経科医オリバー・サックスは、著作「音楽嗜好症」の中で脳神経障害における音楽の役割を情熱的に語っていた。環境をあるがままにモニタするという点においては、五感の中で聴覚は優れた装備と言えるだろう。ただし、睡眠学習ってやつが、どれほど効果があるのかは知らん...

2. 自己組織ノイズキャンセラー
人体は、空気よりも弾性波をよく伝えるという。医師が聴診器をあてたり、胸に手をあてて叩く仕草は、気休めぐらいにしか見えないが、体内で起こっている相当な情報量が得られると聞く。実際、体内には呼吸、鼓動、血流など内分泌系や神経系に凄まじい音や振動が溢れている。これらの反響音は、なぜか耳から聴こえてこない。身体全体が聴覚に対して、巧妙に相殺されたエコーキャンセラーやノイズキャンセラーとして機能しているということか。聴覚系には、SN比を高める能力があるらしい。
ただ、体調を崩したり、緊張が高まったりすると、奇妙な沈黙の中から鼓動や血流の音が聞こえてくる。体内で起こっている異常に対しては、何か聴こえてくるものらしい。都合のよいものばかり聞こえる耳という装備も馬鹿にはできん。健康体とは、外部音に惑わされやすい状態ということか...
さて、ノイズキャンセラーのアルゴリズムには、自己矛盾性を抱えている。まず、何をノイズと判断するか?例えば、映像信号の制御では、極度に連続性から逸脱した成分を検出したり、また、その検出結果を増幅して、それ自体をフィルタ特性としてフィードバックをかけてノイズを除去したり... むかーし、そんな DSP を設計していたのを思い出す。音声信号の制御においても、似たような発想が必要であろう。自分の声を録音して聞くと、体内から聴こえる声とまったく違うことに気づく。音楽演奏の時、自分自身が奏でる音や声の状態を演奏と同時並行して認識し、精密に制御することがいかに困難であるか。そのために、フォールドバック用スピーカやモニタ用ヘッドホンなどの機器が重宝される。音に限らず環境分析で、その環境下にある観測者自身の認識能力を含めた観測が必要となるのは、自明であろう。

3. 言語脳と非言語脳
言語機能は、生物界における比類なき思考と伝達の装置であり、偉大な文明の源泉である。おかげで、論理的、科学的、客観的思考を発達させ、精神を迷信や妄想から解放させてきた。だが、さらなる自由を求めようとすると、言語機能だけでは不十分だ。古典的な考えでは、左脳を優位脳、右脳を劣位脳と区別し、現在でも言語機能は左脳が司るとするのが常識とされる。そう単純ではあるまいが...
自分自身に何かを問いかければ、左脳の声は言語としてはっきりと捉えられても、右脳の声は聞こえにくい。表面上、人体は左右対称性を保っているかに見えるが、心臓や胃などの臓器の配置、あるいは右利きや左利きなど、内面では対称性が保たれない。なぜ、このような偏りが生じるのだろうか?
物理学には「対称性の破れ」という概念がある。安定したゆらぎの系が、ある臨界点において方向性を決定するというものだ。ある臓器が進化して大きくなると、他の臓器が左か右に押しやられる。脳内においても、ある日突然、連続した音から記号性のような存在を感じ、離散情報として認識できるようになったのだろうか?あるいは、言葉を編み出したのは、脳内の沈黙に飽き飽きした結果であろうか?心臓が右にある人がいれば、言語機能が右脳に発達する人もいる。こうした均衡の破れは、おそらく進化の過程では必然なのだろう。そこに、なんらかの意志が関与しているのかは知らん...
そして、脳の情報処理能力が感覚的な思考から解放され、論理的に、抽象的に思考することができるようになった。英語耳をつくるという発想も、英語の発する周波数帯を言語として認識しようという試みである。
一方、言語脳を発達させると同時に、非言語脳も独特の発達を続ける。感覚性は極めて主観的な領域にあり、直観や直感を研ぎ澄ます。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、もともとある感覚性の能力をより高度に発達させるために、論理性を獲得する必要があったのかもしれない。人間とは、主観と客観の双方を研ぎ澄ますことで、合理性を獲得しようとする存在と言えよう。思考原理が偏っているからこそ、脳内で調和という安住の地を求める。アリストテレスは語った... 狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない... と。
現代社会では、あらゆる価値が経済的に評価され、言語にも経済性というものが確実にある。人々は端的で分かりやすい言葉に群がり、自ら思考することを放棄させる。音の環境学とは、言語脳をもてはやす現代風潮に対して、非言語脳を存分に解放し、文明の病理から救い出そうという試みであったか...

4. ハイパーソニック・エフェクト
周波数解析で有効な数学の道具に、フーリエ変換やウェーブレット変換があるが、環境音のような多元的で多重的で連続的に変化する波形構造を分析するには、あまりうまくいかないらしい。そもそも自然界に「ドレミ」なんぞの概念はなく、十二平均律のような周波数比で分割した音律は人間の都合に過ぎない。
そこで、「MEスペクトルアレイ法」なるものを開発したという。音高、音価、音強、音色の属性について可視化する道具だとか。さらに、脳波(α波、β波、θ波)の生理実験と照合したデータを紹介してくれる。MRI(核磁気共鳴画像法)やPET(陽電子放射断層法)を用いて、脳の各部分における血流量を断層画像化し、脳内の神経活動の度合いを調べる、といったことを。β波は認知活動にともない増大するとされ、無意識との境界を探るのに有効なようである。神経活性物質βエンドルフィン、ドーパミン、ノルアドレナリンなどを指標として。
トランス状態に陥れば、日常ではありえない快感パターンに移行し、特に演奏者に顕著に現れるという。それは音に限らず、仕事などで周囲の音が耳に入らないほど集中した時、しばしば快感として訪れるのと似たような現象であろうか。集団に依存する人間は、世間や風潮に洗脳されている存在であることに変わりはない。無意識とは、可聴域外の、もっと言えば、知覚圏外の能力ということか。精神空間がユークリッド空間にあるかは知らんが、視覚系で説明できるようなものではなく、はるかに多元的なもののような気がする。次元的には音空間は精神空間と相性がいいのかもしれない。「ハイパーソニック・エフェクト」とは、異次元空間に耳を澄ました結果生じる生理現象のようなものであろうか...

5. 遺伝子に書かれた必須音
本書は、ホモ・サピエンスとして最も素朴な普遍性の高い環境音を、アフリカのムブティ人が生きる森林生態系や、モンスーン・アジアに広くみられる生態系に求めている。
現代社会は、聴覚だけでなく、視覚においても、夜が明るすぎるという問題がある。現代人は、暗闇での視力を思いっきり低下させてきた。真の暗闇を知らないから、仮想的な暗闇を求めるのだろうか。真の無音を知らないから、幻想的な無音無意識をさまようのだろうか...
都会の生活では、騒音レベルに目くじらを立てる。一般的な騒音計は、可聴域 20Hz から 20kHz の中で、63Hz から 8kHz まで(精密用で 16kHz)しか対象にしていない。騒音レベルでは、50dB から 60dB あたりを指標とする。IEC(国際電気基準会議)の基準では。
しかし、本書が提唱する「必須音」のレベルは、可聴域上限をはるかに超えた 100kHz 前後、理論的には 130kHz から 150kHz としている。しかも、常にスペクトルの形が変容を続ける非定常なゆらぎに満ちた熱帯雨林型の「ハイパーソニック・サウンド」でなければならないという。音圧レベルにおいても、50dBA から 70dBA ぐらいが良いと。
日常では、ちとうるさいレベルだが、自然音ならば、むしろ心地よい。ヘリコプターや自動車の暴走音に腹が立っても、木々のざわめき、小川のせせらぎ、滝の音、風の吹き抜け音、鳥のさえずり、秋虫の声には腹も立たない。尚、真夏のくそ暑い日に、朝っぱらからアブラゼミの集団が合唱をはじめやがるのには、鬱陶しくてかなわんが...
同じくらいうるさくても、自然音に無音のようなものを感じるのは、音環境と自分自身の身体が同化しているということであろうか。体内音が気にならないのと同じように。あるいは、そこに安らぎを感じるのは、ある種の音楽のように感じているのだろうか。
「ムブティ人たちの対話や音楽は、森の自然環境音と一体化して、天然物のような精緻さと天国的な美しさの横溢したひびきを聴かせてくれる。」
会話にも、音環境に同化した言語現象がある。詩や歌に、それとなく心地よいリズムや音調を感じ取り、それが名言として伝えられる。同じ言葉でも、静寂に知的に語ればなんとなく凄いことを言っているように聞こえるし、喋り方で人間性が判断されることもしばしば。意見や説得でも、心地よい声調で語られると、素直に聞き入れたりする。
したがって、ベッドではピロートークが絶対に欠かせない。ちなみに、ウッドロー・ワイヤットはこう言った... 男は目で恋に落ち、女は耳で恋に落ちる... と。

6. LP - CD 論争と輪廻交響楽
本書に「ハイレゾ」という用語は見当たらないが、PCM方式に対するDSD方式について言及される。AD変換手法の∑⊿方式を換骨奪胎して、性能向上と信号処理手続きの簡素化を両立させた技術だという。復号化には簡素なローパスフィルタでも実現できるエレガントな方式で、マルチビット方式の宿命である量子化情報の切り捨ても少ないと。
少し補足すると... DSD方式は、PCM方式の量子化ビット数を増やす方向とは逆に、素直に 1bit のままでサンプリング周波数の方を上げる。パラレル転送に対して、シリアル転送といったイメージであるが、そう単純ではない。設計上、PCM方式では、ビット数が増えるほど高周波成分の量子化ノイズが大きくなり、この特性から生じる信号の歪みは避けられない。
しかしながら、密度の切り捨てが、合理的な場合と非合理的な場合があろう。音源が忠実に再現されたとしても、鑑賞者の心が歪んでいれば、音源もまた歪んでいる方が心地よいかもしれない。実際、純粋な音よりも擬似的な音を好む場合がある。サラウンドやサウンドエフェクトといったシステムは、楽器の奏でる純粋な音よりも、空間に広がる擬似的な迫力を満喫しようというものである。
さて、LP と CD との音質差に重大な関連があることは、広く知られている。LP には、可聴領域の上限をはるかに超える高周波成分が含まれている。JVC が開発した「CD-4」という LP をメディアとした4チャンネル・サラウンド記録方式があるという。30kHz をキャリアとし、プラスマイナス 15kHz の帯域で、周波数変調方式によるマトリック信号を記録しておき、再生時には可聴域に記録された2チャンネルのステレオ信号とマトリックス信号との演算によって、4チャンネル分のサラウンド信号を復元する、というものだとか。
これを実現するために、可聴域上限をはるかに上回る 45kHz 以上の高周波数域にまで優れた記録、再生性能が求められる。「輪廻交響楽」も、こうした技術で誕生したものらしいが、CDで販売されていれば、その効果も薄れそうだ。CD のサンプリング周波数は、44.1kHz を採用し、理論的に 22kHz 以上をカットするのだから。そして、LP - CD 論争をこう振り返っている。
「LP支持派は非言語脳の活性が優位な魂をもつ人びと、CD支持派は言語脳の活性に支配された近代的精神をもつ人びとが大勢を占めていたといえよう。」

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