ナンダ朝を倒し、マウリア朝を建国したチャンドラグプタ大王。彼には、カウティリヤという名宰相がおったそうな。ちょうど中国でいうところの諸葛亮のような知謀家が...
カウティリヤの書として伝えられる大著「アルタシャーストラ(Kauṭilīya-Arthaśāstra)」は、サンスクリット語で「実利の学」という意味。それは、紀元前四世紀のものとされる。ただ、後世に改版を重ねてきたという説もあり、その成立時期については未だ論争が続いているようである。
実際、本書には、学匠や偉人たち、あるいは、従来の諸説に対して、「それは正しくない、とカウティリヤは言う...」 という反論のフレーズがちりばめられ、カウティリヤ自身が書いたというよりは、カウティリヤの言葉をまとめた感が強い。古代の書ともなると、高名な偉人や聖人の名を当てて権威づけることが大いに考えられるわけだが、この際、成立時期や真の著者が誰かなんぞどうでもいい。既に古代インドでは、現代にも通ずる実践的な政治哲学、いや政治技術が語られていたということだ。マックス・ヴェーバーは、著作「職業としての政治」の中で、こう書いているという。
「インドの倫理では、政治の固有法則にもっぱら従うどころか、これをとことんまで強調した - まったく仮借ない - 統治技術の見方が可能となった。本当にラディカルな『マキャヴェリズム』 - 通俗的な意味での - はインドの文献の中では、カウティリヤの『実利論』に典型的に現われている。これに比べればマキャヴェリの『君主論』などたわいのないものである。」
古代インドでは、ダルマ(法)、アルタ(実利)、カーマ(享楽)が人間の三大目的と考えられていたという。カウティリヤは、アルタを中心に据え、他の二つをアルタに従属させる。そして、学問を、哲学、ヴェーダ学、経済学、政治学の四種に定め、その中で哲学を支柱に据える。
「哲学はヴェーダ学における法(善)と非法(悪)とを、経済学における実利と実利に反することとを、政治学における正しい政策と悪しき政策とを、そしてそれらの三学問の強さと弱さを、論理によって追求しつつ、世間の人々を益するものである。それは災禍と繁栄における判断力を確立し、智慧と言葉と行動とを通達せしめる...
哲学は常に、一切の学問の灯明であり、一切の行動の手段であり、一切の法の拠り所である...」
本書は、こうした学問態度から、国益を徹底的に追求する思考法を披露してくれる。ここで特徴づけられる総合的な目線と合理的な視点は、国家論、王道論、外交論、軍事論、そして諜報論にまで及び、細目に渡って論じられる。
こんな具合に...
城砦都市を建設し、地方を植民して国造りをなす。商工農林に各省庁を設置し、官吏を登用し、中央と地方の行政に漏れなく国家体制を敷く。度量衡を定め、出入国者を監視し、酒類から遊女に至るまで統制下に置く。消費税や遊興税の類いを制度化し、違反者から罰金を徴収して国庫を潤す。同時に、国王は官吏の行動に目を光らせるばかりか、身内や後継者にも監視の目が向けられ、王自ら、民法、民事訴訟法、刑法など、あらゆる裁きの責任者となる。
かくして王道は刑罰権の行使と同義語に...
カウティリヤにとって、アナーキーこそ最も警戒するところ。抽象的な理想主義なんぞくそくらえ!と言わんばかりに、現実の国家元首像を書きまくる。君主といえども欲にまつわる人間の弱さをあぶりだし、王たる者がいかに人間の本性を巧みに利用すべきかを説く。もはや、理想王は策士の権化か...
しかしながら、とことん人間の醜態を暴きながらも、大前提とされる王者の資質が語られる。公明正大で共同体の秩序維持に務めるために、社会福祉のための法を定めるために、弱肉強食の弊を除くために、確固とした王権が必要だと説く。王は国民の安寧を守るために、常に精励努力して実利の実現を追求する。弱者の保護は王の義務であり、そのための秩序や揺るぎない権力が必要である、という論理。
そして、王たる者は、感情を抑え、誘惑を斥け、遊興に耽ず、行動の一切を挙げて国民の守護という最高の義務を自ら課す。最高位にある王は、唯一自己制御可能な特別な存在でなければならないというわけである。ここに、修身斉家治国平天下といった儒教的な政治観が、古代インドにも定着していた様子が伺える。
「しかし、王杖を全く用いぬ場合は、魚の法則(弱肉強食)を生じさせる。即ち、王杖を執る者が存在しない時には、強者が弱者を食らうのである。王杖に保護されれば、弱者も力を得る...
王の幸福は臣民の幸福にあり、王の利益は臣民の利益にある。王にとって、自分自身に好ましいことが利益ではなく、臣民の好ましいことが利益である...
臣民を法により守る王が自己の義務を遂行することは、彼を天国に導く。王が保護せず不正な刑罰を科する場合は、逆の結果となる。」
人間の本務は自己の義務に生きること。では、義務とはなんぞや。
仮に、王のために... とした場合、王は義務に足る人物かが問われる。世襲によって正統性が担保された君主は、たいてい僭主となることは、歴史が示してきた。真の君主が登場しても長続きしないことを。それは独裁制というイデオロギーの持つ特質、いや、人間の本質であろう。
仮に、国家のために... とした場合、国家は義務に足る体制を備えているかが問われる。それが民主制だとしても、政治的にも、経済的にも、施策がうまくいかなくなれば、国家権力は独裁色を強めていく。それでも独裁制よりは、ましか
これは、もう人間の本性の領域。そして、カウティリヤの言葉は、君主よ!しっかりしろ!と励ましているようにも映る...
ところで、本書には、やたらとスパイの話題が登場する。権謀術数では、暗殺や毒薬、怪しげな秘法まで伝授してくれる。男社会では女スパイの活躍の場が広がる、というのは古今東西で共通しているらしい。遊女館を情報アジトとして活用し、遊女長官という役職まで。ただ、「遊女」の定義が現代感覚とは、ちと違うようで、歌、器楽、吟誦、演劇、文学、絵画、琵琶、笛、太鼓、読心術、会話術、マッサージなど、様々な技能や知識を持つ女性とされる。
こいつは、スパイマニュアルか?それでいて、王道の徳目を説く?... ん~、もはや矛盾を通り越して支離滅裂!だが、政治とは、もともと矛盾した世界。いや、人間社会そのものが支離滅裂な世界。だから、実利論として成立するのである。
統治とは、人間を統制すること。それはすなわち、人を動かすこと。政治技術とは人を動かす術であり、そこには脂ぎった処世術も絡んでくる。様々な欲望から共通の利益を見出し、これを実現していくとなれば、功利主義的な思考も見て取れる。
また、国家間の問題はすべて領土に発するとし、必然的に隣国は敵とみなされるが、自己存在を脅かす存在として最も身近な存在こそ人間社会に内在する根深い病魔であろう。
この実利の学には、一古典の生命力を感じずにはいられない...
2019-09-22
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 コメント:
コメントを投稿