2012-08-19

"火星の人類学者" Oliver Sacks 著

惚れっぽい酔っ払いは、オリヴァー・サックスに嵌りつつあるか...
「妻を帽子とまちがえた男」では、脳や神経の障害によってもたらされる自我の喪失について綴られた。ここでは、自我の獲得や再構築について綴られる。
「一般的な指針とか制約、助言というものはあります。だが、具体的なことは自分で見つけなければならないんですよ」
障害者たちは自己の欠陥を率直に認め、それを自己の一部とし、自我やアイデンティティというものを見事に作り上げ、創造力を魅せつける。確かに、発達障害や疾病の破壊力は恐ろしい。だが、潜在能力を呼び起こすこともある。何かに目覚めたり、開眼したりするのも、ある種の突然変異であろうか?進化論的観点から、人間の多様性は人間の想像力をはるかに超越していると言わざるを得ない。彼らは皆一様に言う。たとえ病気が治せるとしても、治したいとは思わないと。ただ、障害を神からの贈り物とできるのは、ごく稀なケースであろう。盲人が手術を受けて視力を獲得しても、ほとんどのケースで空間認識ができず精神危機に陥ると聞く。そして、神からの贈り物は呪いと化し、ほどなく亡くなる。自分の存在を否定するような境地を乗り越えてこそ、見えてくる境地があるのだろう。無に転じて有を知るとでも言おうか。生き方を知るとは、そういうことかもしれん。
明らかに普通と違えば、開き直るしかないのかもしれない。しかし、自己の欠陥を認めることは最も難しい。認めたとしても、社会や運命のせいにする。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、自我はけして悪性を認めようとはしない。それは、自己存在を否定することになるからであろう。欠陥を第三者に指摘されると、不快になったり攻撃的になったりするのは、ある種の防衛本能が働いているからであろう。自己の欠陥に対して、自我に少しでも素直さがあれば、新たな境地が開けるのかもしれない。それが精神の開眼というものかは知らん。

その人物がどんな病気であるかと問うのではなく、その病気にどんな人たちがかかっているかを問うがよい。... ウィリアム・オスラー

副題には「脳神経科医と7人の奇妙な患者」とある。彼らは皆、自閉症的な資質を抱えることになる。無理に矯正しようとすれば、さらに自我の殻に閉じこもる。だが、自閉症的な資質は、誰にでも潜在的にあるのではないだろうか。少しでも個性があるならば。これだけ世間が騒がしいと、人間が鬱陶しい、社会が鬱陶しいと思うこともあろう。安易につながりを煽れば、却って孤独愛好家を増殖させる。そうした傾向が一旦、病気と見なされると、世間から特別な眼で見られ、人生が萎縮してしまう。人は誰しも自分の居場所を求めて生きている。ただそれだけのことよ。彼らほど自己存在という問題と正面から立ち向かう人間はいないのかもしれない。
一方で、障害というマイナスをプラスに転じる驚異的な補完作用が働くことがある。自閉症のために緻密な集中力を発揮したり、知的障害のために純真な芸術心を発揮したりと。集中力や芸術心は孤独の空間から生じるもので、自閉症と言われた天才も少なくない。芸術とは、本質的に個人的なヴィジョンである。おそらく自閉症的資質と芸術心は相性がいいのだろう。
普通の人にだって能力に偏りがあり、どこかおかしな性癖がある。はたして、正気と狂気の境界はどこにあるのか?それが精神病棟の鉄格子だとしても...異常者を隔離するためのものか?それとも、純真な心を保護するためのものか?そして、自分はどちらの側にいるのか?...やはり、最も厄介な病は自覚できないことであろうか。
五感に異常をきたし、知覚に変化が生じた時、自分という存在はどうなるのだろうか?自己存在とは、脳の中にだけ構築される幻想でしかないのかもしれん。自己とは、それほど危うい状況に常にある。健康や普通なんて言葉は、単なる抽象概念に過ぎない。そういう言葉を編み出して、多数派に属して安住したいだけのことかもしれん。

宇宙は、われわれが想像するよりも奇妙どころか、想像も及ばないほど奇妙である。... J・B・S・ホールデン

特に注目したい事例は、タイトルにもなっている「火星の人類学者」と称する女性動物学者である。彼女には人の感情がまったく分からないという。地球に住む人類が、異種の生物に見えるというわけだ。その分、純真な心が深い。そして、感情を知識によって克服してきた様子を語ってくれる。感性と知性とは、調和と協調によって成り立つものだと思ってきたが、感性というものは知性で補えるものなのか?チューリングマシンによる感情の代替も可能ということか?サヴァン症候群では、左脳が障害を受けて右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力や論理思考が超人的に高められると聞く。盲人は、視覚を補うために聴覚や触覚を研ぎ澄ます。生命体の補完作用とは恐るべきものがある。となれば、感性を知性で補い、主観を客観で補い、またその逆もありうるのかもしれん。
そして、これが本当に感情の抜けた人間の言葉なのか?
「わたしは宇宙には善に向かう究極的な秩序の力があると信じています...ブッダやイエスといった人格的な神ではなくて、無秩序から生まれる秩序といったものです。人格的な来世の存在はないとしても、エネルギーの痕跡が宇宙に残ると考えたいのです...たいていひとは、遺伝子を残しますけれど...わたしは、思想や書いたものを残せます...図書館には不死が存在すると読んだことがあります...自分とともに、わたしの考えも消えてしまうとは思いたくない...なにかを成し遂げたい...権力や大金には興味はありません。なにかを残したいのです。貢献をしたい...自分の人生に意味があったと納得したい。いま、わたしは自分の存在の根本的なことをお話ししているのです。」

1. 脳神経科医と7人の奇妙な患者
まず一人目は、交通事故で全色覚異常に見舞われ、白黒の世界に幽閉された画家。画家にとって色彩は命である。その世界はモノクロ映像とも違うらしい。視力は鷲なみに鋭く、異常にコントラストが強く、一ブロック先を這っている毛虫が見えるという。濃淡は大雑把で、目を閉じても頭の中でトマトが真っ黒!白黒画像であっても輪郭がぼけるから、背景に溶け込んで微妙な陰翳の愉悦が味わえる。だが、食べ物や女性の肉体までも不気味な鉛色に見えれば、食欲や性欲も萎える。不快な気分が続いたせいか?やがて色の記憶や知識までも失われ、色の概念そのものが失われる。ある日、真っ黒な太陽が昇るのを見て衝撃を受け、特別な才能を見出す。彼は巨大な核爆弾のようだと語る。そして、白黒の世界を描き始めた。彼の色彩健忘症を知らない人たちは、芸術家として白と黒の新たな段階に入ったと評す。
二人目は、脳腫瘍のために視覚と記憶力を失った青年グレッグ。「最後のヒッピー」と題される彼は、その場の会話が覚えられなくても、昔の記憶だけはしっかりと残っている。60年代に幽閉されたかのように。ヒッピーは60年代後半に若者の間で広まった社会現象で、多くのロックバンドが参加した。彼は、グレイトフル・デッドのコンサートに連れられ、今日のことは決して忘れないよ!と人生最高の日を喜ぶ。だが、翌日にはすっかり忘れている。何かを悟ったような陽気な姿は、診療所の暗い雰囲気を吹き飛ばす人気者。精神的豊かさで盲人を開眼させたのか?「もし盲目なら、真っ先にぼく自身が気づくはずじゃないか」
三人目は、跳ね上がったり、何かに触れずにはいられない奇妙なチックを起こすトゥレット症候群の外科医ベネット。しかし、手術中は病状がすっかり姿を消す。障害者の目から見る彼の往診は、患者たちに優しく評判がいい。仲間内からも優秀な外科医として信頼される。そして、自動車の運転や自家用機を操縦し、「世界でただひとりのトゥレット症候群の空飛ぶ外科医」と自慢げに話す。
四人目は、婚約者の説得で手術を受け、40年ぶりに視力を取り戻したヴァージル。だが、行動様式は盲人からは離れられない。やがて溢れる視覚情報を処理できなくて、昏睡状態から危篤状態となり、ついには完全に失明してしまう。手術前は光の認識はできたが、それまでも奪われた。周囲を認識するということは自己の存在を確認していることにもなろうが、過剰な認識負担が続くと自己のアイデンティティまでも変貌させる。しかし、再び盲人になったことで安住の地を取り戻す。外面の情報を必要としないということは、内面が十分に豊かだという証しであろうか。
五人目は、驚異的な記憶力で故郷の村を描き続ける画家フランコ・マニャーニ。それは、イタリアのトスカーナ州にあるポンティトという小さな村で、戦時中ナチスに略奪された。自由の国に夢を抱きつつサンフランシスコに腰を落ち着けるが、奇病にかかり、高熱で痩せ衰え、錯乱状態になる。その後遺症か?日々、異常に鮮明なポンティトの夢を見続ける。そして、死の村の荒廃前の様子を描き続けるのだった。初老になったフランコは帰郷を決意する。だが、荒廃の現実と思い出とのギャップに衝撃を受ける。その後、何度も招待を受けるが帰郷せず、狂ったように描き続ける。もういちど母さんに、ポンティトをつくってあげると。
六人目は、風景や建物の細部までを記憶し、見事に絵に再現する自閉症の少年スティーヴン・ウィルトシャー。典型的な自閉症のうち、50%は唖者で一度も言葉を発せず、95%は非常に限られた人生しか送れないという。だが、芸術のおかげで熱心に支援する人々が集まり、幸運な例外となる。彼は、知的障害があるが視覚的なこだわりと才能を持つ、いわゆるイディオ・サバン。サックス博士は、スティーヴンの本心を覗くためにロシア旅行やアリゾナ旅行に同行するが...自閉症の個人を真の意味で理解しようとすれば、その全生涯と付き合わなければ足りないということか。
最後は、アスペルガー型自閉症の女性動物学者テンプル・グランディン。恋という言葉の概念は知っていても、そんな気持ちを抱いたことがないという。夜空の星を見上げると、荘厳な気持ちになるはずだということは知っていても、そうはならないと。複雑な感情や騙し合いとなるとまったくのお手上げ。その代わり動物の心が手に取るように分かるという。家畜は自閉症の人と同じ種類の物音に怯えるという。彼女は家畜の処理に関する理論を展開する。専門は、農場、飼養場、家畜用囲い、食肉プラントの設計など、様々な種類の動物管理システム。彼女は、人の感情が理解できないことを知識で補ってきたと説明する。やがて各地で講演活動をこなし、ユーモラスな余談を交えたり、当意即妙の話題を加えたりできるようになる。そして、40代になって友情が何たるかを分かるようになってきたようだと。

2. 思い出と記憶は別物か?
過去の記憶が脳に貯えられるというイメージには、偉人たちの間でも多少ニュアンスの違いがあるようだ。
「フロイトが好んだ心のイメージは、何層にもわたって過去が埋もれている(だが、いつ古い地層が意識の上にまで上昇してくるかわからない)考古学調査の現場だった。プルーストの人生のイメージは『瞬間の集積』だった。『その後に起こったすべてのことと無関係』で、心のなかの食料庫にしまわれたジャムの壜のような『密封された』思い出である(記憶について考えた偉人はプルーストだけではない。記憶の不思議さを考えながら、結局、記憶とは『何なのか』わからずじまいになった思想家は、少なくともアウグスティヌスにまでさかのぼる)。」
フレデリック・バートレットは著書「想起の心理学」の中で、こう書いているという。
「思い出すということは、生命のない固定された無数の断片的な痕跡を再活性化することではない。それは想像的な再構築、あるいは構築であって、過去の反応や経験の活動的な総体に対する自分の姿勢をもとに、ふつうはイメージや言葉というかたちで現われる際立った細部をつくりあげていくことだ。したがって、どれほど機械的な反復であっても、ほんとうに正確であるはずはないし、たいして重要でもない。」
記憶とは、自己存在の確認、自己の再構築を図っているということか。現在に不安を感じれば、過去に頼るしかない。思い出というものは、微妙な修正を加えながら、加工され、蓄積され、聖なるものに昇華する。そして、老人は、昔は良かった!と懐かしみ、現在を嘆く。現実逃避するかのように。これがノスタルジーの正体か?その逆パターンが、デジャヴってやつか?思い出に一種の理想像を重なるところがある。正確な記憶なんぞどうでもええ。理想像には、精神を癒す何かがある。思い出とは、理想に崇められた永遠空間に残る記憶ということになろうか。

3. 自閉症と社交性
視覚的、音楽的、言語的に、個々の部分を不思議なほどよく覚えているのは、イディオ・サヴァンの特徴だという。些細なことも重大なことも差別なく、前景も背景も区別しないと。個々の部分から普遍化するとか、因果関係や時間的関係をまとめるとか、自己の中に取り込むということはほとんどせず、情景から脈絡を読んだりもしないらしい。通常、記憶する時、目的や印象を場面と時間に関連づけながら、物語や筋を組み立てたりして覚えるものであろう。主観的で抽象的思考が介在するはずだが、彼らには客観的視点が優れているということか?個々の重要性を抽出したり、意味付けができないとなれば、驚異的な能力を発揮しても、それを社会的に活かすことはできない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いそうな。
ところで、社会にひたすら仲間を求めるのと、自ら孤独の殻に入るのとでは、どちら精神的に豊かなのだろうか?しかしながら、自閉症は障害者というレッテルを貼られ、その反対は社交的という好意的な言葉が当てられる。自閉症の人々は、嘘をつくことに苦痛を伴うという。そして、人間関係や社会的な概念に比べ、幾何学的概念や用語の把握に優れているという。ある自閉症の少年の言葉は印象的だ。母親が亡くなった時、こう答えたという。
「ああ、だいじょうぶです。ぼくは自閉症だから、愛するひとを失っても、ふつうのひとほど傷つかないんですよ」
自分に嘘がつけない、誤魔化せないというのは、芸術家や職人には絶対に欠かせない気質であろう。嘘も方便と言うが、それは社会的関係において成り立つ思考である。自分に嘘をつく必要がなくなれば、それだけで精神が解放されるのかもしれない。何もかも精神的に周囲に依存し、無理やり仲間という偶像を作り上げる社交性にも、障害が認められそうな気がする。

4. 感情を失った裁判官
ある神経学の論文に紹介される元判事の症例は興味深い。その判事は、砲弾の破片が頭にあたって前頭葉が傷ついたために、感情というものをまったく喪失したという。感情がなければ、偏見も生じないわけだから、公正な判断ができそうなもの。判事として特別な資質ではないのか?しかし、その判事は思案した挙句、辞職したという。関係者の動機に共感することができないし、正義とは単なる論理ではなく感情にもかかわるものだからと。法律は客観性に支配されると言われるが、その運営となるとそれだけではない。余計な感情論を排除できるからこそ、権威を放棄できるのかもしれん。

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

「人間悟性論」ジョン・ロック著

17世紀の哲学者ウィリアム・モリヌーは妻が盲人で、友人のジョン・ロックにこんな疑問を投げかけたという。
「生まれながらの盲人が、手で立方体と球体を識別することを学んだとする。そのひとが視力を取り戻したとき、触らずに...どちらが球体でどちらが立方体かを見分けることができるだろうか」
ロックは「人間悟性論」でこの問題を取り上げ、答えはノーだと述べたという。触覚の世界と、視覚の世界は、必ずしも関連性がないということらしい。
この書にも、いずれ挑戦してみたい。

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