三冊連続!オリヴァー・サックスに嵌ってもうた。ここでは音楽に憑かれた人たちのお話。同じ脳神経障害でも、こちらの方がはるかに本質的かもしれん。サックス博士は言う。音楽は、神経学や生理学の新しい教科書を手にした時、索引で真っ先に調べる項目の一つだと。音楽は、聴覚だけで感知できるものでもなければ、脳で解釈するだけのものでもない。身体全体で感じ取るもの。人は皆、心の中で独自の拍子やリズムなるものを奏でているのだろう。心臓の鼓動とともに...
生きる上で最も大切なものは、やはりリズムであろう。道を歩けば何気なく歩幅やテンポが生じ、思考に耽れば自然に身体が揺れ、日常の繰り返しが精神に秩序をもたらす。仕事においては、検討から成果が出るまでの周期、あるいは達成感を得るタイミング、こうしたものが意欲を持続させる。音楽に特定のものを表す力などないのだが、完全に抽象的でありながら、具象的な心象イメージを作る手助けをしてくれる。哀歌に心を動かされたり、胸をえぐるような悲愴をもたらすかと思えば、気分を高揚させたり、はたまた忘我の境をさまよったりと、奇妙な力までも持ち合わせる。音楽は物理的には音素の羅列でしかなく、ノイズと区別がないはず。なのに、一旦、主情的に反応すると芸術へと昇華させる。人は音楽に合わせて拍子をとり、メロディーの奏でる物語に思考や感情を重ねる。誰にでも人生のテーマソングのような存在があろう。自己存在の後ろ盾になってくれるような...
一般的に、音楽は心や生活を豊かにするものとされる。だが、音楽に祝福されず、神の恵みが悪魔の呪いと化す人たちがいる。ナポリ民謡を聴くと痙攣と意識喪失を伴う発作に襲われたり、エンジン音や摩擦音を引き金に日夜音楽幻聴が鳴り続けたり、生命維持装置のように音楽なしでは生きられないなど、音楽に人生を乗っ取られた人たちが...
音楽の夢や幻聴は、他の夢や幻覚と違って正確だという。記憶喪失や認知症の破壊力にも耐えうるほどの力があると。脳の損傷や障害によって他の能力は失われても、音楽の能力だけは保たれる症例も珍しくないようだ。大脳皮質には、音楽にまつわる知性と感性を助長する特定の部位があるのは間違いなかろう。実際、そこが損傷を受けて失音楽症になることがあると聞く。
しかし、音楽に対する感情反応は、皮質だけでなく皮質下や脳全体に広がるという。アルツハイマー病のような瀰漫性皮質疾患にかかっても、音楽を感じ、楽しむことができるのだそうな。音楽と精神が深く結びつくとなれば、あらゆる病に対して音楽療法なるものが効果を発揮する可能性がある。音楽の知識がなくても、音楽好きでなくても、深いレベルで反応するかもしれない。人類の音楽を嗜好する性向は、潜在的な自律システムとして働く普遍的な機能なのかもしれん。
ショーペンハウアーは、こう書いているという。
「とてもわかりやすく、それでいて何とも不可解な、言いようのない音楽の深みは、音楽が私たちの最も内側にある感情をすべて再現しているのに、リアリティがまったくなく、痛みからはかけ離れている...という事実に起因する。音楽は人生とそこで起こる出来事の真髄のみを表現し、決してそれ自体を表現するのではない」
昨年(2011年)の秋頃だろうか、英国の研究所が世界で最もリラックスできる音楽を発表したと報じられた。Marconi Union の「Weightless」という曲。曲の底に流れるベース音がリラックスさせ、トランス効果があり、深い静寂をもたらすとのこと。血圧の低下や、ストレスホルモンであるコルチゾールの低下も認められるそうな。実際に聴いてみると退屈しそうで、作業のためのBGMにするにはいまいち。無意識の領域で作用させるから、真の意味でリラックスさせるのかもしれないけど。
脳への刺激を物理学的に説明することは、ある程度は可能であろう。だが、それだけだろうか?やはりアル中ハイマー病患者には、モーツァルトやショパンの方が心地良い。そして、瞑想に耽け、思考が迷走するのさ。
聞こえる旋律は甘美だが、聞こえない旋律はもっと甘美だ。
... ジョン・キーツ「ギリシャの壺のオード」
1. 音楽と心象イメージ
サックス博士の患者で音楽幻聴のある人の大半は難聴を抱えているという。聴覚に対する欲求がそうさせるのだろうか?音楽には、耳から入る外部的なものだけでなく、頭の中で奏でられる内面的なものもある。失音楽症は俗に言う音痴という形で現れるが、それでも頭の中では完璧なメロディーが流れるものらしい。音楽家ともなれば、オーケストラをまるごと頭に抱えたり、楽器を使わず頭の中だけで作曲したりする。ベートーヴェンは、まったく耳が聞こえなかったにもかかわらず、音楽家として更に高みに昇った。余計な外部音が聞こえないだけに、内面で理想化された純粋な曲が聞こえるのだろうか?
音楽の心象は視覚的なものと同じくらい多様で、おまけに情景を刻むところがある。何十年も思い出すことのない音楽が、突然、湧いてくるかと思えば、学生時代によく聴いた曲がラジオから流れるだけでノスタルジーに浸れる。音楽には、倦怠感を緩和したり、運動をリズミカルにしたり、疲労を軽減する効果がある。
その一方で、耳にしつこく残り、病的にまとわりつき、メロディーが拷問となるケースがあるという。短くはっきりした楽節や旋律が何時間も何日間も続き、心の平穏や睡眠までも阻害する。耳栓をしても無駄だ。脳の虫として住み着き占拠するのだから。チャイコフスキーも、子供の頃「この音楽!僕の頭のなかにあるんだ。こんなのいらないよ!」と叫んだと伝えられるそうな。映画やテレビ番組のコマーシャルソングが引き金になることも珍しくないという。それも偶然ではあるまい。コマーシャルは聞き手を釣るために、耳に残るように仕掛けてくるものだから。
また、音楽や詩のリズムには暗記力を刺激する効果がある。あらゆる民俗文化において、文字体系や物事を覚える時に役立つ歌や詩がある。古代人が、ホメロスの大叙事詩を長々と暗唱できたのは、そこにリズムと韻があるからであろう。記憶力が音楽を発達させたのか、音楽が記憶力を発達させたのかは知らんが。
2. 音楽夢
偉大な作曲家の多くは、音楽の夢について語り、しばしば夢の中でインスピレーションを受けているという。ヘンデル、モーツァルト、ショパン、ブラームス、ベルリオーズなど。夢の中まで攻め続ける、一種の職業病か。ポール・マッカトニーは曲ができるまでの過程を、目覚めると頭の中で美しい音楽が流れていたと語ったという。音楽夢の記憶は、はっきり残るという説があるらしい。アーヴィン・J・マッセイは、こう書いているという。
「夢のなかの音楽は、崩壊することも、混乱することも、支離滅裂になることもなく、夢のほかの要素のように目覚めたとたん消えることもない」
数学や科学の理論、小説や絵の構想なども、夢の中で思いつくことがあろう。アル中ハイマーにだって、技術問題の解決が、夢の中で突然浮かぶことがよくある。しかし、目が覚めるとすっかり消えていて、思い出そうとして二度寝すると、今度はすっかり熟睡してしまう始末よ。
そういえば、音楽の夢は、目覚めてもしっかりとハミングできていて、たいてい懐かしい気分になる。音楽の場合、他の心象イメージと違って、要素の羅列がシーケンシャルで時間的連続性を保つ必要がある。だから、心の中のリズムやテンポが情報の欠落を補完できるのかもしれない。音楽は眠らない!そして精神は眠らない!ついでに魂は不死!なんてどこぞの論法を無理やりこじつけておくか。
3. 絶対音感と進化論
人は視覚となると、青や赤といった色素を反射的に言い当てることができるのに、聴覚となると、ソのシャープといった音素を言い当てることができない。光波も音波も、同じ波長という物理量なのに。絶対音感が万人の能力にならないのはなぜだろうか?音素の方が、精神の曖昧さに適合するのだろうか?
絶対音感は音楽家によく見られる。精度は様々だが、70以上の音を特定できるそうな。もちろん、絶対音感がないからといって音楽的才能が劣っているわけではない。音楽的才能に恵まれながら、音楽に無関心な人も大勢いる。音楽に敏感過ぎるために、ある種の防衛本能が働くのかもしれない。自閉症患者は、音楽的な感動が少なくても、絶対音感を持つ人が比較的多いと聞く。日常の物音が、すべて音階に変換されたら気になってしょうがないだろう。鼻をかむ音は、ソのシャープとか、耳鳴りは、ファのフラットとか。周波数で言い当てる人もいると聞く。演奏中の音楽家は、楽器の調律がちょっとでも狂っていたら、たいてい苛立ちや不安になるという。繊細な認識能力の持ち主ほど、自閉症になりやすく精神病を患いやすいのかもしれない。
また、興味深い相関関係に、絶対音感と言語的背景があるという。ダイアナ・ドイチェたちの論文(2006年)には、こう書かれているという。
「ヴェトナム語と北京語を母語として話す人たちは、単語のリストを読むときに非常に正確な絶対音感を示す」
絶対音感のある人は、音高差を正確に知覚できるだけでなく、音階や音符のラベルをつけて並べられるという。記号を羅列するという意味では、言語感覚と似ているのかもしれない。スティーヴン・ミズンは、構成言語と構文規則が発達したことで、膨大な意味を表現することができるようになり、大部分の人間が絶対音感を必要としなくなった、という仮説を立てているそうな。言語の発達によって、音高による絶対的な模倣能力が必要なくなったということか。では、仮想的にビジュアル化していく社会では、視覚も曖昧になっていくのか?現実社会が仮想化いう空虚を求めるのも、精神の曖昧さによく調和するからか?そして、あらゆる知覚が精神の曖昧さに吸収されていくのか?これが抽象化の正体かもしれん。
4. 音楽サヴァン
2000曲以上のオペラを、ほぼ完璧に記憶する知的障害者の事例が紹介される。彼はオペラ歌手を父に持つ。音楽の才能は、バッハ一族の七世代のように遺伝すると言われるが、その典型であろうか。サヴァンの能力で高まるのは例外なく具象的な力で、弱いのは抽象的な力で大抵は言語能力だという。
ほとんど先天性のものだが、似たような症状が人生の後半に現れることもある。脳損傷、脳卒中、腫瘍、前頭側頭認知症などの後に。特に左側頭葉の損傷と関係があるとされる。左側頭葉が、右脳半球の機能に対して抑圧や抑制を解放した結果、計算能力や論理的思考が超人的に高められると聞く。理性や知性が、感性にとって邪魔になることもあろう。理性が強すぎれば融通がきかなくなり、知性が強すぎれば頭でっかちになる。子供の創造力を、大人の権威主義が邪魔をするように。才能豊かな子は、そんな障壁すら簡単に乗り越える。抑えられない衝動とは、気概のある才能の裏返しであろうか。
5. ウィリアムズ症候群
ウィリアムズ症候群は、認知障害で、知能の強さと弱さが奇妙に入り混じっているという。ほとんどがIQ60未満だそうな。見た目の特徴は、大きな口、上を向いた鼻、小さい顎、丸くて好奇心に輝く目。性格の特徴は、異常なほどの社交性を示し、並外れて饒舌で、興奮気味で話し好き、親しげで懐っこい、そして、なによりも音楽好きだという。よちよち歩きの幼児ですら音楽に極めて敏感だそうな。IQが低いにもかかわらず、豊富な語彙と著しい言語運用力を持ち、コミュニケーション能力が高い。その一方で、単純な幾何学図形を描くことができない。動物について奇抜な説明ができるのに、その絵を描くと幼稚になる。人を傷つけることもいろいろと喋るというから、一種の精神遅滞であろうか?自閉症の反対パターンという見方もできそうだ。
しかし、音楽となると、三カ国語や四カ国語の歌詞を憶えたり、驚異的な音楽能力を発揮する人もいるという。ただ、音楽サヴァンとは少々違っていて、生まれつきではなく経験的に開花される能力ということらしい。複雑な音楽を学んで覚えられることでは、とても精神遅滞とは思えない。重度の知的障害者が、突然、音楽の才能と流暢な発話力を開花した例もあるという。音楽療法によって脳を活性化させる場所がちょいと違うだけで、何かに目覚める可能性があるということか。開眼や悟りを解剖学的に説明すると、そういうことであろうか。自我の進化論的な突然変異を信じるならば、日々の形式的な生活からは生じない現象であろう。自我を破壊するような刺激でもなければ...
2012-08-26
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