2012-08-05

"46年目の光" Robert Kurson 著

勇気をもって挑戦すれば、一時的に足場を失う。だが挑戦しなければ、自分自身を失う。...キェルケゴール

こういう人生を目の当たりにすると、自分がいかに社会に安住し、保守的な生き方をしているかが見えてくる。はぁ...
主人公マイク・メイは、3歳の時に化学薬品の爆発で失明。好奇心旺盛な子は、物に衝突しては血を流し、サングラスを何度も壊す始末。だが、この大事な時期に体当たり人生の礎を築く。そして、実業家として成功し、美しい妻と二人の子に恵まれる。この類い稀なチャレンジ精神の持ち主は、視覚障害者のスピードスキー競技の世界記録を持つという。また、CIAで勤務した経験もあり、起業家として目の不自由な人のために史上初の携帯型GPSシステムの実用化を進めたそうな。
「視力のある人生は素晴らしい。けれど、視力のない人生も素晴らしいのです。」
幸せに暮らすある日、驚くべきニュースが飛び込む。幹細胞移植の手術で視力を取り戻せるかもしれない。しかし、成功率50%。かすかに残る光認識能力までも奪われるかもしれない。強烈な副作用をともなう薬に癌になる可能性もあり、命を危険に曝すことになる。しかも、成功したからといって、いつ盲目に戻るか分からない。メイは既に46歳、その決断に苦悩しながら妻にこうもらす。
「でもおもしろいのはね、あの子たちの姿を実際に見る日が来ても、いま見えている以外のものが見えるようになるとは思えないんだ。...そういう意味では、目が見えるようになってもなにも変わらないのかもしれない。」
そして、手術の先に見えたものは... これは実話である。

五感の中で最も重要なのは視覚である、と考える人も多いだろう。見たまんま!ということほど説得力のあるものはない。実際、視覚からの情報によって自己存在の空間を形成し、行動範囲の自由度が決まるように感じる。夢で見る映像も、目で見た経験によって作り出されるのであろう。視覚のない人は、自我の空間をどのようにイメージするのだろうか?
一方で研究によっては、視覚よりも聴覚の方が重要だとする意見を耳にする。指向性においては、視覚の探知できる角度が視界に限られるのに対して、聴覚が探知できるのは360度。暗闇では視覚よりも聴覚の方が役に立ち、潜水艦は音波を奪われた途端に航行不能となる。原理的には、音波は地球の裏側からも到達する。
しかしながら、ヘレン・ケラーは、三重苦でもなお活動的な人生を送った。となると、視覚や聴覚よりも重要な知覚があるのかもしれない。いずれにせよ、五感は生命体の防衛本能から進化してきたのだろう。だが、安全な社会では知覚神経も退化する。町の騒音が難聴にさせ、明るい夜が天の川を見る愉悦を奪う。味覚が衰えれば毒も平気で喉を通し、臭覚が衰えればガス漏れにも気づかない。贅沢な社会では、危険回避能力が確実に衰え、災いはすべて社会のせいにし、人類はますますモンスター化するのだろうか?テレビの登場以来、社会は視覚に訴える傾向が強く、大袈裟な映像に慣らされる。確かに分かりやすい!それだけに想像力は衰えるのかもしれない。
一方で、視覚を失った人は聴覚が研ぎ澄まされる。実際、メイの反響による空間認識能力と空間記憶能力は抜群で、移動のための杖と盲導犬という二つのツールを完璧に使いこなす。尚、目の不自由な人で両方を併用できる人は少ないらしい。人間の知覚神経を補う潜在能力には驚異的なものがある。どんな天才も、五感すべてを超人的に働かせることはできないだろう。なんでもできるということは、実は、なんにもできない、を意味するのかもしれん。

視力が回復したからといって、視覚認識として機能させることは難しいらしい。3歳に失明したというのが問題のようだ。この時期に視覚情報と空間認識を結びつける神経系が形成される。あらゆる知覚情報からニューロンネットワークが形成されるが、失ったニューロンを取り戻すのはほぼ不可能だという。この現象を「ニューロンの可塑性」と言うそうな。日本人の多くが、英語のLとRの発音を聞き分けられないのと似たような状況か。
ところで、五感以外に新たな認知能力が授かるとしたらどうだろうか?第六感にせよ、超能力にせよ、胸がときめくだろう。だが、それは本当に幸せであろうか?奇妙な予知能力を身につけたり、心を読める水晶玉を手に入れたがために、余計な欲望が働き悪魔になりはしないか?その認知能力が想像したものとまったく違っていたら、むしろ危険かもしれない。実際、レーシック手術で視力が回復しても、人生が滅茶苦茶になったと医師に怒鳴りこんでくる事例があると聞く。同情されなくなったとか、障害者制度が利用できなくなったとか。突然、視力が回復したからといって、普通に生活しろというのも無理がある。そして、ほとんどの場合、鬱病になり、健康を害し、早死にする。人間は鈍感だから生きていけるところがある。
メイの場合は、物心ついた時には失明しており、視覚というものがどんなものか想像もつかない。服のしみ、壁の傷、床の汚れなど見えなくていいものばかりが目につき、この世の不完全さを思い知らされることになる。
だとしても、理屈からして... 新たな知覚能力が得られて損をするはずがない。もともと、空間記憶力に優れ、整理整頓が得意で、脳内マップを作る能力は抜群なのだ。そこに、機能が不完全とはいえ視覚という補助機能が追加されただけのこと。不幸になる要素など何もないはず ...などと割り切れるのは、とことん哲学的に思考した結果であろうか。真の活動家とは、生命の危険とその恐怖までも呑み込んでしまうほどの人を言うのか。メイには、絶望を見た者にしか見えないものが見えるのかもしれん。
「私は『見る』ために手術を受けたわけではないのです。『見る』とはどういうことかを知るために、手術を受けたのです」

1. 見るメカニズムと幹細胞移植
ものを見るプロセスは角膜から始まる。眼球に入ってきた光が最初に通過するのが角膜で、黒目の部分を覆う厚さは0.5ミリほどの透明な膜。目に光を取り込み、光を屈折させるという重要な役割を果たす。だが、角膜が濁ると、車のフロントガラスがくもったような状態となる。
では、角膜の透明はどうやって保たれるのか?ワイパーがあるわけではない。そのメカニズムの出発点が、角膜上皮幹細胞という細胞だという。これは、受精卵を破壊することで倫理上の論争を巻き起こしている胚性幹細胞(ES細胞)とは違うものらしい。角膜の外縁部分にある幹細胞が、膨大な数の娘細胞と呼ばれるものを生み、その娘細胞が眼球の中央に移動して角膜を透明な保護膜で覆う。娘細胞の保護膜は、埃や傷、細菌や感染症に対する防御だけでなく、結膜の細胞や血管が角膜に入るのも防ぐ。保護膜が汚れても、娘細胞は数日ごとにはがれて落ち、新しい細胞と入れ替わる。ちょうど、レーシングドライバーの捨てバイザーのようなものか。
メイの手術は二回。最初にドナーの幹細胞を移植し、幹細胞が自己複製し、角膜の表面に健康な細胞をつくり出すのを待つ。その期間がおよそ4ヶ月。次に別のドナーの角膜を移植する。最初の手術で視力は生まれないが、二度目の手術で視力が戻るという。
60年代は、まだ角膜上皮幹細胞の存在が解明されていなかったという。角膜が濁ると、ドナーの透明な角膜を移植する手術を行なっていたが、たいていうまくいかない。失敗の原因は、患者の体がドナーの角膜に拒絶反応を示すと考えられていたという。幹細胞が消失するせいで、せっかく移植した角膜がまたも濁ってしまうなんて考えもしなかったわけか。1999年の時点で、角膜上皮幹細胞移植手術の経験を持つ医師は全米で15人から20人ほど、世界の事例でも400件に満たなかったという。

2. 術後のメイ
メイは、色や形を認識することができても、立体感覚が完全に麻痺している。遠近法がまったく機能せず、写真や絵の二次元画像から三次元空間への投射ができない。ツェルナー錯視やポッゲンドルフ錯視を起こさず、ネッカーの立方体から奥行きが認識できない。立体を認識できるのは、物体が回転して角度がずれた時。そういえば、人が完全に静止した状態から物を見るなんて状況はほとんどないだろう。首がちょっとでも動けば、見る角度は微妙に変わる。自然な状態は動画の方で、静止画というのは特異な現象なのかもしれない。相対論は、相対的静止を定義できても、絶対的な完全静止を定義できない。これは人間認識の本質であろう。
メイは、さっそく美女がよく通るという道に出て視覚機能を試す。だが、笑っているのか、怒っているのか、表情が読み取れないばかりか、男女の区別もつかない。せいぜい周りの男性諸君の反応で想像するぐらいなもの。分からない対象は、触りたくなる衝動に駆られる。だが、今まで女性の体に触っても、ごめんなさい!で済むところを、パシッと平手打ちをくらう。なるほど、わざとか。
髪型、服装、胸のふくらみ、という属性を辿って情報処理を試みるが、大量な情報を論理的思考のみで瞬時に処理するのは、かなりの重労働。目から入ってくる溢れんばかりの情報に頭は混乱し、会話の注意力も散漫となる。視力という新たな認識力を得たことで、既存の認識力が疎かになるとは。
しかし、得意なものもある。凹凸面が逆に見えたり、矢印のつけ方で棒の長さが違って見えるなど、目の錯覚に関する事例は枚挙がないが、メイはまったく騙されない。余計な認識が働かず、純粋に映像を解釈できるわけか。近代社会では、情報が洪水のように押し寄せ、しばしば思考を混乱させる。客観的な思考を維持することは至難の業だ。老化現象で、近くのものが見えなくなり、耳が遠くなるのも、認識能力の抽象レベルが高められたと言えなくもないか。
注目したいのは、顔のパーツを上下逆さにした写真を見せるテストだ。顔の輪郭はそのままで、目と口だけ上下逆さにすると、鬼瓦のような顔つきになって気持ち悪い。だが、メイには違いが分からない。さらに不思議なことに、その目と口を上下逆さにした写真を、写真ごと上下逆さに見ると、普通の人でも違和感は和らぐ。もともと人の顔を上下逆さに見る習慣がないので、変化に対して鈍感なのだそうな。ブスも逆さに見れば、違和感を感じないのかも。美人は三日で飽きる、ブスは三日で慣れる...というのは真理(心理)かもしれない。いや三日ってことはない。三年なら...

3. 子猫の実験は興味深い!
子供の初期段階の発達過程を調べるのに、二匹の子猫を使って、ほとんどの時間、完全な暗闇で育てる実験が紹介される。光のある場所で過ごすのは、毎日だが、ごく短い時間。子猫を、回転木馬のような装置に取りつけた箱の中に入れる。そして、片方には箱に穴を開け足が床に届くようにしておき、木馬を動かせるのは足が床に届く子猫の方だけ。二匹の子猫は同じ視覚的経験をすることになる。
しばらく実験を繰り返し自由の身にすると、視覚を利用して動き回ることができたのは、主体的に木馬を動かすことのできる子猫の方だけだったという。受動的に見える視覚だけでは、十分ではないということらしい。学習態度が能動的か受動的かでも効果は全く違うだろう。やはり最も効果があるのは独学であろうか。

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