2013-03-10

"ハッカーズ" Steven Levy 著

言語設計者たちのインタビュー(前記事)を聞いていると、なんとなく本棚の古典に目が留まる。もう20年かぁ...600ページもの分厚さ、風呂上がりのビールでちょっくら読み流すつもりが、いつの間にか朝日が眩しい。こういう本は、何か忘れかけているものを思い出させてくれる...ような気がする。
「汝、それに触れるべからず!と決めつける文化を否定すること、自分の創造力でそいつを否定していくことが必要なんだ!」

今日、ハッカーという言葉に悪い印象を与えることが多い。自称ハッカーってのがのさぼり、ネット社会ではいつの間にか一般市民が犯罪者に仕立てられる時代、いずれも本来の意味から酷く逸脱していくように映る。ハッカー倫理とは、けして他人に迷惑をかけるものでもなれば、自己顕示欲を誇示するものでもなかろう。ましてや、権威主義や商業主義といった脂ぎった発想から生じるものでもなければ、特許紛争に躍起になるものでもなかろう。マシンを知り尽くし、能力を限界まで引き出そうとする人で、子供の純真な好奇心を哲学的に高める実験。そう、知的冒険という意味であった。
本書は、かつて電子工学の創造性を純粋に謳歌した人たちが居たことを物語る。ハッカーとは、技術への狂気を生き甲斐へと昇華させた連中!とでも言っておこうか。コンピュータは命令する者の愚かさを忠実に反映しやがる。そこに快感があるのか。ある種の自虐的楽観主義か。彼らはマシンをハックしながら、日常生活をハックし、その究極に人生をハックしようとする。コンピュータ設計とは、ある種の人生ゲームを作っているということかもしれん。

本書は、ハッカーの起源を50年代末から60年代のMIT(マサチューセッツ工科大学)のAIラボに遡る。そこには、テック鉄道模型クラブ(TMRC)という冒険家の集まりがあったとさ。彼らは、スリリングな喜びを感じる作品や計画を「ハック」と呼ぶ。ハッカー主義を奨励した二人の教授も見逃せない。マービン・ミンスキーと Lisp のジョン・マッカーシー。それは、メガマシン IBM704 を取り巻く官僚主義との戦いから始まった。
こういう物語は、昔のTSS(タイムシェアリングシステム)を思い出させる。最悪なのはユーザ使用量に対する課金システム。同じ会社の汎用機でありながら、各部署に使用料を請求しやがる。まさに縦割り官僚組織。ちょっとしたシミュレーションを試すにも、予算にCPU時間、メモリ使用量、ディスクスペースを申請しなければならなかった。コンピュータが計算していなくても、どうせアイドリング状態にあるのに。1人にパソコン1台なんて夢のような時代であった。
ここで紹介される伝説的なソフトウェアハッカーは、リチャード・グリーンブラットとビル・ゴスパー。この頃のハッカーたちは、BASICを能力の発揮できないファシスト言語と見なしている。とはいえ、コンピュータを凡人に近づけてくれたのも事実。やがてゲームなどの多彩な機能が要求されると、抽象化言語の重要性を認めていくことになる。
アナログ錬金術師スチュアート・ネルソンは、PDP-1 を接続して電話システムをハックしたという。70年代になると、Intel 8080チップが登場。Altair 8800(1974年、MITS社)は、これを搭載したコンピュータキット。メモリはわずか 256byte で入出力装置がなく、フロントスィッチでパチパチさせながら直接メモリにデータを入力する仕組み。見えず、聞こえず、口のきけない三重苦の状態にあったという。当初から本体よりも拡張基板に注目され、ハードウェアハッカーを覚醒させる。合言葉は、自家製コンピュータを楽しもうぜ!「ブートストラップ」は、ハードウェアハッカーたちが作った用語の一例。リー・フェルゼンスタインのジャンク屋流と、スティーブ・ドンピアの音楽演奏は技術魂をくすぐる。
しかし、80年代になると、ゲーム業界が急激に成長し、商業主義の波が押し寄せる。この頃、ベンチャーの介入がはじまる。ハッカーたちは著作権や印税の誘惑を知り、ハッカー倫理は終焉を迎えたとされる。しかし、ゲームがコンピュータの大衆化を加速させたのは間違いない。そんな潮流にあっても、ジョン・ハリスは生まれながらのゲームハッカーだったという。彼には異性人が異星人に見えるのかは知らんが、女性にはただ憧れるだけ。ハッカーたちは共通してあまり女っ気がない。それどころか、この物語に女性ハッカーが見当たらないのはなぜ?ハッカーたちには、どこか社会嫌いや人間嫌いなところがある。修行に女は必要ない!ってか?いや、必要だ!せめて体の触れ合いぐらいは仮想化を避けたい。んー...色と欲の酔っ払いには、ハッカー倫理は縁遠きものらしい。
ちなみに、電子工学科のおいらのクラスには、約100人の中に女子生徒が2人いて、アイドルでもないが中心的に振舞っていた。一方、薬学科の友人のクラスに遊びに行くと、約100人の中に男子生徒が20人ぐらい、ひそひそ話をしながら行儀よく座っていた。同じ少数派でありながら堂々とした態度を見せつけられると、社交性では女性の方がはるかにたくましく映ったものである。

そして25年後、MITで最後の真性ハッカーと称すリチャード・ストールマンは、古き善きハッカー文化が死につつあると嘆く。ストールマンといえば、emacs の開発者として知られる。あらゆる文化で最も活気に溢れる時代は、その黎明期にあろうか。奇妙な常識化が進むよりは、馬鹿にされるぐらいでちょうどいい。歴史を振り返れば、あらゆる革命的な市民運動が、その純粋な姿を保ち切れなかった。革命児によってもたらされた組織でさえ、やがて官僚化する運命にある。業界が成熟するということは、マーケットが出来上がるということ。コモディティ化を促進しながら携わる人々が凡庸化する。そして、枯渇し、飽きられ、自滅していくのか?消費主義は、消耗主義へ変貌し、消滅主義へ導かれるのかは知らん。ハッカー倫理も例外ではない。伝道師たちによって庶民に広まると暴走を始める。無法者の割合が変わらなくても絶対数が増えると、そこに奇妙な群衆の波が生じる。やはり、シャングリ・ラのような世間の目に晒してはならない領域があるのだろうか?

1. ハッカーとノンハッカー
ハッカーとノンハッカーを分けるものは、アップル社を創設した二人のスティーブに見てとれる。スティーブ・ジョブズは、いまや伝説的な実業家とされる。だが、スティーブ・ウォズニャックの天才的な設計がなければ、Apple II が歴史的なコンピュータとなることはなかっただろう。技術者には、ウォズの名の方が馴染みがあるかもしれない。会社を作るということは、金儲けに関わるということ。それは、ハッカーとして一線を越える行為でもある。ウォズはアップル社を去った。
なにも商業主義が悪と言うつもりはない。技術を徹底的に探求するには金がかかるし、何事も成長には投資が必要である。書籍も買えない貧乏では学ぶことすら難しい。ただ、成功の証がフェラーリやポルシェを何台も所有するのでは、ちと違う。一流の技術を持ち、優れたビジネスパートナーに恵まれ、巨額を手にすることが可能となれば、人はどうなるのだろうか?どれだけ純真さを守る力があるというのか?歳を重ね、経験を重ねると、理性的になるかと言えば、それも怪しい。商売戦略では、巧みな駆け引きを覚え、出し抜くことに注力する。そして、自虐的楽観主義は、自愛的悲観主義に変貌する。ただし、ここで言う自愛とは、他人のせいにすること。人間ってやつは、肉体も精神も腐っていくのだろうか?どうりで、大人になると、足が臭くなり、口が臭くなり、酒席で醜態を演じるわけよ。
近年、商業的成功者が、ますますもてはやされる傾向にある。その境界は、ビル・ゲイツあたりになろうか。MS-DOS が IBM PC の事実上の標準となれば、Windows が Mac の特長であったGUIの美味しいところを持っていく。今では、アップルの方が革新的イメージを強く与えるが、これらを革新的精神と言うのかは知らん。マスメディアを味方につけると何かと都合がいいのは、いつの時代も同じ。あらゆる業界で、二番煎じ、三番煎じがうまいことやる。コンピュータフェアの発起人やブームに乗るなど、政治的振る舞いや宣伝能力に長けた人が大儲けをする。Lispマシンを福音するにも、ある程度の商業化は必要であろう。だが、ハッカー倫理に照らし合わせれば妥協を許さない。商業的に成功したものが、技術的に優れているとは言えない。そこそこ使えるぐらいでも、何か新しい風をもたらしそうだという空気を与えるだけで、人々は群がる。社会は感情で動くもの。それが現実だ。
しかし、本当の意味で社会を支えているのは、草分け的な活動を地道にしている人たちであろう。人間社会には、一番やっている奴が、あまりお金を貰わないという法則でもあるのだろうか?あるいは、権威や大金は人を惑わせるが、そんな脂ぎった精神と付き合わずに済むということであろうか?

2. 自由奔放と民主主義
ハッカー精神が受け継がれるコミュニティと言えば、オープンソースのような経済モデルは、民主的な草分け運動によって成功した例と言えそうか。しかし、普通の民主主義と、ちと違う。誰でも参加できるとはいえ、議論のレベルが高ければ気後れし、最低限度の知識や規定が暗黙に引かれている。だから、罵ったりするような悪態はあまり見かけず、ほとんどが建設的な発言となるのだろう。ちなみに、気後れせず図々しく自己顕示欲を剥き出しにする人を政治屋と言う。
民主主義にとって、誰でも発言できるというよりも、誰でも傍観できるということの方がはるかに重要なのかもしれない。ここに情報透明性の原理がある。政治では機能しない民主主義が、専門のコミュニティで機能するのは、共通目的による集合体であるということであろうか。特定のエンジニアに後援会もなければ、個人的な支援運動があるわけでもない。無秩序でありながら奇妙な秩序がある。まるで生物組織が形成されるかのように、役割分担が自然に形成される。技術を探求するには、当然ながら自由奔放な雰囲気が欠かせない。
しかしながら、どんな集団であれ能力差が生じるし、相対的に劣等者を生み出す。自己の居場所を自然に確保できれば、自由はすこぶる心地良いが、必死に居場所を探す必要に迫られれば、自由は窮屈になる。実際、優秀なエンジニアと仕事をするとかなり辛い。こっちは、いつも全力疾走しなければならないのだから。ちょっと休んでくれ!とお願いすると、実は互いに見栄っ張りで、余裕を演じていただけというオチも、たまにはあるけど。まったく余裕がなく、個人のペースが極度に乱される場合は、却って思考を硬直させるので注意したい。

3. 「2001年宇宙の旅」の HAL 9000
スティーブ・ドンピアは、自分の Altair を組み立てた。8080チップは、72の機能からなる命令セットを持っている。ドンピアが低周波ラジオで天気予報を聞きながら機械語でプログラミングしていると、ラジオと干渉してけたたましいノイズを発したという。Altair の内部でビット位置を変えていく度に、別のノイズ音が鳴る。そして、Altair の最初の I/O装置を発見したという。メモリアドレス 075 で発するノイズは、ギターのFシャープに相当...てな具合に、音色とメモリアドレスを対応させ、音階のチャートを作り、作曲用のプログラムを完成させた。
ある集会でビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル」が流れるように、マシンをセット。普段なら最新チップ情報で賑やかなハッカーたちが、畏敬の念に打たれて静まり返ったという。ハッカーたちが自分を取り戻す前に、すかさず「デイジー」の演奏。尚、1957年にベル研究所でコンピューターで演奏された初めての曲が「デイジー」だったそうな。キューブリックの「2001年宇宙の旅」では、分解され機能を喪失しつつあるコンピュータ HAL 9000 が、デイジー・ベルの一部を歌う場面がある。なるほど、初代コンピュータへの退行という意味であったか。

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