2020-09-20

"素数の音楽" Marcus du Sautoy 著

数学は、音楽とすこぶる相性がいい...
耳で感じる音律の概念は、オクターブの整数比で構成される。一つのオクターブを均等に十二分割したものは「十二平均律」と呼ばれ、「ドレミ」も、これに看取られている。
十二音の組み合わせは、ざっと数えて 12! = 479,001,600 通り。
音楽家たちは、この組み合わせの中から、魂をくすぐるパターンを見い出そうとする。いわば音楽は、音響組織の数学的合理化なのである。その合理化運動の歴史は、紀元前540年頃のピュタゴラスに遡る。そう、「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると、1オクターブ高い音が生じて元の音と調和する。この性質に気づくと、一弦琴で和音を奏でることができ、整数比からちょいと外れると、たちまち不協和音となる。
どうやら音楽は、数学に看取られているようだ。空を見上げれば、太陽も、月も、惑星も、多くの天体運動が数学に看取られ、天空の音楽を奏でている。音響工学で馴染みのあるデジタル信号処理にしても、フーリエ変換ってやつが正弦波成分と余弦波成分の和で幅を利かせ、周波数スペクトルという概念を与えている。音響組織は、このスペクトルに看取られている。
では、数学の素とされる存在は、どんな音楽を奏でているだろうか。それは、人間の耳で聴きとることのできる音楽であろうか。数学者マーカス・デュ・ソートイは、そんな問い掛けをしてくる...
尚、冨永星訳版(新潮文庫)を手に取る。

ところで、素数の意義とはなんであろう。それより小さな数の積では表せない存在。つまり、あらゆる数は素数の積で表せるってことだ。それは、物理学でいうところの原子のような存在か。あらゆる分子構造は原子の組み合わせでできている。素数の配列は、いわば、原子の周期表のようなものか。素因数分解は多くの物理現象の解析で重要な役割を担い、インターネットの暗号システムも素数なしでは存在し得ない。
ここで、ざっと素なる数を三つ拾ってみよう。

  {3, 5, 7} = 357 マグナム = コルト・パイソン

本書は、素数のプログラムを Python で書きたいという気分にさせやがる。おかげで、無矛盾コードの証明で翻弄される羽目に。それは、1オクターブ低い声に酔いしれ、自らのピロートークに翻弄されるに等しい... Q.E.D.

1900年、ダフィット・ヒルベルトは、新たな世紀の始まりを記念してドラマチックな公演を行った。聴衆に向かって、23 にも及ぶ未解決問題を突きつけたのである。まるで、20世紀という時代は、数学ですべての問題が解決できる世紀だ!と宣言したような...
確かに、問題の多くは解決された。しかし、21世紀の今でも取り残された問題がある。例えば、第8問題。それは素数に関するもの。素数が無限に存在することは、ユークリッドの「原論」にエレガントな証明が記される。
しかしながら、どんな風に出現するのか?どんな風に分布しているのか?そこに法則性は?と問うと、まるで見当がつかない。もし、素数の在り方がデタラメな配列だとすれば、単なる雑音ということか。あるいは、最も美しいホワイトノイズということか。素数が美しくも、単純でもないとしたら。いや、最も素である存在がノイズであってはならない。いや、そう信じたい。ただそれだけのことかもしれん。プラトンが、精神の原型であるイデアに完全美を見ようとしたように...

「数学が無矛盾なのだから、神は存在する。それを証明できないのだから、悪魔も存在する。」
... アンドレ・ヴェイユ


1. 篩にかけられた素数
最初に素数を篩にかけたのは、エラトステネスと伝えられる。彼は、指定した数より小さい素数を見つけるための単純なアルゴリズムを編み出した。そう、プログラミング学習の教材でも見かける「エラトステネスの篩」ってやつだ。
では、大きな数の方向に対しての素数の見つけ方はどうであろう。そもそも無限に存在することが分かっているのに、見つける意味があるのか。自然数の最大値は何か?と問うているようなもの。
とはいえ、そこに法則性が発見できなければ、せめて、より大きな素数は何か?と追いかけてみたい。それが、人情というもの。現時点で、人類が編み出した合理的な方法は、GIMPS というプロジェクトに垣間見る。それは、分散型コンピューティングによって、より大きなメルセンヌ素数を探すという試みである。
ちなみに、メルセンヌ数は、こんな形をしている。

  2n - 1

この形が素数になる場合があって、その計算のためにインターネットを介して世界中のリソースを総動員するわけである。素数を直接追いかければ、このような人海戦術的な発想にもなろう。
今のところ、51番目のメルセンヌ素数が発見されている模様(2018年時点)。

  282,589,933 − 1

一方、素数に新たな風景を見た数学者がいた。ベルンハルト・リーマンは、ゼータ関数を通してその風景を見たとさ。なにかとエイプリルフールの話題とされる数学の難問たち、「リーマン予想」とて例外ではない。
しかし、こいつの証明も叶わないとなれば、人海戦術的な発想に引き戻される。現代数学では、証明においてもコンピュータが大きな役割を果たしている。四色問題しかり、ケプラー予想しかり。人間が苦手とする、しらみつぶし的な方法論によって...
しかしながら、リーマン予想が、そういった類いの問題とは到底思えない。なにしろ、無限に存在するものを相手取るのだから。チューリングマシンにだって苦手な分野がある。それでも、今巷を賑わしている AI(人工知能)ならどうであろう。機械学習より賢そうなディープラーニングならどうであろう。リーマン予想の証明には、人間の能力を超えた証明アルゴリズムが必要なのやもしれん...

2. 素数の風景とゼータ関数の風景
リーマンは、ゼータ関数をこう定義した。

  ζ(s) = 

n=1
 1 
 ns 

こんなやつが、素数とどう関係するというのか。無限級数といえば、巨匠オイラーによる収束や発散の考察を思い浮かべる。オイラーは、調和級数の発散と素数が無限に存在する現象との間に、なんらかの因果関係がありそうな予感を匂わせた。指数関数に虚数を混ぜると三角関数になるというあの有名な公式も見逃せない。
さらに、リーマンは、ゼータ関数に虚数を何の気なしに混ぜてみたところ、素数の新たな展望が開けたという。そして、こんな予想を立てる...

「ζ(s) の自明でないゼロ点 s は、直線 1/2 上に存在する。」

ちなみに、s が負の偶数であれば、ζ(s) = 0 となり、自明なゼロ点は、s = -2, -4, -6, ... となる。
リーマンが注目したのは非自明な方で、その点在ぶりが素数の点在ぶりに重なるというのである。オイラーが調和級数の中におぼろげに見た素数の風景を、リーマンは解を複素数で抽象化することによって、より明確な素数の風景をあぶり出したというわけか。
ここで重要なのは、ゼロ点の存在位置を直線 1/2 上に決定づけていることである。つまり、これを証明するためには、位置を決定づける法則や公式が必要だってことだ。
ハイゼンベルクの不確定性原理によると、量子の位置と運動は同時に決定づけることができないことになっている。
では、ゼロ点の場合はどうであろう。振る舞いは決定づけることができなくても、位置だけでも決定づけることができれば展望が開けそうである。リーマン予想を証明するということは、ゼロ点の存在位置を決定づけることであり、素数の存在位置も決定づけられるかもしれない。ゼータ関数のゼロ点の風景は、素数の風景の投影というわけか。
しかしながら、この風景がどんな音楽を奏でているのか、人類にそれを聴く資格があるのか、まだ予想がつかない。

ところで、実数部の直線上にゼロ点が点在するとは、何を意味しているのだろう。ゼロ点を境界面にしながら、誤差のような余計な存在が奇跡的に相殺しあうとでもいうのか。量子力学ってやつは、真空に仮想粒子なるものを登場させたり、物質の誕生には反物質なるものを登場させたりと、何もない所でも負のエネルギーを登場させては都合よく宇宙を膨張させてしまう。プラスの現象には、マイナスの現象を無理やり登場させて相殺してしまえば、エネルギー保存則に矛盾せず、うまいこと説明がつくという寸法よ。ゼロ点境界面でも、それと似たような現象が起こっているというのか。
ある振幅の音と、それとは真逆の振幅の音がぶつかれば、互いに消し合い、そこに沈黙が生まれる。素数が奏でる音楽とは、崇高な沈黙なのであろうか...

3. ラマヌジャンの見た風景
分割数は、素数ほどデタラメに分布しているようには見えない。
とはいえ、ラマヌジャンが導いた分割数の公式は、なんじゃこりゃ!平方根やら、πやら、虚数やらが三角関数と複雑に絡み合い、微分まで顔を出してやがる。
Dn ときたら、まるで湯上がり気分の王子様気取り...

  P(n) =   1 
 π√2 
 

1≤k≤N
√k (  

h mod k
ωh,k e-2πi(hn/k) ) Dn  + O(n-1/4)

  Dn  d 
 dn 
{ ( cosh (  π√(n - 1/24) 
 k 
√(2/3) )  - 1 )/ √(n - 1/24) }

しかも、分割数の増え方は、量子力学や統計力学で分配関数と呼ばれるものに相当し、量子系のエネルギー準位を代弁するような関数だという。
ちなみに、フィボナッチ数にも自然界と不思議な関係が見て取れる。ヒマワリや松ぼっくりの種子の成長、巻貝の螺旋形状、兎の繁殖モデル、等々。フィボナッチ数列は黄金比に収束し、黄金比をもつ相似形には自然美に通ずるものがある。
だからといって、分割数の公式の複雑さは、自然美とは掛け離れ、とても人間業とは思えない。すると、デタラメ度からいって素数の公式は、もっと複雑になるというのか。やはり人間を超えた能力でなければ...

ところで、ラマヌジャンが示した無限和は、素人目にも驚異的である。

  1 + 2 + 3 + … + n + … = -   1 
 12

自然数の総和が、マイナスの分数に収束するというのだから、当初、奇人変人として相手にされなかったのも頷ける。これを変形すると...

  1 +  1 
 2-1
 +   1 
 3-1
 + …   1 
 n-1
 + … = -   1 
 12

なんと、ゼータ関数に -1 を入れた時の答えだ。これを発見したラマヌジャンの経歴も驚異的である。なにしろ、ヒンドゥー教の事務員からの転身だ。これも突然変異がもたらした自然美の一つであろうか...

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