社会学者ポール・ラザースフェルドは、コミュニケーションには二段の流れがあるという。そして、集団や個人の意思決定に関与するオピニオン・リーダーの存在を唱える。
ただ、原書の刊行は、1955年とある。既にこの時代に... これは、コミュニケーション研究を方向づけた記念碑的な書だそうな...
尚、竹内郁郎訳版(培風館)を手に取る。
「いろいろな観念はラジオや印刷物からオピニオン・リーダーに流れ、さらにオピニオン・リーダーから活動性の比較的少ない人びとに流れることが多い。」
ソーシャルメディアが勢いづく現在、個人への注目度が増し、インフルエンサーという用語が飛び交う。その道の専門家よりも洗練された情報や知識を伝える人も少なくないが、その一方でマスコミがマスゴミ化していく。戦時中、国民は洗脳されていたという評論を耳にする。だから、特攻のような無謀な戦術がまかり通り、侵略地で残虐行為が正当化された、と...
だが、それは本当だろうか?そして現在は?大本営は厄介な存在だが、大本営の乱立は、もっとタチが悪い。一本化していれば、欺瞞から逃れやすいものを...
二段の流れ説は、情報源であるマスコミへの批判に対して、責任回避にも利用される。すべては自己責任で... と。そして、自己責任という用語まで、お前が悪い!という意味で使われる始末。
いまや、いいね!や星の数、あるいはクチコミやフォロワーが世論を煽り、所々にカリスマ師が湧いて出る。情報拡散は発信者自身ではなく、それを後押しする同調者たちが、いや、それ以上に反論者たちが、いやいや、理性の検閲官どもが... そして、あらゆるメディアで、コメンテータ排除論がくすぶる...
オピニオン・リーダーは、権限や制度が後ろ盾になった職務上のリーダーとは違い、インフォーマルな集団で発生するという。無秩序の中に秩序をもたらすとは、これぞ真のリーダー像か。彼らは、情報源となるメディアと情報消費者の間を媒介し、情報収集に重要な役割を担う。
しかしながら、その立ち位置は微妙で、世論の扇動者にもなりうる。それは、人の姿をしているとは限らない。商品や映画であったり、新聞やテレビであったり、書籍やネットであったり、様々な形に扮して仕掛けてくる。
ヤラセやサクラといった手口は古くから散見するが、情報過多の時代では、誇大広告のみならず虚偽広告やステルスマーケティングなど、手口はますます巧妙化していく。情報発信源ばかりか、オピニオン・リーダーの存在までもステルス化してりゃ、世話ない...
なにゆえ、人は情報に群がるのか。ただ知りたいだけか。それとも、情報を共有することによって自己の居場所でも求めているのか...
オピニオン・リーダーは、自分がリーダーであることを自覚している場合もあれば、無意識に行動している場合もあり、ある時は情報の発信源となり、ある時は着想の裁定者となり、ある時は思案の伝道師となる。
情報は言語や記号に形を変えてメッセージとなり、人は言葉に惑わされ、映像に惑わされる。言葉の暴力という形容もあるが、これほど力強いものはあるまい。小集団の中では合言葉や流行語が生まれ、帰属意識を高める。所有意識と相いまって。共感できる連中の中にいると居心地がよい。自己を意識すればするほど。人はみな、孤独ってやつが大の苦手と見える。
相互依存関係をもった人々は、相互に同調を要求するという。互いに類同性を維持しようと。類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。
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