2013-10-20

"言葉と物" Michel Foucault 著

またもや悪い癖が... 難解な書き手を前にすると、ついムキになってしまう。怖いもの見たさというやつか。我武者羅に読んでいるうちに、文章のリズムがあってくることもあるのだが... これでフーコーを連続五冊!実はもう一冊、目の前にあるのであった...

この書は、言葉の実存を問うた物語である。言葉ってやつは、実に奇妙な存在である。単なる音声や記号でしかないのに、精神と結びつくと強力な武器と化す。交わす言葉は微妙な距離をはかり、言葉のキャッチボールはすぐさま言葉のドッジボールへ変貌し、やがて言葉のビーンボールが頭をかすめる。おまけに、単語や行間に隠される言葉を察知したり、無言ですら何かを物語る。テレパシーってやつが心の記号を暗黙に呑み込み、恋の達人ともなればウィンクひとつですべてを語ってやがる。そんな魔力が内包されているものに、どうして実体がないと言い切れるだろうか?
言葉には、情報伝達としての役割もあるが、思考の材料や思考の構成要素としての役割がある。人間が思惟する存在であるとすれば、言葉は精神の内に生じる表象作用の翻訳語となるだろう。そう、言葉は、自己存在を確認するための道具でもあるのだ。
思考の源泉が言葉にあるのか?はたまた言葉の源泉が思考にあるのか?いずれにせよ思考の限界を試すということは、言葉の限界を試すことになろう。そして、言葉に実存を求めるということは、ひいては精神の実存を求めることになる。言語の体系は、音韻論、意味論、記号論、文法論... などの複合体を形成する。フーコーは、これらを総体として眺め、「言説(ディスクール)」という用語をあてる。
とはいえ、物理的にはシリアル化された記号の羅列でしかない。にもかかわらず、文章の達人にかかれば、読み手の心の内に立体映像までも生じさせる。画家がキャンバスの上に動的な物語を描写するように、小説家はページの上に物語の奥行きを体現する。フーコーの書にしても、目の前の文章を追いかけるだけでは何を語っているかが一向に見えてこず、立体的な観察を要請しているかのようである。国語辞典や百科事典といった権威主義に陥っては、けしてできない芸当であろう。一般文法で規制するということは、思考の自由を束縛するに等しい。抑制の強いところに皮肉や寓意といった文化が生じるのは、人間が本質的に自由を求めている証であろう。もはや、言語は自律的な有機体として存在する。しかも、人間の意思とは無関係に。言語の体系が精神の投影であるならば、その系は人の数だけあるということか...

ところで、疑問を持たずして思考を働かせることはできるだろうか?無条件で信じられれば楽になれるが、思考を停止させる恐れがある。なぜ?なぜ?...と鬱陶しく問うガキどもが、最も純粋な哲学者と言われる所以が、ここにある。そして、思考した結果生じる批判的思考が思考そのものを深め、カントの批判哲学が一段と輝きを放つ。
「認識と言語(ランガージュ)とは厳密な意味で交錯する。両者は、表象のうちに同一の起源と同一の機能原理をもち、たがいにささえあい、補いあい、たえず批判しあう。」
デカルト風に、人間を思惟する存在で、神の存在を認識できる能力があると定義すれば、他のいかなる動物よりも優越するいう自負が生じる。実際、神を認識できる存在が、反省する自律的な存在となっているだろうか?知が記述として残され、歴史の時間軸に墓標を刻むことができれば、永劫回帰も夢ではないかもしれない。
しかし、人間の最も得意とする技に、忘却ってやつがある。都合の悪いことは見ないだけでなく、実体験してもなお忘れることができる。ヘロデ王の幼児虐待は市民レベルにまで抽象化され、近年まで実施されてきた。醜い歴史は繰り返され、英雄伝説は猿真似に化けてきた。前向きな思考の根源は、無知の楽観性というやつであろうか。精神ってやつは、誤謬、妄想、無知のうちに連続性の秩序を失い、没落していく存在なのか?ならば、最初から思考を歴史から切り離し、機械的に構造的に理解しようとする試みは、客観的に機能するかもしれない。だが、いくら客観性を崇め、科学に頼ったところで、不完全性定理や不確定性原理からは逃れられない。人間精神は、自己矛盾と非連続性という最も苦手とする思考原理に憑かれたままでいる。

1. 人文科学の幕開け
17世紀から20世紀頃、科学の知、すなわち人間の知が宇宙を完璧に説明できるとし、人間中心主義を加速させてきた。ガリレオやニュートンから受け継がれる科学が次々と成果を挙げていく中、人間にまつわる学問においても、人体と精神を分離した分析が試みられ、人文科学、社会科学、人間科学などの分野が生じる。社会学は疎外のメカニズムを社会構造に求め、経済学は価値の流動メカニズムを合理主義に求める。言語学も例外ではなく、機械論的思考に見舞われ、やがて構造主義へと展開される。
だが、言語学者ソシュールは、シニフィアンとシニフィエ、すなわち記号作用と意味作用は分離不能な存在とした。こうした思考の歴史を眺めると、人間の客観性への憧れは半端ではないようである。客観的に語ると宣言された有識者どもの主張が、客観的だったためしはない。無い物ねだりというやつか?
さて、客体とは何であろうか?第三者か、いや、もっと崇高な神への思いであろうか。その証拠に、他人に指摘されると、むしろ意固地となる。神の言葉なら素直に受け入れられるというのに、耳には届かない。人間ができることと言えば、神の思惑を信じて直感に耳を傾けることぐらい。だが、ア・プリオリな認識が誤謬に包まれると恐ろしい。なにしろ科学は宗教レベルにまで押し上げられるのだから...
「人間精神は、本来、物のなかにある以上の秩序と類似を想定しがちである。自然は例外と相違にみちみちているのに、精神はいたるところに調和、合致、相似を見る。」

2. 思考のスケッチと有限原理
思考のための記述と言えば、箇条書きが基本になろうか。画家がスケッチを繰り返せば、アトリエには視覚的言語で溢れる。同様に、思考のスケッチを繰り返せば、散文で溢れる。
しかしながら、万能な言語は存在しない。論理的に優れた言語もあれば、芸術心をそそる言語もある。各々に長所と短所が含まれるとすれば、言語が多様化するのは自然であろう。自国語の特徴を把握する上でも第二外国語に触れる機会は貴重であり、翻訳の意義はこうしたところにも現れる。まさに、記述のスケッチには文化のスケッチが含まれ、フーコーの書は文化の翻訳の難しさを提起してくれる。
ところで、人間が認識できないものが、言葉となりうるだろうか?その微妙な境界に無限という語がある。人間は、有限については実にうまく説明できるのに、無限となると途端に説明できない。せいぜいアレフのような数学記号を持ちだして、有限と区別するぐらいなもの。つまり、人間ってやつは、存在という認識を通じて、無存在までも認識していることになる。そりゃ、実空間と仮想空間が区別できなくなっても不思議はあるまい。
では、精神がなんとなく認識できるのに、その存在となると説明できないのは、そこに無限性があるからであろうか?もし、精神が有限の存在だとすれば、知にも限界が生じるだろう。だが、人間の欲望はいまだ限界が見えてこない。存在しようがしまいが、有限だろうが無限だろうが、人間認識の産物に過ぎないということか。人間は、新たな認識が生じる度に新語をこしらえ、言葉を手がかりに思考を働かせる。カントのア・プリオリやニーチェの永劫回帰といった用語が生じるのも、精神の限界に挑んだ結果であろう。それが幻想であると、薄々気づいていても...

3. 古典主義時代のエピステーメー
フーコーは「エピステーメー」という知の枠組みを提唱し、古典主義時代の知の原理に「マテシス」「タクシノミア」「発生論」という三つの概念を結びつける。マテシスとは、代数学を普遍的方法とする概念で、タクシノミアとは、複雑な自然を秩序づける時に成立させる概念で、前者を相等性の学、後者を秩序の学としている。だが、互いに対立するものではなく、補完しあうものらしい。マテシスは単純な自然法則のようなもので、タクシノミアは複雑な表象のようなものであろうか。
17世紀、18世紀における知の中心は、「ポール=ロワイヤル論理学」に代表されるようなタブロー(表)にほかならないという。タクシノミアは同一性と相違性を扱うといういうから、記号を用いて事物を分類する原理が含まれている。そして、双方とも記号の体系を設定することになる。
タクシノミアはマテシスの中に宿り、それでいてそれから区別され、発生論はタクシノミアの中に宿るという。タクシノミアが、可視的相違性のタブローを設定するのに対して、発生論は継起的系列を前提にするとか。マテシスがモナドロジー的な普遍認識だとすれば、タクシノミアは複雑な現実認識であり、さらに発生論という時間認識を配置するといったところであろうか。人間認識から時間の概念を分離しようとする企てにも映る。しかし、精神ってやつは、時間の概念を失った途端に無に帰するような気もするけど...
古典主義時代の知が、ガリレオやデカルトに絶対的な地位を与え、合理主義的なものであったのは確かであろう。だが同時に、悟性の観念に対抗するかのごとく、生命や経験に制御しがたい無秩序を予感させてきた。
「タクシノミアは、マテシスとの関係においては命題学にたいする存在論として機能し、発生論にたいしては歴史との対比における記号学として機能する。かくしてタクシノミアは、諸存在の一般的法則を規定し、同時に諸存在の認識が可能であるための諸条件を規定する。古典主義時代における記号の理論が、自然そのものの認識と称する独断的様相をおびた学問と、時とともにしだいに唯名論的・懐疑論的になっていく表象の哲学とを同時に担いえたという事実は、まさにこのことに由来するのだ。」

4. 言葉の経済原理
アダム・スミスは、著書「言語の起源と形成に関する考察」の中で、こう述べているという。
「どんな小さな形容詞をかたちづくるにも、どれほどの形而上学が不可欠であったことか」
経済学の父とされる人物が言語学に言及しているとは少々驚きであるが、むしろ哲学者として名声を博していたということであろう。経済では、交換によって富が創出される。知もまた交流によって価値が創出されるとなれば、ここにも経済原理がある。価値の換算に貨幣が用いられ、知の表記に言語が用いられるとなれば、どちらも仮想的な存在となる。貨幣の流通量が多過ぎれば経済危機を招き、言葉の交換が激しければ人間関係が破談になる。貨幣の利息はリスクを計測し、言葉の利息は余計な言動となって返ってくる。富が貨幣の量で決まるとすれば、知は記述の量で決まるのかは知らん。言葉の重みってやつも、幻想なのかは知らん。富への群がりと知への群がりという行動原理には、似たところがある。MBAの取得や人気の学問に群がるの見れば、リカードの比較優位説のごとく、専門知識の比較優位説として知識の合理性を求める。
しかし、真の研究機関は、誰も手を出さないところに意義を求める。地道な研究を持続することこそが、学問の底力として蓄積されることを知っているからだ。役立つ知識ばかりを狙えば思考の柔軟性を失う。金儲け主義や売上至上主義といったものが、経済活動の柔軟性を奪うように。
さらに、経済原理を根底から支える原理に信用というものがある。経済活動においては、契約という形で実践される。契約行為では、誤謬、誤解の類いが必ず生じ、同意、成立、承認などの行為が慣習になっていることが前提される。現実に、巧みな記述によって、不平等契約を結ばされるケースも多い。ちなみに、ルソーは著書「人間不平等起源論」で、「いかなる言語も人々のあいだの同意にもとづくものではありえない」という考えに注目しているという。
確かに、言語を通じての認識合わせには限界がある。思考するという行為、あるいは解釈するという行為そのものが、主体に委ねられているのだから。そして、人工言語は、絶えず認識の限界に挑むことになろう。経済循環が富の限界に挑むように...

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