2013-10-27

"言語表現の秩序" Michel Foucault 著

分かりやすい書は目の前を通り過ぎて行きやすい。そこに疑問を感じなければ、思考する機会も訪れない。その点、難解な書は思考の材料にうってつけか。だからといって、理解できると期待してはいけない。目は文章を追うものの、頭は別のことを思い浮かべ、幽体離脱したような気分にさせやがる。絵画を鑑賞するようにページを眺め、数十ページ単位で後戻りすることもしばしば。少し目を離し、遠近法のような立体的な観点を要請してくる。そういえば最近、近くが見えにくい... 老眼って言うな!

思考から言葉が生じるのか?言葉から思考が生じるのか?いずれにせよ、言語が人間認識の手助けをしてくれるのは確かだ。頭では分かっているつもりでも、具体的に説明しようとすると、意外と分かっていないことに気づかされる。言葉の用いようは、記述と喋るのとでは、似ているようでまるっきり違う。記述する時は、文法や脈略に注意し、論理性に配慮する。自我のうちに第三者の存在を配置するかのように。
一方、喋る時は、そんなものを一切考えず、口の動きに任せて音を発する。話の展開や会話のリズムに身を委ねるかのように。雛形文法のような秩序が経験的に培われ、その隙間に言葉を埋め込んでいるだけなのかもしれない。口癖というやつであろうか。
記述にせよ、喋るにせよ、思考した事を表そうとすれば、記号に頼ることになる。文字記号や音声記号などに。数学も数学記号で表す言語とすることができよう。もっと言うなら、あらゆる学問は専門用語で形成された言語の体系のようなものか。「客観性」という用語一つとっても、数学と他の学問では抽象レベルがまったく違うし、「信用」という用語は経済学では異質となる。哲学では、面白い光景を見かける。一つの用語を様々な意味合いで用いたり、逆に多くの用語に同じ意味を与えたりと。哲学書が難解となるのは、宿命であろう。なにしろ精神を語ろうというのだから。
人間は、精神の存在をなんとなく感じることができても、いまだ明確に説明することができない。つまり、人間は自分自身の正体すら、よく分かっていないことになる。そして、精神を言語で表そうとすれば、言語の限界に挑むことになる。自ら編み出した人工物への挑戦となれば、既に自己矛盾を孕んでいる。言語は、あくまでも記号でしかないのに、人間が解釈を試み、思考した途端に意味作用が生じる。仮想的な実体形成とでも言おうか。言語が精神の投影となった時、そこにある種の体系が形成され、有機体のような存在となるのだ。その証拠に、国語辞典のような権威が存在するにもかかわらず、誰一人として同じ言葉を喋っちゃいない。
となると、精神現象もまた、単なる記号のようなものから生じるのだろうか?クラウド社会に浮遊するデータ群は、コンピュータによって解釈が試みられた途端に情報社会を席巻し、やがてビッグデータが一人歩きを始める。人体にも、DNAという半永久的なデータ列が存在するとなれば、精神とは、DNA情報に思考が媒介した現象であろうか?記号という薄っぺらな存在に、思考という認識行為が結びつくと、そこに実存という得体の知れない意識が生じる。実存なんてもの、ひいては精神なんてものは、認識の産物でしかないということか。精神の正体を突き詰めれば、言葉を枯渇させ、思考を枯渇させ、精神を枯渇させるというわけか。言語に無限の可能性を与えれば、精神の限界にぶち当たり、沈黙せざるを得なくなる。精神の枯渇から救済できる唯一の方法が、これであろうか。なるほど、神は沈黙したままでいる。

本書に紹介される古井由吉氏の言葉が、なんとも印象的である。
「書くことがあるうちはまだ駄目なのだと以前から考えている。書くことが思い当るうちは、表現はまだほんとうに真剣ではない。発想が底をついて、しかも表現意欲だけが動いているという状態があるはずだ。その時、私は自分の有りようから、世間の中に有る、血縁の中にある、あるいはただ椅子の上に座って有る、その有りようから、確かな言葉を掴み出すかもしれない。その時がやって来るまでに、私はすくなくとも、日常のとりとめのない意識の断絶の中で、自分が端的に有るその有り方への感覚をいくらかでも磨ぎ澄しておかなくてはならない。」

1. ディスクール(言説)
フランス語の「ディスクール」は、一般的に「言説」と訳されるが、もともとはギリシア語の「ロゴス」に由来するそうな。その意味は、話、講演、授業、説、論... から「思考の言語的表現」にまで及ぶという。ロベール仏語辞典によると、こう記述されているとか。
「言語体系(ラング)が構成する抽象的なシステムに対立する、言語における具体的な、言表の総体(エノンセアンサンブル)」
他にも、言述、叙法、話し方、論述、陳述、説術、述語などの訳語が当てられるようで、多様な用語であることが見て取れる。尚、フーコーは六冊目になるが、「言語の体系」や「知の体系」といった論理的な記述に近いような意味で読んできた。勝手な解釈だけど...
さて、言語の体系とはいかなるものであろうか?言語に精神が結びつくと、そこに自律的な有機体もどきが生じる、とでもしておこうか。人間社会では、人間の意思とは無関係に、言葉だけが一人歩きを始める。人間が思惟すると、実に恐ろしい。なにしろ、記号でしかない存在に、意思までも植えつけてしまうのだから。時には、正義の言葉となって法に基づかない社会的制裁を加え、時には、誹謗中傷の類いが集団的暴力となって公開処刑を施す。ミサの聖祭に至っては、パンやぶどう酒にキリストの肉と血を体現させる。
精神を言葉で語ろうとすれば、無を語ろうと必死になり、幻想までも実体に変えてしまう。もはや、言語の中に精神があるのか?精神の内に言語があるのか?も判別できない。ディスクールってやつが、精神の秩序を投影するような存在だとすれば、言葉に権威を求めるのではなく、自然に発する言葉を解放してやらなければなるまい。そして、精神の秩序とは、ア・プリオリな認識に身を委ねることになろうか。ちなみに、アル中ハイマーは、これを、崇高なる気まぐれ!と呼ぶ。

2. 構造主義批判か?それとも、風潮批判か?
「語彙の不足した人々は、もしそれが、真実よりも耳ざわりのいい言葉を好むならば、それこそ構造主義なのだ。」
フーコーは構造主義の批判者とされるが、構造的に分析しようとする立場そのものを批判しているわけではなさそうである。ただ、彼自身を含め、レヴィ=ストロースやアルチュセールといった人物が、構造主義者として一括りにされることに我慢がならないようである。構造主義への批判というよりは、構造主義という言葉を持ち出す論調への批判と言った方がよさそうか。
人は皆、なんでも一括りに分類する癖がある。人のタイプを相性で種別するのは、存在意識が働いているからであろう。自分をどこかのカテゴリーに属させて安住したいのか?あるいは、言語をもって自己存在を正当化したいのか?は知らん。有識者たちもまた、何々主義という枠組みに押し込めるのがお好きなようだ。そして、ある政治屋は国民の代表者のように語り、ある報道屋は市民の代表者のように語り、ある女史は女性の代表者のように語り、ある若者は世代の代表者のように語る。なによりも、知の象徴とされる学問が、最初にカテゴリー化や分類を試みる。逆説的ではあるが、こうした分析手法を試みない限り、多様性という本質も見えてこないだろう。フーコーもまた、言語の主体分析でソシュール的な記号原理を語っている。
「それが創造的主体の哲学のうちにあろうと、始源的な経験の哲学のうちにあろうと、あるいはまた、普遍的媒介の哲学のうちにあろうと、言説は、第一の場合には記述の、第二の場合には読解の、第三の場合には交換の、働き以上のなにものでもありません。そして、これらの交換、読解、記述は、絶対に記号以外のものを働かすことはない。こうして、言説は、その実存性においては、自らを記号表現(シニフィアン)の秩序に置くことによって、無にひとしくなるわけであります。」

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