2013-10-06

"知の考古学" Michel Foucault 著

能動的に読める時はすらすら頭の中に入ってくるのに、受け身で読まされる時はなかなか頭の中に入ってこない。何度も同じ行を目で追い、単語に振り回される感じ。フーコーの文章はフランス人の間でも難解とされるようで、どうやら翻訳のリズムが合わないだけではなさそうである。おかげで、もう一冊!もう一冊!と悪い病を患う。知を究めるには、精神の破綻を覚悟せよ!とでもいうのか?... そうかもしれん。

さて、「知(サヴォワール)」とは、なんであろうか?知性、知恵、知識、知覚... こうしたものすべてが含まれるのだろう。そして、その結果生じる「思考する存在」とでもしておこうか。
知的活動を促進する学問は、人間が認識しうる様々な現象から一般性や法則性を見出し、未来への展望を図ろうとする。そこで最初に試みるのが、カテゴリー化や分類で、同一性や属性といった枠組みから抽象化の骨格を組み立てる。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体は、何かを基準にして比較しながらでなければ、物事を知ることができない。そして、知的活動を深化させると、専門化と細分化が進む。学問が高度化するほど知識交流を怠り、「知」の縦割り構造を促進するとは、これいかに?古来、学問の本来の姿は、総合的な能力の結集であった。人類は、自ら編み出した高度な「知」によって、精神を破綻させるのだろうか?
近年、あらゆる学問分野で科学的手法が用いられる。社会科学、精神科学、人文科学... 科学は極めて客観性と相性がよく、主観性の強い人間にとって弱点を補う有効な手段となる。しかし、科学的分析が目指すものは一般性や法則性を導くことであり、人間精神を相手取る分野とは相反する面がある。心理学や精神医学といった分野では、一般性よりも多様性の方が、法則性よりも矛盾の方が適合しやすい。いくら病状や症候群で分類したところで、実際には、個人の性格や精神状態などを考慮して対処することが求められる。そうなると、客観と主観の境界を、科学と非科学の区別で説明ができるだろうか?実は、本書に登場する最も重要な概念に「多様性」「矛盾」がある。一般性と多様性、法則性と矛盾、こうしたものに境界を設けても意味がない... とでも言っているような。
数学者ライプニッツは、空間を構成する最小単位は物理的な原子のような存在ではなく、モナドというけして分離できない複合体であるとした。言語学者ソシュールは、言語記号に内包される二つの性質シニフィアンとシニフィエ、すなわち表現と意味は分離不能な存在とした。こうした思考の根源を遡ると、古代から盛んに行われてきた「魂と肉体は分離できるか?」という議論へ辿り着く。もしかして、フーコーもまたこの手の議論の系譜にあるのか?あるいは、構造的な見方を批判しているだけなのか?いずれにせよ、「知」とは、総合的な観点にほかならない、と言っているように映る。

さらに、「考古学」とは、なんであろうか?最初から最後まで、それを自問しながら読み進めるが、一向に見えてこない。いまだ人類には「知」の源泉なるものが見えていない... とでも言っているような。その証拠に、科学がいくら進化しようとも、それにともなって精神は進化しているか?と問えば、楽観的には答えられない。
人間の原点を探ろうとすれば、時間を遡ることなる。そこで、事象を時間軸上にマッピングする歴史学は、考古学と相性がよさそうに映る。時系列で考察するということは、連続性のうちに解釈するということだ。しかしながら、物理現象は非連続性に満ち満ちている。
「考古学とは危険な語である。というのは、それが、時間の外にぬけ落ち、今や無言の中に凍結されたさまざまな痕跡を呼び起こすように見えるからである。」
生命の進化には、突然変異という現象がある。歴史の激動期には、人類史上初となる原型のような現象が生じ、変革は異端児たちによって牽引されてきた。そして、平穏時には、経験した思考法を流用しながら、自己の責任から逃れ、派生的な思考が大量生産される。こうした繰り返しを眺めれば、歴史とは連続性と非連続性の組み合わせ、という見方もできるだろう。いや、思考エネルギーの蓄積と解放の繰り返しとした方がいいかもしれない。
また、伝統的な形態では、過去の出来事をモニュメントとして記録に刻む。政治屋どもには銅像になりたがる奴らがいる。お釈迦様が気の毒なのは、仏像にされてしまったことだ。まさか、偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。過去という忌々しい野郎どもと、未来という明るい希望とやらに縋る奴らが、現在という悪夢のうちに手を取り合って、いっそう騒いでいやがる。これが歴史というものであろうか...
そして、思考の原型を遡れば、プラトンとアリストテレスの論争に帰着するように思えてならない。もっと言うなら、プラトンにしても、アリストテレスにしても、記録として残されてきただけのことであって、ずーっと昔の記録媒体のない時代から続いている論争で、彼らもまた先人たちの代理戦争をしていただけのことかもしれん。精神というやつは、数千年前から、数億年前から、あまり進化していないということであろうか。どうりで、知の歴史は考古学から脱し得ず、血の歴史を繰り返すわけだ...

1. 言表(エノンセ)と言説(ディスクール)
知の源泉を探求するのに、言語に着目するとは、これいかに?確かに、知は記述によって蓄積されてきた。フーコーは、「言説(ディスクール)」という語を持ちだして、言語系を総体として観察することを要請する。
「一見したところ、言表は、最終的、分解不可能な、それ自身において分離されるような、また、それと相似た他の諸要素との間で連関が成立するような、一つの要素として現れる。」
さて、言説によって「知」を完璧に記述できるだろうか?あらゆる学問は言語コードで記述され、学問の義務は研究成果を記録として残すことにある。知を思考の結果だとすれば、思考する主体である精神を、言語という手段を用いて記述することになる。精神を完璧に記述できるということは、人間が精神の正体を知っていることを意味し、ここには既に矛盾が含まれている。
それにしても、言語とは、奇妙な存在である。記号と意味が結びついただけの表記の道具でしかないのに、精神と結びついた途端にこれほど威力を発揮するものはない。洗脳者が言葉を巧みに用いるだけで、世論が扇動される。
また、同じ知覚でありながら視覚と聴覚で様相がまるっきり変わり、口語体と文語体でまったく違った形式をとる。小説家のように文章の達人ともなれば、独特な言い回しが現れる。単純で完結した、しかも自律的な文章を目の当たりにすると、そこに哲学が存在する。こうした文章は一つの体系を成していて、文節や文法などで分解することはできない。そこに、主語や述語、あるいは名詞や人称関係といった概念の入り込む余地などないのだ。
「一つの知とは、特殊化された言説 = 実践のうちで語られうるものである。」
実際、日本語という一つの体系を観察してみても、誰一人として同じ言葉を喋っちゃいない。客観的であるはずの専門用語ですら、個人や組織によって微妙にニュアンスが違う。言語が精神と結びつけば、そこに多様性が生じるのは自然であろう。しかも、時代とともに微妙に体系を変化させていく。
「コペルニクスの前と後、ダーウィンの前と後では、同一の言表を構成しない。」
大和言葉は日本固有の語でありながら、もはや現代人にとっては外国語のようなもの。時代感覚は言語系にも反映されてきた。翻訳の意義は、過去の知を現代感覚と結びつけること、あるいは、異なる文化圏の知を持ち込むことにあろうか。もはや言語系そのものが、精神を投影するかのごとく有機的存在である。ついでに、本書も間違いなく一つの言語系を形成している。まるで宇宙人の言葉であるかのような...
フーコーは、言説の広大な表面を分節化するために、「言説形成 = 編制」という形象を持ち出す。通常の学問のようにカテゴリー化や分類という手段を用いるのは、一時的な便宜上の方法であって、真の方法は、言説それ自身に問いかけよ!と。そして、分節化とは、モナトロジー的な、あるいはア・プリオリ的な分解とでも言うのか?もっと言うなら、直感的な?いずれにせよ、言語系を平面的な観点だけでなく、多次元的な観点で捉える必要がありそうだ。精神空間として捉えるがごとく...
「或る言説 = 実践によって規則的な仕方で形成 = 編制された総体、或る科学の構成に不可欠な諸要素 -- たとえそれが必ずしも科学を生ぜしめるべくさだめられていないにしても -- こうした総体を、知(サヴォワール)と呼ぶことができる。」

2. 主体なき知
「考古学的記述は、まさしく思想史の放棄であり、その要請、その手続きの体系的な拒否であり、人々が述べたところについての一つのまったく別の歴史の企てである。」
考古学は、統一性の原理としての主体とは無縁で、連続性や関連性を問わず、寓意的であることを拒むという。考古学記述が明確にしようとするのは、言説に隠された思考、表象、イメージ、主題、執念などではないと。そして、こうした記述は歴史への裏切りであるという。考古学は、思想史と違って、皮相的な瞬間を観察していると批判しているが、それは客観性に縋り過ぎと言っているのか?人間社会では、客観的や科学的という言葉が濫用される。だが、客観的に述べる!と宣言された主張で、客観的だったためしがない。
一方で、科学者の論述の中に、あえて主観的に述べると宣言した、イキイキとした記述を多く見かける。客観性という呪縛から解放されたかのような。やはり人間精神は、自由と相性がいいようである。思考は、主観によって牽引され、客観によって整えられるものであろう。本書には、多分に構造主義への皮肉が込められるが、構造的な思考を排除せよとは聞こえてこない。多様性を解明するためには、逆説的ではあるが、一般性や法則性を仮定してみることも必要である。潜在意識の活性化のためには、まったく違う土壌で思考してみることが求められる。芸術と無関係な世界で生きていても、芸術に触れることの大切さがここにある。思考の柔軟性こそが、知の源泉としておこうか。
しかしながら、思考が煮詰まった時に、新たな思考を試そうとするのであって、最初から柔軟に構えることは難しい。一般性や法則性で説明ができないから、多様性や矛盾に縋る。したがって、知の考古学とは、思考の限界を常に試すということになろうか。これが学問の原点ということになろうか。とはいえ、思考した結果が、本当に自分で思考したものなのか?と自問してみると、いまいちはっきりしない。誰かの知恵を拝借しているだけ、ということはないだろうか?独自の哲学を編み出したと自信を持っていても、古典に触れると、既に誰かが思考した結果であることに気づかされ、がっかりさせられる。学問を始めれば、誰かの痕跡を辿ることになる。赤ん坊が親の真似をしながら学習していくように。思考の原点は、模倣から始まるのであろう。それが猿真似で終わるか、独創性として開花させるかは、その深さで決まるのであろう。思考が遺伝子的に継続されるとしたら、「主体なき知」とはそういうことであろうか。
ちなみに、ゲーテはカントを評して、こう語っていた。「たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている。」と...

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