2013-11-03

"人間悟性論(上/下)" John Locke 著

行付けの古本屋で、久しぶりに興奮するような出会いにありつく。1940年刊行... 日焼けしたページがブランデー色を彩り、年代物の風味を醸し出す。旧漢字が鏤められ、かなり読み辛いが、お構いなし。おかげで、新旧漢字対応表を作成するに至る。なぜ、こんな面倒な作業をやってまで?その気になれば、復刻版を入手することだってできるのに...
実用的でない、無駄に思える事をやることに、若干の喜びを感じるようになったのは確かである。怠惰に生きてきたことへの償いであろうか?有から無へ気移りしたのであろうか?酔っぱらいごときが生きていること自体、無駄なのかもしれん。無用や無駄といった定義は、生き方にも関わる。生き方が変わってきたということか?いや、神経が泥酔してきただけよ。もちろん酒にではなく...  君に酔ってんだよ!

ジョン・ロックは、イギリス史上で多難な時代を生きた。それは、清教徒革命や名誉革命で代表される内乱に見舞われた時代である。ちょうどスピノザと同年で、デカルトを引き継ぐ世代、スコラ学的なアリストテレス主義の亜流が色濃く残る時代でもあろうか。ロックが悟性論を書したのは、空虚な論争が学問の進歩を阻害すると考えたのかもしれない。
ロックの実存観念は、デカルトの我思う... と似ている。しかし、人間の能力をはるかに謙遜する立場にあり、あえて神の実存認識を批判しているようでもある。神を認識できる能力があるとすれば、人間の理性はあらゆる事態を扱うことができると考え兼ねない。ロックは、理性の存在を認めるものの、それを批判することによって、哲学の任務としているようである。その意味で、カントの批判哲学に受け継がれているように映る。哲学が宗教と決定的に違うところは、無条件に信じることを許さず、徹底的に悟性を働かせることにある。そして、答えが見つからず、自己矛盾に陥り、ついには救われないってか...
それでも、ロックは誘なう。人から寄せ集められた意見に頼って、のらりくらりと生きることに満足せず、自分にとっての真理ってやつを発見してみてはいかがかと。真理の探求とは、よほど心地よいものらしい。尚、本書は加藤卯一郎氏による部分訳版である。こりゃ、全訳版へ向かう衝動は抑えられそうにない...

さて、人はどうやって自己の存在を感じているだろうか?自己にとって生きている証とはなんであろうか?デカルト風に言えば... 人間は思惟する存在であり、思考を深めることによって神を感じ、崇高な気分を体現する... といったところであろうか。思考を働かせるには、何らかの思考材料を欲する。そこで、人体は知覚という末端の感知機能を具えている。この受動的な知覚能力を元に、自発的で能動的な思考を働かせて、実存ってやつを感じているのだろう。
いま、精神における受動的な働きと能動的な働きを、本書で扱われる「単純観念」「複雑観念」に対応させてみる。
単純観念とは、純粋に物事を受け止めるような精神現象、又は実体を認識するための属性のようなもので、知識の素材とでもしておこうか。それは、色や形や匂いなどの知覚、快楽や苦痛などの感情、運動や静止などの状態である。さらに、かなり微妙ではあるが、1と2は3に等しいといった自明な論理まで含めておこうか。自明とは、何を根拠にしているだろうか?おそらく直観である。ユークリッドは、これ以上証明できない真理があることを、公準や公理という権威と、そこから演繹される定理という形式で示した。無条件に定義されるのだから宗教的ですらあるのだが、普遍性の偉大さが確実に宗教と一線を画す。単純観念が直観の偉大さを示しているとすれば、カントのア・プリオリ的な源泉を感じる。
一方、複雑観念とは、単純観念が相互に関係して結合したような状態、あるいは、その結合した状態に別の結合した状態が関係して結合したような状態... などと言えば、キェルケゴールのあの言葉を思い出す... 「人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは自己自身が関係するところの関係である。すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。」... 狂ったか!
それはさておき、知覚や感情を知識として構築したり、知識の素材を組み合わせて統合観念を形成することに寄与するものが、悟性ということになろう。しかしながら、いくら論証を組み立てたところで、やはり人間は判断を誤る。完全な論証が構築できるほどの情報を揃えることもできなければ、仮に十分に情報を揃えられたとしても解釈した途端に誤謬が生じる。結局、判断力もまた直観に頼るしかない。したがって、悟性論は不完全性定理への道を暗示している... と解するのは行き過ぎであろうか?

1. 観念と生得論批判
「観念」という用語は、掴みどころがなく手強い!本書は、精神の現象や状態や表記、あるいは、知覚を知る過程や意思など、多義的に使っているようである。意識の対象を、心の自己充足という側面から扱うだけでは不十分であろう。そして、思考も一つの観念として、複雑観念に達する過程における精神現象としておこうか。
しかしながら、一切の観念は生得的でないとしている点が、ちと引っ掛かる。知識はすべて経験的だというのだ。すべての観念は感覚または反省からくるとしている。
確かに、知覚や感情を知識とするためには、記憶という機能が必要である。ただ、知識を受動的に捉えすぎている感がある。過去の記憶と現在の知覚を比較しながら知識を形成していくとすれば、もっともらしい。理性そのものが既知の原理であり、命題から未知の真理を演繹する能力にほかならない。論理的な裏付けがあって、理性はより確信へと向かうであろう。
しかし、すべての思考が意識できるわけではないだろう。本能的に善悪を感じている部分もあるのではないか。直観もまた本能的に働く。無意識的に、あるいは、自然本能的に働く思考をどう説明すればいいだろうか?カントは、ア・プリオリな観念に時間と空間の二つのみを置いた。この時点では、まだ理性は生起しない。判断するということは思考を働かせることであり、材料となる情報を辿っていることになる。その材料を、どこかの細胞に記憶される痕跡に頼るとすれば、すべて経験的と言えるのかもしれない。それは、胎児においても機能するだろうし、なによりもDNAという寿命を超えた記憶素子がある。生命の進化が反省からきていると言えば、そうかもしれん。
そうなると、生得の定義も微妙である。どこからを生命と言うのか?精子や卵子はどうか?胎児はどうか?一般的には、母胎から切り離された時とされるだろう。生まれたばかりの赤ん坊が尻を叩くと泣きだすのも、どこかに知識としてあるのだろう。いずれにせよ、証明する術はないだろうし、せいぜい生得的とは言えない?ぐらいなものであろうか。
確かに、先立つ教えは無意識の中にもある。いくら自由意志があると信じたところで、人間の本性の殆どは無意識の領域にある。それは、思いつきや気まぐれといった現象でも説明できそうである。精神を獲得した知的生命体が寿命から逃れられない以上、制御できない自我に弄ばれる運命にある...とでもしておこうか。

2. 数と無限、そして、持続の観念
「数は最も単純な又普遍的な観念である」
悟性において、数学的思考こそが最も純粋ということであろうか。思考の根拠が明確であるということが、どんなに幸せにしてくれることか。数の観念が記憶の助けとなったり、あるいは、自閉症患者が何かを数えることによって心に落ち着きをもたらすといった現象は、このあたりからきているのかもしれない。人間は、計算の観念によって思考を多様化させ、目論見や思惑を巡らせ、計算尽くしで生きている。
さらに、数の体系は、結合と交換の原理によって方程式やベクトル空間までも呑み込み、属性群として見做せる。思考の様態の変化を、思考の材料群による状態偏移として眺めれば、数学の抽象モデルである有限オートマトンを彷彿させる。だが、精神の状態遷移は数学モデルをはるかに超越し、いわば、なんでもありだ。その究極目的に無限が位置づけられる。
しかも、無限の観念は、有限との比較によって、なんとなく捉えているに過ぎない。せいぜい、アレフのような記法を用いて無限と有限を区別しているぐらいなもの。人間は得体の知れないものを「無限」で表記する癖がある。魂の存在が明確に説明できなければ、精神にも無限を結びつけずにはいられない。だが、人体は明らかに有限である。精神が人体の中にあるとすれば、精神もまた有限でなければならないはずだが。なぁーに、心配はいらない。空間が有限ならば、時間を無限にすればいい。たとえ寿命の壁があったとしても、ここに魂の不死が結びつくという寸法よ。知覚能力を獲得し、認識能力を発揮できる知的生命体は、永遠に真理を求め、永遠の記憶としての歴史が受け継がれる宿命、いや義務を背負っているということか?観念の持続、すなわち永遠の思考こそが実存であり、数直線上の無限にほかならない。

3. 神の観念
神への思いは、どこから生じるのだろうか?有限体と無限体が精神の内で融合した結果であろうか?だから、肉体と魂は分離できるか?などと論争を繰り返すのだろうか?宇宙法則のようなものを、神と呼んでいる人もいる。神の存在を天文に求めるのは、自然法則には逆らえないという意識からくるのだろうか?
なぜ、人間は神なんてものを思い描くのだろうか?無限に賢い存在、けして心を乱すことのない存在、絶対に間違えない存在、永遠の魂を持つ存在、すべてを知る存在... などと並び立てれば、なーんだ、単なる人間の憧れではないか!そして、制御できない自我への処方箋として、神のせいにすれば楽にもなれる。
ロックは、神の観念もまた生得的ではないという。神は普遍的原理ではないということか?やはり人工物なのか?神を全能者と定義し、人間の行為を最善のものに導くための善意と叡智を持っていて、しかも、来世において処罰が強制できるとすれば、道徳基準の最高の試金石となる。しかしながら、神は沈黙を守っておられる。おまけに、神の声が聞こえると言い張る仲介者が神の意志をなそうとする。神の命ずることを証明できるとすれば、人間は神を理解できる能力を持つことになる。全能者に対して、なんとおこがましいことか。結局、人間が人間を操る運命にあるわけか。
そこで、実践的に生じるのが、法の観念である。しかも、政教分離という観念を結びつけて機能する。それは、けして神への不信を唱えているのではない。人工物である宗教の虜になってはならないということだ。もし、神というものが存在するとしたら、その規定は一つしかないのかもしれない。だが、人間が創造した途端に多様な規定を必要とする。あえて一つで規定するならば、寛容性ということになろうか。人間は、認識できるものすべてを、実存という名において、一つの規定で説明できないと心が落ち着かない。ただ、それだけのことかもしれん。
「最大の実証的な善が意志を決定するのではなく、不安がこれを決定するのである」

4. 関係の観念
これが、最も重要な観念かもしれない。おそらく、思考の多様化は、複雑な知識の関係付けによって生じるのだろう。ロックは、単純観念や複雑観念が様々な形で関係することによって、観念の飛躍のようなものを語ってくれる。まさに量子進化論!悟性の原理とは、こういうことのようだ。
「相互に矛盾しない観念から作られた混合様態は実在的である」
論理的思考は、分類化、抽象化、階層化、構造化といった原理に支えられる。そして、人間認識は、あらゆるものを相対的な関係によって結びつけようとする。無意味などと判断すれば思考は停止し、無関係と判定すればそこに観念は生じない。おそらく、天才は関係付けの感性が卓越していて、凡人には気づかないところに関係性を見出すことができるのだろう。独創力、創造力、思考力の源泉は、ここにあるのかもしれない。
一方で、凡人は真に無関係なところに無理やり関係を生じさせ、精神の安住を図ろうとするために却って錯乱する。関係の基本には空間と時間があり、同郷や同年代というだけで意気投合する。また、努力を無とすることを極端に恐れ、何事も原因と結果を結びつけずにはいられない。そして、関係が失われれば、急激に不安に陥る。すべての観念の原理は、神の観念と同様、不安解消にあるのかもしれん。

5. 言葉の意義
悟性の産物に言葉という様態がある。言葉の体系には、言語的表記から絵画や音楽といった芸術的表記まで含めておこう。言葉とは、実に奇妙な威力を持っている。ぼんやりとしか認識できないものでも、名前を付けた途端に明確に認識できたと思い込めるのだから。神という用語を編み出したおかげで、実存の概念すら変えてしまう。仮想化社会へ邁進できるのも、言葉のおかげであろう。仮想化社会には、実に曖昧な用語で溢れている。知識がクラウド化すれば、雲のように消えていく。なるほど、無形を有形とする手段が、言葉というわけか。そして、言葉によって仮想と現実が融合すると、逆に精神は分裂し、エネルギー保存則は保たれるという寸法よ。ならば、最初から現実を幻想としてしまえば、惑わせることもあるまい。人間関係や人間社会、あるいは自己存在そのものが、言葉によって形成された幻想なのかもしれん。
「観念から成り立つ知識はすべて幻想であり得るのみである」

6. 理性の観念
「我々の能力を知ることは懐疑論と怠惰を矯正する」
自分の能力を知ろうとすれば、自己を検分することになり、その過程で何が不足し何が必要かを見積もることができる。自ずと間違いや偏見に気づくことになろうし、無闇に否定的な態度をとることもなくなるかもしれない。悟性によって導くことのできない領域があることを知れば、自己に言い訳をすることもなくなるかもしれない。となれば、自分の理性に自信を持った時点で、理性は崩壊していると見なさなければなるまい。
ところで、理性はどこから生じるのだろうか?無理性な人間が語っても詮無きことだが、それを検証しようとすると極めて直観的にならざるをえない。理性とは何か?と自問したところで、無闇な欲望の抑制ぐらいしか答えられないし、物事の道理を考えて行動しているわけでもなければ、自己の中に啓示のようなものがあるわけでもない。欲望が直観的なら、その抑制も直観的であることは、道理であろうか。酔っぱらいの悟性は、既に熱情の病に蝕まれ、常に危うい状況にあると認めざるを得ない。
ロックは、真理を愛する人は希で、そう確信する者も非常に少ないという。学問が、名声を得たいとか、安定した職業に就くためとか、高い給料を得るためとか、そうした道具にされているのも確か。誰もが流行りの学問に飛びつく。人間ってやつは、無駄な努力を極度に嫌う性質がある。とはいえ、そうした動機も経験する必要があろう。合理性の観念を経済的視点だけで判断するのは不合理だということを、より確かなものにするためにも。
「真理を愛さない人は、それを得るために大した骨折をしないし、又それを見失っても大して憂慮せぬものである。学界に於ては自ら真理を愛する者であると公言しない人は誰もない、そしてそうでないと思われて気を悪くしないような理性的創造物は一人もない。」

7. 悟性と客観性
本書は、悟性の領域に持ち込むための科学の役割について述べ、締めくくられる。それは、次の三つの段階において、科学を用いることであると。
  • 第一に、物事のあるがままの性質、それらの関係、及びそれらの働きについての観察。
  • 第二に、理性的な自由意志的行動者としての目的、特に幸福のための指針をもつこと。
  • 第三に、その双方に到達するための方法と手段を思考すること。
これらが、知識の対象の最初の分類だという。そして、それぞれを以下の学問に対応づけている。
  • Physica : 物事の構成、性質、及び作用に関する知識。すなわち、自然哲学や形而上学。
  • Practica : Physicaを役立てるため、実践するための熟練。すなわち、倫理学や道徳論。
  • セメイオウティケー: 符号の学問。すなわち、言語学や論理学。
悟性すなわち知性は、人間の心の営みである。自己を探求し、思考の働くままに自分の姿を投射し、そこに経験を見出す。経験の下で思考過程を蓄積していく。真理の道に終着駅はなさそうだ。あるとすれば、人類滅亡ってやつであろうか...

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