2014-02-02

"生の短さについて 他二篇" セネカ 著

前記事では、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの自省自戒の態度に魅せられた。彼に強く影響を与えたストア派哲学にも触れてみたい。とはいえ、あまり良い印象を持っていない。物理学や論理学を倫理学の中に押し込み、頭でっかちな道徳観念を押し付ける、いわば宗教の臭いがするからだ。しかし、酔っ払いの偏見かもしれない。実際、アウレリウスの唱えた不動心は、セネカあたりから発しているようである。

セネカという人物を知ったのは、タキトゥスの「年代記」を読んでからのこと。彼の死に様が克明に記されている。その箇所を、ちょいと読み返しておこう...
皇帝ネロに対するピソ一派の陰謀が露呈すると、その一味として疑われ自決を命じられる。百人隊長によって伝えられた命令に対して、泰然自若として遺言の書板を要求するも、拒絶される。すると、セネカは友人に言葉を残す。「最も気高い所有物を遺贈したい。それは、私がこの世に生まれた姿だ。」哲学の教えを忘れたのか?長年に渡って考え抜いてきた決意は?そして心の平静はどこへいった?と嘆きながら。生への執着よりも名誉ある死を選んだのは、ソクラテスの精神を継承している。ところが、セネカは相当年を食っていて、節食のため痩せ細り、血の出が悪いために、さらに足首と膝の血管も切られる。ついに友人の医者に毒を与えてもらうが、既に毒も効かないほど手足は冷えきり、五体の感覚も失われている。最後に、熱湯風呂に入り、熱気の中で息絶える。...
その壮絶な死は、画家ルーベンスの作品「セネカの死」にも描かれる。肉体の逞しさなど、タキトゥスの記述とは少し印象が違うにせよ、金属製のたらいに両足を入れて立たされた偉大な哲学者が、口を半開きにし、求めるように右手を差し出しながら、最期の言葉を語ろうとしている。背後で甲冑を身につけた兵士が見守る中、流れ出る血を拭っているのか抑えているのか、たらいの水は赤みを帯びていく。その足元には、言葉を待ち構えて筆を持った者がいて... まさに死にゆく姿が、そこにある。
本書は、タキトゥスやルーベンスの描いたセネカの死に様を、生の意義として蘇らせた作品と言えよう。セネカ哲学とは、生の意義から死を克服する道... とでもしておこうか。尚、ここには「生の短さについて」、「心の平静について」、「幸福な生について」の三篇が収録される。
「畢竟、われわれは必然性に強いられ、過ぎ行くと悟らなかった生がすでに過ぎ去ってしまったことに否応なく気づかされる。われわれの享ける生が短いのではなく、われわれ自身が生を短くするのであり、われわれは生に欠乏しているのではなく、生を蕩尽する、それが真相なのだ。」

人はなぜ、何事も都合よく解釈できるのか?なぜ真の姿を見ようとしないのか?いや、見ようとしないのではない。一向に見えてこないのだ。人間の営みってやつが... 義務は、社会に翻弄され、組織に翻弄され、おまけに自己の欲望に翻弄され、忙殺されていく。今やっている仕事は、義務と呼べるほどの代物なのか?と問えば、生活費を稼ぐためとしか答えられない。何かに燃え尽き、真っ白になると、真っ赤なネオンサインに照らして生の活力を蘇らせる。そして、その繰り返し...
人を難ずる前に我が身を省みよ!とは、実に耳の痛い御指摘である。誹謗中傷の類いは、大方この呪縛に嵌る。人間らしく生きるとはどういうことなのか?と問えば、刺激的に生きたいという願いだけが意識のどこかにある。人間社会そのものが、人間の数だけ無理やりにでも仕事を創出し、義務を創出し、価値の循環を煽らなければ成り立たない世界だとすれば、それは自然に適っているのだろうか?などと問うてみても、そうするしか術を知らない。真の義務や自由とやらは、永遠に見えそうにない。凡庸な、いや、凡庸未満の酔っ払いは大声で人生は短いと嘆き、自然な天才は静かに人生を謳歌する。生は短く、術は長い!とはよく言ったものだ。ならば、のんびりと精一杯生きるしかないではないか...

1. 生の短さについて
植物には何千年と生きるものがあるというのに、偉大な魂の持ち主とされる人間はたかだか生きて百年。あっさりと流れに乗って終焉を迎えるのが、死すべき者の持ち味というものか。しかし、その果敢なさを嘆くのは、生があまりに短いのではなく、多くを浪費するからだという見方も、もっともな話である。セネカは言う。人間の生もまた、立派に全うすれば十分に長く、偉大なことを完遂できるよう潤沢に与えられていると。
「死すべき身ながら、大方の人間は自然の悪意をかこち、われわれ人間は束の間の生に生まれつく、われわれに与えられたその束の間の時さえ、あまりにも早く、あまりにも忽然と過ぎ去り、少数の例外を除けば、他の人間は、これから生きようという、まさにその生への準備の段階で生に見捨てられてしまうと言って嘆く。」
ある者は闇雲に利欲を貪り、ある者は酒霊に憑かれ、ある者は怠惰に耽けり、ある者はあくせく精出す無駄な労役に囚われれ、ある者は公職(好色)への野心で疲労困憊... 莫大な財産といえでも衝動に駆られ、たちまち雲散霧消!仕事にかこつけて、引退したら「第二の人生」などと言って、あたかもそこに希望を見出そうとする。遅蒔きなことよ。寿命が延びれば、生の意義までも先送り。自由の権利をやかましく主張しても、真の自由人になろうとはしない。実は、自由とは面倒なものなのか?アリストテレスが言った生まれつき奴隷ってやつは、あながち嘘ではなさそうである。
さて、セネカの思想の根幹には、ソクラテスの「魂の不死」があるのだろう。注目したいのは、生の意義を求める方法論として死の意義が位置づけられていることである。
「何かに忙殺される人間の属性として、真に生きることの自覚ほど希薄なものはない。もっとも、この生きることの知慧ほど難しいものもないのである。... 生きる術は生涯をかけて学び取らねばならないものであり、また、こう言えばさらに怪訝に思うかもしれないが、死ぬ術は生涯をかけて学び取らねばならないものなのである。」
さらに、閑暇に生の意義を求めることを「不精の多忙」、あるいは「怠惰な忙事」と呼んでいる。あまりの不精のせいで無気力になり、腹が空いたかどうかさえ自分には分からなくなると。
「すべての人間の中で唯一、英知のために時間を使う人だけが閑暇の人であり、真に生きている人なのである。」
生きる術とは、死ぬ術のことであったか。死を恐れ遠ざけるだけでは、生と向き合うことも難しいのかもしれん。死を克服できれば、時間を克服し、生の意義を見出すことができるのかもしれん。そして、有意義に生きよ!との忠告に異論を唱えるつもりはない。
しかしながら、無駄を経験せずして、それを知らずして、有意義を知りえようか?有徳者の言うことを鵜呑みにすれば、宗教の類いと何が違うのか?無条件に信じて生きるだけなら、自己の所有までも放棄することになる。生きる道を探求するには、自律的、自発的でなければなるまい。そこには、寄り道や回り道といった道がありそうだ。生の意義を自問し続ければ、最も恐れる死に対しても自然に覚悟できるようになるというのか?少なくとも、死を恐れるがために、わざわざ死を崇高な地位に押し上げることによって、却って死に望もうなんてことはなくなるだろう。死ぬ瞬間まで生の意義を求め続ければ、現在の名声や地位に縋ることもなく、自我の亡霊に憑かれることもなくなるだろう。そして、死すべき者に安息できる場があるとすれば、それは墓場にしかなさそうだ...
「人は皆、あたかも死すべきものであるかのようにすべてを恐れ、あたかも不死のものであるかのようにすべてを望む。」

2. 心の平静について
友人セレーヌスは「病気でもなく、健康でもない」苛立たしい厄介な精神状態を訴え、セネカに救いを求める。倹約を志したところで、贅沢に目を奪われる。労働を義務づけたところで、怠惰に向かう。善悪も分からず、二つの狭間で遅疑するのが、情念というものであろうか。悩まずともいいことに神経を擦り減らし、自己嫌悪に陥る。それでも、自覚症状があれば、まだ救いようがある。しかし、集団的悪魔になると、どうだろうか?セネカは、民主主義が心の平静を失う恐ろしさについて語ってくれる。
「三十人の僭主がずたすたに引き裂いたときのアテーナイ人の都ほど不幸な都が他に見出せようか。」
ペロポネーソス戦争の直後(紀元前404年)の一年間ほど、スパルタを後ろ盾とした寡頭派の「三十人会」が、アテーナイの実権を掌握し、民主派を粛清して恐怖政治を行った。最も神聖な裁判所アレイオス・パゴスも、理性的な長老議会も、民会も、みな狂気!千三百人もの市民を、それも最良の市民を殺害し、それでも幕を引かず、狂暴さを増していく。そんな渦中にあってソクラテスは、三十人の暴君たちとの間に入って、慨嘆する長老たちを慰め、国家に絶望する人々を励まし、貪欲な金持ちを叱りつけもした。だが、この賢者までも牢獄に閉じ込められ、処刑された。民主主義が暴走すると、法廷の判決までもが世論の機嫌を伺い、法治国家は放置国家となり下がる。
... などと綴ってみると、あまり時代は変わっていないか。人は皆、金銭や地位に嫉妬心と虚栄心が絡むと、偏見に蝕まれ、どことなく怒りを募らせ、隙あらば人を貶めようと狙う。健康な者までも狂気した社会に身を投じれば、心を病んでいく。エリートや有識者や有徳者といった連中が狂うと、これほどタチの悪いものはない。やはり、パスカルが言ったように、人間は狂うものらしい。
「失うよりは手に入れないほうが耐えやすく、容易なのであり、だからこそ、運命が贔屓の目を向けなかった者のほうが、運命に見捨てられた者よりも嬉々としているのだと分かるであろう。偉大な精神を持った人ディオゲネースは、それが分かっていたから、自分から奪われるものが何一つないようにした。」
セネカはめげず、自制心を鍛えよ!と励ます。贅沢を控え、虚栄心を抑え、怒りを鎮め、貧しさへの偏見を棄て、調和の精神をもって質素に価値を見出せと。自然の善行に耳を傾けることができれば、心は自然に平静へ向かうと。世間体や地位、あるいは金銭というものが、いかに自然的でないか、そんなことは凡人未満にだって薄々気づいている。それでも、やめられまへん!やはり、盲目でいる方が幸せなのだ。
「とはいえ、精神を解き放って歓喜と自由へ導き、素面のしかつめらしさをしばしば脱ぎ捨てることは、時には必要なのである。いかにも、ギリシアの詩人を信じれば、"時には狂ってみるのも楽しい"のであり、プラトーンを信じれば、"正気の人間が詩作の門を叩いてもむだ"なのであり、アリストテレースを信じれば、"狂気の混じらない天才はかつて存在しなかった"のである。」

3. 幸福な生について
幸福でありたいと願うのは誰しも同じであろう。だが、幸福をもたらしてくれるものを見極めるとなると、暗中模索にある。一旦、道を誤れば、生を遠ざける危険な道となり、慌てて急げばその呪縛から抜けられない。まずは、自分に足らないものを問うことから始まる。受け入れる度量が準備されていなければ、どんなに優れたものでも見過ごし、挙句の果てに蔑んでしまう。
「この旅にあっては、最もよく踏みならされ、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。」
人と同じであることだけを旨として生きることほど、大きな害悪に巻き込むものはあるまい。自ら判断を下すことなく、他人の考えを当てにするだけなら、過ちは人から人へと伝播する。同じ事柄でも、ある時は是認し、ある時は批判する、といった現象が生じるのは、ただ多数というだけで下されるすべての判断の帰結であるという。そして、外部から毀損されず、征服されない人間を目指し、自ら生の創造者になれ!と励ましてくれる。そのために、知識の裏付けがなくてはならず、知識には恒心の裏付けがなければならないとしている。優柔不断やたじろぎは、精神の軋轢と恒心のなさの証であると...
「現実は、己の悪の弁護人となり、理性に敵対するのが、大衆というものなのだ。自分で選んでおきながら、移り気な人気が向きを変えるや、あの男が法務官に選ばれたとは、などと選んだ当人が驚いている民会での光景も、それゆえである。」
ここで、注目したいのは、エピクロス派の徳と快楽の関係を論じながら、ストア派の信条が語られることである。ストア派が、快楽を容認するのは賢者によるものだけだという。つまり、徳と結びついた快楽を選ぶこと。
「賢者の快楽は穏やかで、控えめで、ほぼ無力に近く、抑制され、ほとんど目立たないものなのである。それも当然で、賢者の快楽は招かれてやって来るわけではなく、また、快楽が勝手にやって来ることがあるにしても、敬意をもって遇されることも、それを知覚する賢者の何かの愉楽をともなって受け入れられることもないものだからである。いかにも、賢者は、真面目なものに遊びや冗談を織り交ぜるようにして、生にそうした快楽を綯い交ぜ、点綴するのである。」
対して、エピクロス派の快楽は、非凡な義務を負わせていると指摘している。一般向けではなく、高等向けということらしい。これを「快楽の毒見役」と称している。毒見役は奴隷の仕事であり、徳を快楽に隷属させるエピクロス派への皮肉というわけか。有徳者や有識者たちにありがちなのが、理想を崇めること。実践的観念がともなわなければ、空論で終わるどころか、むしろ毒となる。そして、ストア派の信条というべきものが、これであろうか...
「大胆にこう公言してよいのである、最高善とは精神の調和である、と。協和と統一のあるところ、必ずや徳があるからであり、不和分裂は悪徳の習いとするところだからである。」

2 コメント:

toto さんのコメント...

相変わらず、すごい読書量と読書ペース。どんな読み方してるんだ、、だだひたすらに驚愕、唖然、敬服。一度、その辺りのヒミツを探りにうかがいたいところ……康

アル中ハイマー さんのコメント...

おっと!英語の先生から... お宅も toto さんでしたねぇ... 笑!
コメントをどうもありがとうございます。
一週間に一冊、多くて二冊ってとこですから、多いってほどでもないでしょう。読書好きは、一ヶ月に数十冊ぐらい読むと聞きますよ。どこぞの大学の先生あたりが言っていたような...
冊数にこだわるのもいかがなものか?おまけに、酔っ払いはお喋りだから、文章にもしまりがない。結局、楽しけりゃええやん!ってとこに落ち着くわけですよ。

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