2018-10-14

"続 誤訳 迷訳 欠陥翻訳" 別宮貞徳 著

日本文学を味わうようになったのは、恥ずかしながら三十を過ぎてから。学生時代の国語の成績は学年最下位で、以来すっかり文学嫌いに。ゲーテやニーチェの作品に救われたといった次第である。
つまり、生涯で読書の対象としてきたものは、ほとんど翻訳語だったことになる。まともな日本語に触れる機会が少なければ、この酔いどれ天の邪鬼の言葉は翻訳語に随分と毒されていることだろう。それにも気づかなければ幸せというものか...
ちなみに、福原麟太郎氏は、かつてこう語ったそうな。
「今は日本訳が原文よりもはるかによくわかり、よく内容を伝え、文章の調子までも写しているから、昔のような心配はいらないのだが、私などは相変わらず翻訳を読まない。これはわるいくせであるとこのごろは思うようになった。翻訳を読む方が、私などの語学力でおぼろ気に原意をたどるよりは、はるかに明確にイメージが読みとれるのである。それに翻訳の方が読む速力は早いし、利点はいろいろあるのだが、いまだに実は私は、そのわるいくせにわざわいされている。」

本編に釣られて続編に突入... 姑チェックはさらに冴え渡る。具体例が豊富で、辞書代わりにもなってありがたい。いつも悩ましい時制や冠詞の扱い、なじまない仮定法の言い回しなど、自然な日本語に変換して魅せてくれる。時には冗長的に、時にはコンパクトに、実に自由度が高い。マークシート式の大学受験問題に至っては、英語力がなくても答えが導ける技まで教えてくれる。そもそも誤った答えは日本語がおかしいというわけだが、それは運転免許の学科試験に通ずるものがある。おいらは翻訳業に携わっているわけではなく、翻訳文を人に披露することがほとんどない立場とはいえ、うまいことやるなぁ... と見とれてしまい、むしろ日本語の勉強になる。
ちなみに、大英帝国時代の外交官アーネスト・サトウは明治維新の回想録の中で、日本語には定冠詞という概念がないことをいいことに、閣老連が責任逃れの曖昧な表現に終始する様を愚痴っていた。

人類が編み出した最強の武器は、おそらく言語であろう。いくら破壊力を誇る核兵器で武装したところで、正義を語れなければ戦争もおっぱじめられない。どんな学問分野であれ、言葉で理論展開される以上、言葉のあり方について無神経ではいられないはずだ。しかし、あまり神経を尖らせば、言語の本質である柔軟性を損なってしまう。言語は、微妙に変化する余地を残すから進化する。言語が精神の投影だとすれば、精神という実体を完全に解明できていない状況で、言語を完璧な法則に乗っ取らせるわけにはいくまい。
国語の乱れということが、よく指摘される。現代人にとって、大和言葉はもはや外国語という感覚。いわゆる日本語英語が、言葉を乱しているところもあろう。リベンジやリスペクトなどは流行語のように使われるが、外国の方によく指摘されるのは、"revenge" は挑発的なニュアンスが強いので、I'll try again... ぐらいにした方がええよ、といった具合。彼らに言わせれば、日本語を乱しているだけでなく、英語までも乱しているというわけである。さすが極東の僻地まで勉強しに来ているだけあって、英語への翻訳の仕方にも神経質と見える。
やはり言語は一筋縄ではいかない。言語の翻訳は、いわば文化の翻訳、いや精神の翻訳。直訳も一つの手段ではあろうが、かなり世界を狭めてしまう。英語の先生ほど英語の存在感を強調するがあまり、英語かぶれな日本語になるのかは知らんが...

しかしながら、本書の議論が、経済学関連の書をめぐってある学者との論争に及ぶと... あなたの勝ちです!あなたの負けです!といった論調に、一気に幻滅。理路整然としているだけに余計に見苦しい。お互い言葉を大切にする立場にありながら、互いに感情的に煽る言葉は、なんとも滑稽である。議論が勝ち負けに及んでしまっては... そして、つくづく思うのである。大人にはなりたくない!と。そういうおいら自身が脂ぎった大人なのである。不快に思うなら、そんな本は捨てちまえばいいのだが、そうはいかない。貧乏性だから尚更だ。この気分を救ってくれたのが、村上陽一郎氏が対談で問いかける言葉である。
「たしかにこなれた日本語、熟した日本語とは言えないかもしれないけれども、外国語の中にある、例えば抽象名詞が主語になって動詞をとるような、日本語にない文脈がでてきたとき、それをできるだけ外国語の文脈に近い形で訳すことによって、そういうふうに連中はものを考えているということを、読者にわからせているというように考えるわけにはいかないでしょうか...」

ちなみに、経済学関連の書をめぐる論争とは、日本語の持つ論理性についてのもの。一方が、日本語には論理性が乏しく、西洋語の論理性を日本語で表現すれば、不自然にならざるを得ないと主張すれば、いや、日本語にだって論理的に表現できる方法はいくらでもあると応じる。そこで、西洋語的論理性と日本語的論理性の対立構図が生まれるわけだが、ネタにされる学者の言い分も分からなくはない。
ただ、あまりに不自然な日本語の言い回しに別宮先生は怒り心頭で、翻訳という仕事に対して何も考えず、哲学がないとまで断じる。
実際、専門用語に違和感のある翻訳語をあてて、その業界で常識化していることはよくあるし、やたら言い回しの難しい文章や、権威ぶった難解な文章にもよく出くわす。その都度、原文が難しいのだろうと想像してしまうが、実はそうでもないらしい。
いずれにせよ、どんな言語にも得手不得手の領域がある。完全な論理性を構築することは、人間の能力ではほぼ不可能であろう...

ここでは、この対立構図をアル中ハイマー流にもう少し発展させてみよう。いや、思いっきり脱線させてみよう...
西洋語と日本語の論理的性格の違いという議論は、言語学でもよく見かける。
さて、論理的思考法には、演繹法と帰納法がある。演繹法は、基本となる大前提から小前提に向かって法則性を導いていくアプローチで、三段論法がその代表。帰納法は、多くの事象から共通点を見出して法則性を導いていくアプローチ。ビジネス戦略では、トップダウンとボトムアップという言い方をするが、それぞれこれに似たアプローチをとる。数学的な論理展開という観点からは、おそらく演繹法が王道ということになるだろうが、現実世界を描写するには、帰納法の方が役立つ場面も多い。その意味では、理想論と現実論という見方もできそうか。
そういえば、ある外国の方が、西洋人の思考は演繹法的で日本人の思考は帰納法的で、その性格が修辞法にも現れる、と言っていた。これに呼応して、個がひたすら論理を組み立てていくか、周りを気にしながら論理を組み立てていくかの違い、と指摘した人もいる。
さらに面白いことに、これらの思考法の違いに、一神教と多神教を結びつけた意見もある。一神教では、神が絶対的な存在だから、ここを大前提として出発して行動が規定されていくのだとか。多神教では、神々が周りの神の機嫌を伺いながら、行動が規定されていくのだとか。そして、西洋的思考はキリスト教のような一神教から発し、東洋的思考は多神教的性格が強いというのである。
なるほど... と感心しながらも、ユークリッドの「原論」には既に帰納法が記述されているけど、と反論したものである。古代ギリシア時代の信仰を一神教とするか、多神教とするかは意見の分かれるところ。ゼウスを主神とした階層構造を持ち出せば一神教と言えなくもないが、この雷オヤジの女たらしぶりときたら、女神連だけでは飽き足らず人間にまで手を出す始末。やはり神にも欠点があり、それぞれの神に得意技があるとする方が収まりがいい。だからルネサンスは、カトリックの抑圧的な一人の神に嫌気がさし、神々の自由ぶりに憧れて古典回帰に走ったのであろうし、それに、この不完全な人間社会を創造してしまったことを、一人の神に責任を負わせるのもどうかと...

まぁ、時々、学術研究都市のサロンで、こんな冗談話で盛り上がっているわけですが、偉い先生方の真面目な論争に、低俗な話題を持ち出してごめんなさい!

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