2013-11-24

"カラマーゾフの兄弟(上/中/下)" フョードル・ドストエフスキー 著

悪い病が... 前記事「罪と罰」の勢いで、この長編まで再読してやがる。おまけに、推理小説風の展開に一気読みせずにはいられない。その展開とは、物欲の権化のようなフョードル・カラマーゾフの血を引く三人の腹違いの息子に、私生児と噂される野郎を加え、おまけに、男どもの強欲に女どものヒステリーが絡んだ恋愛構図ときた。女と遺産が絡むと男どもはいきりたつ、儚い性分よ。そんな中で殺人事件が起こる。「犬神家の一族」を思わせるような地獄絵図、とでもしておこうか。
ちなみに、カラマーゾフという名の「カラ(カーラ)」には、暗黒や黒塗りという意味があるらしい。カラス(黒い鳥)の語源でもあるとか。腹黒さを題材にした定番のような物語というわけだ。しかし今読むと、これほど宗教色が強く、社会批判の強い作品だったとは... 宗教社会も、人間社会も... 世界はカラマーゾフ一家、人類はみな兄弟ってか...

父フョードルは一代で財をなした、というより資産家の生娘を口説いては我が物にしてきた。世間知らずの箱入り娘ともなれば、ちょいワル男にイチコロ!駆け落ちまでする。だが、恋が成就した途端に次の女に走るのが、カラマーゾフの性分よ。息子たちは、幼児期に邪魔にされ、召使や修道院に押し付けられてきた。長兄ドミートリイは、父親の財産を当てにする放蕩無頼な情熱漢となる。次兄イワンは、少年期に気難しく自我に籠り、冷徹な知性人でプライドの高い無神論者となる。しかし、三男アリョーシャだけは、長老ゾシマに心酔する純真無垢な修道者で、実にカラマーゾフらしくない。ドストエフスキーがこの人物を主人公に据えたのは、ブルジョワ社会における道義的退廃やインテリ主義といった風潮への批判であろうか?いや、盲目的に何かを信じれば、毒牙にかかっている。やはり、お前もカラマーゾフか。
「兄たちは自分を滅ぼしにかかっているんです... 父もそうですしね。そして道連れにほかの人たちまで滅ぼしてしまうんですよ。ここには、いつぞやパイーシイ神父の言われた "地上的なカラマーゾフの力" が働いているんです。地上的な、狂暴な、荒削りの力が... この上にも神の御心が働いているのか、それさえ僕にはわからない。わかっているのは、そういう僕自身もカラマーゾフだってことだけです...」
そして、息子らに割って入るのが、フョードルの私生児と噂される召使スメルジャコフ。彼はイワンの独特な無神論に心酔し、しかも癲癇病を患っていて、とんでもない行為に及ぶ。ちなみに、ドストエフスキー自身が癲癇病を持っていたことは広く知られる。古来、癲癇病は「聖なる病」とも「呪いの病」とも呼ばれ、痙攣して意識を失っている間、崇高な気分になれると聞く。その崇高な精神状態が、このようにさせるのか?
ついでに、女性陣も紹介しておこう。貴族女学校出の気高い令嬢カテリーナは、ドミートリイと婚約。ドミートリイにとって、お高くとまった女性を自分に振り向かせるのが快感で、しかも金目当て。一方、カテリーナの力強さとは対照的な存在に、妖艶なロシア美人のグルーシェニカを位置づける。彼女を巡るフョードルとドミートリイの確執は、「二匹の毒蛇が互いに食い合いをやる」構図。当のグルーシェニカも嬉しそうだから敵わん。男性諸君はみな、小悪魔にイチコロよ!
そんなところにフョードルが殺され、しかも事件当夜、ドミートリイが召使の老人の頭を殴って屋敷から出てきた。アリョーシャとグルーシェニカは無実を信じるものの...

ところで、本物語の最大の見モノに、二つの口論を挙げておこう。
一つは、イワンがアリョーシャに議論を持ちかける「反逆」とそれに続く「大審問官」の章。評論家ローザノフは、「大審問官」こそ「この小説の魂である」と指摘したそうな。それは無神論と有神論の対決で、カトリック教批判が思いっきり込められている。イワンは、無神論者というよりフリーメイソンか。正統派とされるヨハネに対して、反正統派とされるトマスが論争を仕掛けているようでもある。
二つは、イワンとスメルジャコフが三度の対面をする場面。カラマーゾフ家では、殺してやる!という暴言を耳にするのは日常茶飯事。そこにスメルジャコフが、自ら及んだ行為はイワンの意志に従っただけという証拠を論理立てて説明すれば、イワンは自分の意志に自信が持てなくなり精神病を患う。「永遠の神がないなら、いかなる善行も存在しないし、すべては許される!」と説いたのはイワンである。スメルジャコフは拳銃自殺に追い込まれる。
いくら自由意志を信じたところで、無意識の領域にも本性が深く根付いている。自分の行動が幻想かもしれないと思い込ませるのも、宗教を無条件に信じ込ませるのも、催眠術のごときものかもしれん。そもそも自発的に考える者が、人に考えを押し付けたりするだろうか?キリスト教徒も、反キリスト教徒も、同じく盲目の信仰に憑かれる。それは、敵意という信仰だ。洗脳によって自問する力をも奪うとなれば、俗界の盲目振りは呆れるほど。敵意に満ちた興奮の前では、人間は為す術もない。そして今、自分には社会風潮に対して問う力が残っているだろうか?社会に洗脳されてはいないだろうか?と問うてみても、俗界の泥酔者にはとんと分からん...

1. 幻の後編構想
冒頭には、13年前の出来事を回想する形で記述すると宣言され、後編の存在を匂わせる。だが、ドストエフスキーは本編を書き終え、三ヶ月後に他界。小林秀雄氏は「およそ続編というようなものがまったく考えられぬほど完璧な作品」と評したとか。まったくである。強いて言うなら、同じく冒頭で主人公にアレクセイ(アリョーシャ)を選んだことが宣言されるが、むしろ、イワンやスメルジャコフの方に大きな意義を与えているように映る。好みの問題かもしれんが...
本物語では、アリョーシャは誰にもまして現実主義者として紹介される。
「奇蹟が現実主義者を困惑させることなど決してないのである。現実主義者を信仰に導くのは、奇蹟ではない。真の現実主義者は、もし信仰をもっていなければ、奇蹟をも信じない力と能力を自己の内に見いだすであろうし、かりに反駁しえぬ事実として奇蹟が目の前にあらわれたとしても、その事実を認めるくらいなら、むしろ自己の感情を信じないだろう。また、もし事実を認めるとしたら、ごく自然な、これまで自分が知らなかったにすぎぬ事実として認めるにちがいない。」
だが、この紹介はイワンの人物像に近く、神に心酔するアリョーシャの純真さはこそばゆいぐらいだ。ひょっとすると、アリョーシャが現実主義に目覚めていく様子を、後編で描く予定だったのかもしれない。いくら神に恋焦がれたところで、人間は俗世の側にいる。もし、後編が存在したなら、もっと主人公らしい、もっとカラマーゾフらしい俗の姿を曝け出したのかもしれない。
ちなみに、アリョーシャが修道院を出て、リーザとの愛に傷つき、革命家になって皇帝暗殺の計画に加わり、断頭台にのぼることになっていた、という説もあるそうな。本書にも、アリョーシャと車椅子生活の長いリーザとの純愛が描かれるが、その扱いが中途半端な気がしなくもない。
また、研究家ヴェトロフスカヤは、神の人アレクセイ伝説との関連を指摘しているという。神の人アレクセイとは、4,5世紀のローマの苦行者のこと。名門の貴族に生まれ、妻とむつまじく暮らしていたが、思うところあって家出し、荒野で修行を積んで帰宅すると、妻も家族も彼であることに気づかず愚弄し、ついに死ぬ直前に名を明かすという。ヴェトロフスカヤの見解は、この伝説に主人公アリョーシャの運命を重ねようとしたのではないかというもの。アリョーシャが何に目覚めていくのかは知らんが、偉大な小説は作品が完成するまでの過程までも伝説にしてしまうんだから、敵わん!

2. 長老制度と聖人の遺体
長老制度は、ロシア正教において歴史的に微妙な存在らしい。長老がロシアの修道院に現れたのは、18世紀頃だそうな。ドストエフスキーの生きた時代から百年も経っていない。東方の正教会とはギリシア正教のことだが、長老制度はシナイやアトスに遥か千年も昔から存在していたという。ある説によると、古代ロシアにも存在していたとか。13世紀から15世紀のタタール支配、あるいは動乱、そしてコンスタンティノープル陥落などで東方との交流が遮断された結果、長老制度が忘れ去られ、途絶えたという。復活したのは18前世紀の末、偉大な苦行者の一人とされるパイーシイ・ヴェリチコフスキーとその弟子たちによる、ほんの一部の修道院だけだという。ロシアでは新制度として迫害さえ受けてきた制度で、特に栄えたのはコゼーリスカヤ・オープチナ修道院だという。
本物語では、自己の意志を完全に放棄し、長老の服従下とする思想が、アリョーシャを通して描かれる。アリョーシャにとって長老ゾシマは聖人なのだ。だが、長老とて亡くなる。腐敗、腐臭を放つ聖人の遺体をどういう目で眺めているのか?
「長老の遺体がたちどころに快癒の奇蹟を起すどころか、反対にあんなに早く腐敗しはじめたというだけの理由で、こんな悲しみや不安が心に生じうるものだろうか...」
聖人伝説には、遺体が腐敗を示さなかった事例も少なくない。その奇蹟が、修道僧たちに感動に満ちた神秘性を与える。聖人として心服していれば、腐臭も知覚が受け付けないというのか?それとも、腐臭を感じたならば、それこそ他の僧たちに尊敬の念が足らないと罵られるのか?聖人伝説を創作するには、防腐処理も欠かせない。信者は無条件の信念のためになんでもやる。教会や修道院という知性や理性の集団でさえ。俗人は、偉人に死んでもなお重荷を背負わせようとする。
また、神父の間にも派閥が生じ、長老を嫌う者もいれば、誹謗者もいる。優れた才能の持ち主が故に、恨みや妬みを買うのが俗界の掟だ。思惑が絡めば、防腐処理も手抜きをする。腐敗、腐臭を感じるのは俗人の自然の能力であって、むしろ奇蹟は神への冒涜となろう。長老ゾシマの遺体が腐臭を放てば、まさに自然に帰した証拠である。
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」... ヨハネの福音書第12章

3. 無神論 vs. 教会信仰
プラトンは、無神論の誤った考えを三つ挙げた。一つは、神が存在しないと考えること。二つは、神は存在するが人間には無関心と考えること。三つは、犠牲や祈願によって神の機嫌がとれると考えること。しかし、神を崇めるほとんどの者が、この三つ目に憑かれる。無神論者だって、すぐに有神論に鞍替えする。神の代理人と称する人間の多さには驚くべきものがある。信仰の恐ろしさは、病的な興奮にまで高められること。パスカルは言った、「人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない」と。限りない神の愛をすっかり使い果たすほどの大罪を、人間が犯せるはずもない、と信じたいものだが。おいらだって、無神論者だし、無宗教者だし、ついでに泥酔者だ。葬式では、ちょいとばかり仏教に世話になるものの。だからといって、宇宙論的な絶対的な存在を信じないわけではない。宇宙法則としての到底敵わない真理のような存在を。それを神と呼ぶことに抵抗を感じるだけだ。
「18世紀に一人の罪深い老人がいたんだが、その老人が、もし神が存在しないのなら、考えだすべきである、と言ったんだ。そして、本当に人間は神を考えだした。ここで、神が本当に存在するってことは、ふしぎでもなければ、別段おどろくべきことでもないんだ。しかし、人間みたいな野蛮で邪悪な動物の頭にそういう考えが、つまり神の必要性という考えが、入りこみえたという点が、実におどろくべきことなんだよ。」
教皇グレゴリウス7世は、ローマ教皇のみが正当で、普遍的な教会の主であり、教皇のみが新しい法令を制定することができ、教皇が世界の無条件の主であると唱えたという。以来、ローマ教会はウルトラモンタニズムへと邁進してきた。ウルトラモンタニズムとは、「山の向こう側」という意味で、アルプスの向こうから押し寄せる教皇史上主義というわけだ。教皇とは、凶行に走るものらしい。
ロシアでは、無神論だの、革命だの、と叫ぶ社会主義者たちが旺盛となる時代。教会や聖職者は、国家の中で厳密な地位を占め、教会思想そのものが国家に組み込まれる。キリスト教徒の社会主義者は、無神論の社会主義者よりも、ずっと恐ろしい。あるいは、宗教に取り憑かれた革命家は、自由主義の革命家よりも、ずっと恐ろしい。ヨーロッパの自由主義やロシアのディレッタンティズムでさえ、社会主義とキリスト教を混同するという。敬虔な愛を盲目な愛と混同すれば、まるで地上のサタン!正義を宗教で規定しようとすれば、集団的暴力を加速させ、民衆裁判や公開リンチの類いに蝕まれる。このような集団的信仰を編み出す教会が、いったい何を救ってくれるというのか?懐疑心旺盛な泥酔者を、どうか説いてみてくれ!ドストエフスキーよ。
本書は、その答えとまでは言わないにしても、それらしい事をシンプルに語ってくれる。
「肝心なのは、己に嘘をつかぬこと。」
己の嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなり、自分をも他人をも軽蔑するようになるという。誰も尊敬できなくなれば、人を愛することをやめ、愛を持たぬまま心を晴らし、気を紛らわすために情欲や享楽に耽け、ついには罪業たる畜生道にまで堕落すると。すべては、絶え間ない嘘、自己欺瞞から生じるというわけか。
「おのれに嘘をつく者は、腹を立てるのもだれより早い。」
腹を立てることが、時には非常に心地良いものとなる。理性を自負して憤慨することが格好いいもんだから、腹を立てることに快感を求めたりする。叱られるより叱る立場の方が見栄えがいいもんだから。己の美学のために腹を立てる、とでもしておこうか...

4. イワンの叙事詩「大審問官」
さる修道院の詩に「聖母マリアの苦悩の遍歴」というものがあるそうな。聖母が地獄を訪れ、大天使ミハイルの案内で様々な苦悩を見て回る。その中に、火の池に落ちた二度と浮かび上がれぬ大罪人もいて、「神もすでに彼らを忘れたもう」という深みのある表現となる。それでも、聖母は泣きながら神の前にひれ伏し、地獄に堕ちたすべての者に分け隔てなく恵みを乞う。神は、聖母の息子キリストの釘付けされた手足を指し示し、あの子の迫害者たちを赦せるか?と尋ねると、聖母はすべての聖人、殉教者、天使たちに、自分と一緒にひれ伏し、すべての者に分け隔てなく恵みを乞うよう命じる。こうして、聖母の願いは神に聞き入れられ聖霊降臨となる。「主よ、こう裁きたもうたあなたは正しい」と叫んで。
しかしながら、宗教改革が生じると、異端審問の恐ろしい時代へ突入し、壮麗な火刑場で異教の徒を焼きつくす。異端とされたキリストを磔に処した愚かさは、その数十倍の復讐劇とされてきた。人間どもは神の名の下で悪魔と化すが、それでも神は沈黙してこられた。神を目覚めさせるには、これほどの残虐行為では足りぬというのか?自己の自由を主張する者が他人の自由を迫害するとは、これいかに?
イワンは言う...「人間は、もともと反逆者として作られている」と。人間への尊敬がもっと小さければ、人間に対する要求ももっと小さいに違いないと。人間を偉大な存在とするから、ますます神の反逆者に育てると。永遠の調和のために子供の苦しみを必要とするなら、そんな高い入場料を払わなければならぬ未来社会などいらないと。
アリョーシャは弁明する... そんな愚かな行為をするのは、ロシア正教ではなく、ローマのことだと。せいぜいイエズス会のような連中だと。
イワンは続ける...
「人間は良心の自由などという重荷に堪えられる存在ではない。彼らはたえず自分の自由とひきかえにパンを与えてくれる相手を探し求め、その前にひれ伏すことを望んでいるのだ。だからこそ、われわれは彼らを自由の重荷から解放し、パンを与えてやった。今や人々は自己の自由を放棄することによって自由になり、奇蹟と神秘と権威という三つの力の上に地上の王国を築いたのだ。」
すべての悪行を赦せる者がいるとすれば、それは、無実を背負って自らの血を捧げた、あのナザレの人のみ。無実を承知で、黙って犠牲となれる者のみ。大審問官の弾劾に対して、沈黙を守り続け、最後もやはり無言のまま接吻をする。これはいったい何を意味するのか?大審問官が展開する支配者の論理ぐらい、あの高貴なお方はお見通しよ。自由によって生じる社会風潮も、その風潮に流された判決の責任を背負う大審問官の苦悩も。おまけに、大審問官自身が心の奥底でキリストの正しさまでも信じながら、政治の手っ取り早い手段によって処刑しようとしていることも。あのナザレの人はすべてを見抜いていたからこそ、沈黙を通したのかもしれん。
今日、いつの時代にもまして人々は完全に自由であると信じきっている。しかし、自由の暴走ほど恐ろしいものはない。道徳家は、人間の自由を支配する代わりに、いっそう自由を増やしてしまった。曖昧なものや疑わしいものばかりを選び、自由は自ら制するものではなく、多くの自由を見出し、拡散させ、もはや手に負えぬものとなった。自由には、義務と責任が伴うことをすっかり忘れ、選択肢ばかりを増殖させてしまった。神は、本当に人間に自由を与えようとしているのか?無条件に信じる奴隷の方が可愛いと思っているのでは?神とは、実は悪魔と一体ということはないのか?あるいは、メフィストフェレスと無二の親友ということはないのか?二千年以上前、ヘロデ大王の幼児虐殺は、20世紀に大量破壊兵器の時代を迎えて市民虐殺となって見事な抽象化を体現した。21世紀になってもなお、大量破壊兵器に夢を託す政治家で溢れている。
「人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものもない。」

5. 思想の姦通者
裁判官のプライドは高く、自尊心の強い性分が、世俗のヒーロー役を演じ、誤審へと邁進する。法廷でさえ洒落たシャツを着て伊達男を気取るドミートリイは、悪役にうってつけ。証人たちも、たちまち危険な存在となる。些細な状況から想像を膨らませ、証拠を歪ませる。こうなると集団的ヒューマニズムほど恐ろしいものはない。そこに出世主義が結びついたら目も当てられない。
興味深いのは弁護士側の弁論である。明白な事実は、フョードルが死んだということだけ。強欲な資産家が死ねば、それが殺人事件となり、しかも親殺しと風潮される。そこには先入観があり、そもそも殺人事件などなかったという主張である。推定無罪もここまでくると...
尚、1875年、保守的な社会評論家マルコフが、「19世紀のソフィスト」という一文を発表し、その中で、農奴解放後の公開裁判における弁護人を「思想の姦通者」と呼んで反響が巻き起こったという。「思想の姦通者」とは、目的のために白を黒と言いくるめるような詭弁を用いる弁護士を指すそうな。
それにしても、法廷とは奇妙なものである。無実を主張すれば、却って反省がないと見なされ、重罪を課せられる。真犯人が自供するよりも、無実の人が無罪を主張する方が、刑が重くなるとは、これいかに?どうせ処罰を受けなければならならないとなれば、少しでも刑を軽くしようと罪を認めてしまう。そうなると、法廷は悪魔の手先だ。冤罪率というものは、事実上、統計には現れない。真実を知る者は本人だけなのだから。法廷の正当性を、科学的に示すことはできるだろうか?本当に無罪ならば、それを主張し続けるしかないわけだが、既に処罰を受けている者は根気が続くだろうか?せめて、模範囚となって仮釈放に期待するぐらいか。法廷もまたメフィストフェレスと仲がよさそうだ...

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