2015-09-20

"作家の食と酒と" 重金敦之 著

あらゆる文化は大衆化すると質の低下をもたらすが、飲食文化は違うらしい。芸術の材料がふんだんに鏤められると、作家たちは食卓の行儀作法よりも、美味く食すための段取りにうるさい。食通でもなく、美食家というほどではないにせよ、そこに独特の美学を抱く才は一流ときた。能書きを垂れるのも、一つの作法というわけだ。なるほど、文章術とは、食への執着、酒へのこだわりから生まれるものであったか。こだわりとは難癖をつけることであったか。含蓄とはウンチクの類いであったか...
「酒は百薬の長」というが、「酒は百毒の長」とも言う。大食短命を説く言葉を聞いても、大食漢を賛美する言葉はあまり聞かない。食や酒を満喫しながら、いかにおおらかに生きるか... これは、なかなかの難題だ!今宵は、芸術家たちの飲食哲学を堪能しつつ、濁り酒をやりながら茶化すとしよう...

魚料理に癖と臭みはつきもの。それは持って生まれた食材の個性であり、身体に害を及ぼさない限り、癖も味わいたい。しょうがや酢味噌の味ばかりが口に残り、何の魚だったか分からなくなることも、しばしばあるのだから...
人間にも癖がある。それが個性であり、持ち味であり、魅力でもある。ただ、才能豊かな人は、自分の個性が手に負えないということもあろう。世間の枠組みからはみ出すぐらいでなければ、芸術は生まれない。人格円満にして当たり障りのない聖人君子に、小説や随筆なんぞ書けるはずもない。ましてや、幸福な人間に。作家とは、自分の不幸を舐めるように愛しながら書く、そのような境地で生きている人種であろうか。
「嘘を書く」といえば聞こえが悪いが、「演出する」といえば聞こえがいい。食生活の中にもちょっとした演出を仕掛け、五感を総動員しながら食の愉悦を物語る。行間の隙間から粘性に満ちた心理描写、彼らの感受性は日常の何気ない出来事ですら敏感に、しかもディープに反応するだけに、精神を病むこともあろう。何を見ても面白がるという性癖は、ある種の職業病にも映る。
自我を狂わせるほどの執筆エネルギーは、どこからくるのか?小説というものは、恨みや反骨精神だけで書けるものなのか?彼らは、どこかに人間嫌いな側面と社会への反発心を覗かせる。社交的な人間嫌いでもなければ、世間の激流を生きては行けまい。凡人は目の前の幸せにも気づかないものだが、その分、不幸にも気づかなければ同じことかもしれん...

1. 松本清張伝
著者は、ジャーナリズムの基本は知的好奇心にあるとジャーナリズム論を講義したところ、なかなか理解されないと嘆く。
「いささか不謹慎ではあるが、ジャーナリストは戦争でも災害でも、ある意味で面白がっているところがある。」
面白がる対象は、それこそ森羅万象。作家とは、面白がる部分を書き終えると、その作品には興味がなくなってしまい、すぐに次の題材に気移りするものらしい。凡庸な酔いどれですら、仕事の終盤が見えてくると、ホッとして次の興味へ向かう。
その意味で、清張作品の結末は「技巧的な突き放し」であるとか、「判断を読者に委ねている」といった感があるという。あるいは、「新たな迷宮を作り出す」一方で「豊かな余韻を楽しめる」といった読後感もあると。
また、小説にはリアリティが重要だと、しつこく言っていたそうな。小説のリアリティとは生活感のことか。
「人間の内面の思索をあれこれ書くよりも、ちょっとした運命のいたずらによって逆境に立たされる苦悩や冷酷な組織の論理に翻弄される人間の恨みを好んで書いた。現実味のある動機を重視した結果、登場人物の存在を身近なものにした、とは多くの人が指摘するところだ。」
その反面、他人の栄誉や栄達には冷たく、納税額でもライバル意識を燃やしたという。82歳を過ぎても現役で、週刊誌に小説を二本も連載するとは前代未聞。嫉妬心が飽くなき挑戦意欲を掻き立て、生涯を通して小説家の緊張感を持続させたようである。芸術とは、個性を存分に体現する場であり、こだわりとは、ある種のわがままである。そして、嫉妬心をロマンティシズムに変えるのも、小説家の資質であろうか...
「他人の幸福を、自分の幸福に置きかえる余裕や度量よりも、そねみとひがみが伏流し、安穏とか愉悦とかいうことと生涯、無縁であった。そういう意味では人生をきわめて不器用、訥直(とっちょく)に送られたのだと思う。」

2. 長寿の秘訣???
日本画家、横山大観は日本酒好きで有名だそうな。広島県三原市の名酒「醉心」を好み、91歳まで飲み続けたという。「絵を描くのも、酒を造るのも芸術だ!」と熱弁をふるう酒豪ぶり。
一方、まったく酒が飲めずに長生きした文人が、小島政二郎だという。その分、食通だったらしい。老舗菓子屋「鶴屋八幡」のPR誌「あまカラ」に連載したエッセイ「食いしん坊」には、自分の下戸ぶりを書いているとか。
「悲しいことを言うようだが、私くらいの年配になると、もうあと幾度晩飯をおいしく食べる機会があるか知れたものだ。だから、日に一回の晩飯だけは、何かうまいものが食べたい。」
これは60歳頃の文章だそうだが、それから十年後、30歳も若い伴侶を得て、百歳の長寿をまっとうする。文豪ゲーテも、70代で二十歳前の娘に求婚した。やはり長寿の秘訣は、恋でしょうか!
内田百閒は、小学校に入る前から煙草を吸い、好きなビールとなると半ダースは飲み、それでいて83歳まで生きたという。漱石を敬愛し、芥川とも交流があったようで、その評価は様々で、大文章家から大酒豪、吝嗇漢、借金魔、大変人など毀誉褒貶が著しいとか。そして、この記述こそ酒道というものか。
「強い酒を飲んで酔ふのは外道である。清酒や麦酒なら酔つてもそれ程の事はない。しかしお酒にしろ麦酒にしろ、飲めば矢張り酔ふ。酔ふのはいい心持だが、酔つてしまつた後はつまらない。飲んでゐて次第に酔つて来るその移り変はりが一番大切な味はひである。」
このように長寿をまっとうする作家がいる一方で、「全日記 小津安二郎」には、こんな記述がある。
「酒はほどほど 仕事もほどほど 余命いくばくもなしと知るべし 酒ハ緩慢なる自殺と知るべし」

3. 美の気品とは
挿絵画家、風間完の人物画には、美の気品のようなものを感じ、なんとなく癒やされる。本書は、彼の印象を漢字にすると「飄」の字を選ぶと語り、さわやかな気風の持ち主であったと評している。画家ではなく、挿絵画家と称されることにまったく屈託がなかったといえば嘘になろうか。実際、清潔感と美意識は挿絵の域を超え、日本画という言うべき気品を漂わせている。瀬戸内寂聴は、風景画からは「街角の匂いが漂い、立ち話している人の会話が聞こえてくる」といい、人物画については、こう語ったという。
「女性の体臭や肌のぬくもり、手足の冷えまで伝わってくるけど、清潔だからいいのよ。それが本当のエロティズムなの。」

4. 祗園に夢をはせて
日本の料亭文化は、色町の伎芸とともに発展してきた、世界でも稀有な特徴を持っているという。色町といえば京の祗園、「お茶屋」という上品な響きにイチコロよ。生涯で一度、お座敷遊びをしてみたいと夢見ている。
「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」とは、山口素堂の句。目には青葉が広がり、耳には山ほととぎすの声、口には新鮮な鰹を味わう... とは、まさに五感の愉悦を堪能する贅沢。目の前に淑やかな女性がいて、気品ある談笑付きとなれば、食のエロティズムを堪能できるであろう。
一介のサラリーマンでも身元さえはっきりしていれば、気楽にお茶屋に上がれるのが祗園の一筋縄ではいかない魅力だそうな。その寛容さは、どこからくるのだろうか?祗園町は女系家族で、夫以外の子供を産んでも是認する風土があるという。乱暴に言えば、父親の存在はどうでもいい。それは、性道徳や家族意識が乱脈だという意味ではなく、伝統的に女性中心の社会だということ。父親の名前をあからさまにできない女性がいるのも珍しくない。また分かったからといって吹聴するようなこともしない。これが、祗園の仕来りだそうな。早くから女性の自立が植え付けられ、むしろ進んだ社会とうわけか。世間の常識や道徳の規範から多少ずれていても、それを許容する寛大な空気が漂っているのが祗園という町だそうな。
渡辺淳一の小説「化粧」に登場する頼子と里子のイメージは、まさに祗園。性愛文学の原点は京にあったか。彼の持論では、結婚、出産、離婚を経験するのが、女のフルコースだという。世間で負け組と呼ばれる人も、祗園ではカテゴリーが逆転する。
では、男のフルコースはなんであろうか?破産、失業、三行半を喰らう... やはり男は役立たず。そりゃ男性社会でもなければ、生きてはいけんよ...

5. カレーライスとライスカレー
カレーライスとライスカレーの違いとは何か?こんな話題が小学校時代にあったような気がする。古典的な説では、ご飯とカレーが別々に出されるものがカレーライス、ご飯の上にカレーをかけて出されるものがライスカレーとされる。対して、向田邦子は、金を払って外で食べるのがカレーライス、自分の家で食べるのがライスカレーと定義したという。なるほど、生活感が出ている。向田説に一票入れとこう...

6. スローフードとファーストフード
「ミスター円」こと榊原英資の著書「食がわかれば世界経済がわかる」には、こう書かれているそうな。
「世界主要国の食の形態を見ると、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどは食を資源と捉え、日本、中国、フランス、イタリアなどは文化と考えてきた。前者は食の工業化を推進し、ファーストフードを生み出した。」
世界に広まるスローフードとは、ファーストフードのような合理的なものに対抗して、地方の食文化や食材を見直す運動である。日本では「食育」という用語があって、明治時代に村井弦斎が既に用いているという。だが、こうした耳障りのよい運動も、すぐに企業や政治と結託して逞しい商魂を見せる。本書は、その貪欲さを見直すのも、スローフード運動の精神ではないか、と疑問を呈する。
ちなみに、宮本徳蔵の著書「たべもの快楽帖」には、ボストン名物のロブスターを食した体験から、「アメリカ人は胃袋で味わい、日本人は舌先で味わう」と説いているという。なかなかの達識だ。

7. 秋の季語「ボジョレー・ヌーボー」
毎年11月になると、夜の社交場方面から「ワインと紅葉の夕べ」と題して案内状が届く。そう、ボジョレー・ヌーボー解禁日だ。だが、おいらには場違いなイベントである。なにしろワインの味がわからない。一杯何万円もするワインを飲ませてもらったことがあるが、確かに風味も上品で美味い!しかし、どうしても値段ほどの価値がわからない。その代わり、夏の季語「浴衣祭」の出席は欠かさぬよう釘を刺されている。

8. 行付けと隠れ家
誰にでも、行付けの店や馴染みの店が一つや二つはあろう。なんとなく波長の合う場所と言った方がいい。飲み食いする店だけでなく、本屋、食料品店、薬局、病院など。
場所に限らず道順にも癖が現れ、どこに行こうかと考えているうちに、いつの間にか同じ店へと足が向く。注文する品まで一緒だったりして... いつものやつ!こうした行動パターンにも、ある種の美学が隠れている。慣習とは、ある種のこだわりであったか。
そこで、贔屓の店にはあまり有名になってもらいたくない。いつまでも隠れ家のままでいてほしい。大衆の眼に晒すことで、店のコンセプトが壊れることもあろう。常連さんを大切にするために、わざと宣伝しない店も少なくなく、ミシュランガイドへの掲載を断る店もあると聞く。

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